日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

綿貫観音山古墳|群馬県高崎市 ~出土品が国宝決定した石室未盗掘の後期前方後円墳~

2020-08-21 09:40:48 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県高崎市綿貫町1752




現況


墳丘登頂可能
石室侵入通常不可能

史跡指定


国指定史跡
指定日:昭和48年4月14日

出土遺物が見られる場所


群馬県立歴史博物館

 

2.諸元                             


築造時期


前方後円墳集成編年:10期

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:97m
段築:2段築成
葺石:なし
埴輪:あり

主体部


横穴式石室
玄室と羨道の羽子板形(全長12.5m)
角閃石安山岩の切石積みの壁面と井町産出の牛臥砂岩の天井石

出土遺物


超豪華(未盗掘)
2020年に国宝決定

周堀


中堤付きの2重(周堀を含めた全長は178m)

 

3.探訪レポート                         


2017年10月25日(水)



この日の探訪箇所

水殿瓦窯跡 → 金鑚神社 → 本郷埴輪窯址 → 白石稲荷山神社 → 皇子塚古墳 → 平井地区1号古墳 → 七輿山古墳 → 藤岡歴史館 → 吉良上野介陣屋跡 → 伊勢塚古墳 → 前橋市総社歴史資料館 → 綿貫観音山古墳 → 浅間山古墳 → 大鶴巻古墳


 今度クラツーで案内予定の総社古墳群の下見を終えたところでお昼になりました。

 とりあえずお昼ご飯。

 よし、ここにしよう。



 今日もやっぱりラーメンだ。



 お腹いっぱい幸せ気分になったので、午後の探訪を開始します。

 午後はとくにノルマもないので、今まで行ったことがない古墳へ行ってみようかと思います。

 今日は朝から天気が今一で、あまり気分が乗りませんが、高崎の綿貫観音山古墳へ行きます。

 はい、到着。

 後期古墳らしく、前方部と後円部の高さが伯仲しており、こう見ただけだとどっちがどうだか分からないですね。



 墳丘はきれいに整備されていて良かったです。



 説明板を読んでみたいと思いますが、ここの説明板は結構読みごたえがあります。



 墳丘長は97m、さきほど真横から見て感想を述べた通り、前方部の高さが9.1mで、後円部の高さが9.5mで、2段築成の墳丘はすべて盛り土で築造されています。

 周堀を含めると全長178mに及び、周堀は2重でした。

 葺石は認められず、埴輪に関しては、2段目テラス部分と墳頂で確認されています。

 素敵な遺物が見つかっており、群馬県立歴史博物館で展示されていますが、なんとこの古墳は未盗掘だったんです!



 観音山古墳の作り方が書かれています。



 平面図。



 前方部は北西方向を向いています。

 後期(6世紀)の古墳の場合は、前方部の幅がもっとダイナミックに拡大することが多いのですが、綿貫観音山古墳の場合は、前方部の幅が63mで、後円部の径が61mということでほぼ同じになっており、6世紀後半に築造されたのに5世紀以前の古風な古墳の雰囲気を残しているところが面白いです。

 二重堀の外側に関しては一部分が残っていますね。

 綿貫観音山古墳は埴輪も売りのようですよ。



 後円部を見ます。



 もう一箇所説明板があった。

 さっきより文字書きが多い平面図。



 こちらの説明板にも石室の説明があります。



 築造時期は6世紀後半ということで、この頃は上毛野地域にも横穴式石室が普及しています。

 石室の全長は12.65mということで、県内ではトップレヴェルの大きさで、玄室と羨道の2室構造で平面形は「羽子板形」となり、注目すべきは玄室が広くとってあることで、日本最大の石室を持つ五条野丸山古墳の石室の平面形との類似が指摘されています。

