*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県高崎市倉賀野町313ほか
現況
墳丘登頂可能
史跡指定
国指定史跡
指定日:昭和2年4月8日
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
前方後円墳集成編年:4期
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:171.5m
段築:後円部3段、前方部2段
葺石:あり
埴輪:円筒Ⅱ式
主体部
竪穴系のはず(未調査)
出土遺物
周堀
盾形(あるいは馬蹄形)の二重で、中堤では葺石と円筒埴輪が認められる
3.探訪レポート
2017年10月25日(水)
この日の探訪箇所
水殿瓦窯跡 → 金鑚神社 → 本郷埴輪窯址 → 白石稲荷山神社 → 皇子塚古墳 → 平井地区1号古墳 → 七輿山古墳 → 藤岡歴史館 → 吉良上野介陣屋跡 → 伊勢塚古墳 → 前橋市総社歴史資料館 → 綿貫観音山古墳 → 浅間山古墳 → 大鶴巻古墳
⇒前回の記事はこちら
綿貫観音山古墳の見学を終え、そろそろ帰らないとならない時刻になりましたが、浅間山古墳だけは見ていきたいです。
あー、また雨が降り出した・・・
住宅街の中に大きな墳丘が見えました。
どこか車を停められる場所はないかなあ・・・
あ、標柱と説明板があります。
停められる場所がないので、車から降りずに撮影します。
※横着したためこんな写真になってしまいました(だめだこりゃ)。
ここも周溝が広いですね。
周溝に沿って細い道路がめぐっていますが、周溝の形状は盾形あるいは馬蹄形で二重になっており、中堤もありました。
※この探訪の翌年に刊行された『群馬の古墳物語 下巻』によると、堤から外堀にかけて発掘調査されたことがあり、中堤の両側は河原石によって葺石が施されており、上部には円筒埴輪が並べられていました。
※同書で右島先生が述べている通り、中堤でさえも見事な造りであることが分かっているので、未調査である墳丘本体がどうなっているのか知りたいですね。
もう少し進みます。
側面に来ました。
左が後円部で右が前方部。
引き切れていないので全体が収まりません。
浅間山古墳は墳丘長171.5mを誇る東日本で3番目に大きい前方後円墳で、4世紀終わりころの築造とされています。
5世紀になると東日本最大の太田天神山古墳が築造されますが、それより2世代前の上毛野でのナンバーワンの人物が葬られたのでしょう。
『東国から読み解く古墳時代』で若狭徹先生は太田天神山古墳は「古市型」、浅間山古墳は「佐紀形」と分類していますが、両古墳の時代的な大きな違いは、ヤマト王権のいくつかの画期の一つである応神天皇の即位の前か後かということになります。
私は、「本州西部広域連合」によって結成されたヤマト王権が景行天皇の時代に最大勢力となり、南東北(名取市の雷神山古墳の被葬者がその時点での東北ナンバーワン)まで影響下に置き、応神天皇がヤマト王権に婿入りして大王となる前の段階でのヤマト王権の東国における最大の支持者がこの浅間山古墳に眠っていると考えています。
なお、浅間山古墳は前方部を南東方向に向けています。
2段築成の前方部の方を見てみます。
大きいですねえ。
墳丘だけでも大きいですが、二重周溝まで含めると、墓域は300m×250m近い範囲になります。
後円部は3段築成です。
後円部の径は105mということで、埼玉古墳群の丸墓山と同じですね。
ですから、丸墓山に前方部をつけるとこれくらいの大きさになるのかもしれませんが、丸墓山は高さが18.9mもあり、一方この浅間山古墳の後円部の高さは14mです。
※丸墓山古墳(2017年8月6日撮影)
どうやら、道路は墳丘の周りを全周していないようですね。
戻ろう。
また標柱の地点に戻ってきました。
ダメですねえ。
この古墳は車で来るには不向きですね。
いつもであれば少し遠い場所でもいいので車を止めて見学するところですが、今日はもうそこまでする気がなくなってきました。
いずれ、この周辺は歩いてめぐってみようと思います。
ついでなので、もう