 石室は、榛名山二ツ岳から噴出した角閃石安山岩を切石して積み上げていますが、天井石は吉井町産出の牛臥砂岩を使用しており、一番重いものはなんと22トンもあります。

 こちらは拡大図。



 丁寧に「補修・新石」と書いて色分けして書かれていますね。

 綿貫観音山古墳は現在の姿に整備されるときに、石室をいったん解体したのです。

 そして、使える石はそのままに、使えない石は新たな石を用意して組み直したのですが、それをこのように図示するのはかなりマニア向けですね。

 素晴らしい。

 では、墳丘へ行ってみましょう。

 後円部側から。



 周堀、広いですね。



 中堤も復元されています。

 ところで、綿貫観音山古墳の説明板では「周堀」と表記されていますが、畿内の古墳では一般的に「周濠」と表記することが多いです。

 ただ、「濠」という文字は、水が張られていることを表していますから、関東のほとんどの古墳のように水堀ではない場合は「周濠」は適しません。

 そのため「周堀」言っておけば無難なんですが、「しゅうぼり」と発音するのはなんかカッコ悪いので、私は「周溝」と呼ぶことが多いです。

 でもそうなると、「幅や深さからしたら溝よりも堀のほうが妥当じゃないか」という意見もあったりしますし、そもそも「溝」という字も水が張られている意味があって面倒くさいですね。

 まあどうでもいいでしょう。



 前方部側に回ってみます。



 こちら側の周堤部分からは、外堀の復元が見られますね。



 前方部側にも階段がありますから登ってみましょう。



 古墳を見学に行って、階段があった場合は墳丘の法面には入らず、階段を使って上り下りするようにしましょうね。

 天気が悪くて残念ですが、榛名が見えます。



 前方部に来ました。

 後円部を見ます。



 意外と墳頂の幅は細いですね。

 後円部墳頂。



 南の方を見ます。



 後円部から前方部を見ます。



 前方部の方向を榛名のどこかのピークに合わせているようには見えませんが、『東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳』によると、冬至の日の日没方向を向いているそうです。

 しかしこうしてきれいに整備されていると大変ありがたいです。



 下草刈りも結構大変な作業ですから、そういった作業をしてくださる方がいるお陰で私たちは快適に見学ができるのです。

 それでは石室へ行ってみましょう。



 あー、残念。

 石室は通常は入れないようになっているようですね。



 カメラを突っ込んで内部を撮影します。



 うん、切石積みの素敵なお部屋。

 説明板があります。



 今こうして見えている壁面の切石ですが、ここにも書いてある通り、1個の石にある6面のうち、内部から見えず積み上げるときにも影響のない奥の1面は未加工なんですね。

 完全なブロック状の石にして積み上げるわけではないのです。

 切石積みと表現していますが、昔はカッターなんてありませんから、石は割ったあとに、削ったり叩いたりして加工したのです。
 
 なお、『東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳』によると、石をブロック状に加工する作業は、後円部墳頂西側くびれ部分で行われていたようで、そこからは角閃石安山岩の切りくずが見つかり、そこから石室側部に向かって工事用の斜路が設けられていたそうです。

 また、同書によると、壁に使用された石の数は567個で、石室を組み直した際に再利用できたのは424個で、綿貫観音山古墳の石室が見つかった際には天井石が落ちて石室内は半ば崩壊しており、石室の補修に携わった石工の話によると、天井石の重さに対して、壁石の角閃石安山岩の強度が不足しており、石室を広く設計したこと(広いとそれだけ壁面に力がかかる)も原因ではないかということです。

 石室の解体修理は一人の石工さんが一貫して行い、3年かけて現在の姿にしたそうです。

 凄い仕事ですね。

 埴輪についての説明板もありました。



 2段目テラス部分にめぐっている埴輪は、場所によってタイプが違っており、場所ごとにストーリーを設定していたようです。

 遺物を見に群馬県立歴史博物館へ行ってみたいと思いますが、今日はちょっと時間がないので、近くの浅間神社古墳だけチラッと見て家に帰ろうと思います。

 ※群馬県立歴史博物館は後日見学しました。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」119 東アジアに翔る上毛野の首長 綿貫観音山古墳』 大塚初重・梅沢重昭/著 2017年


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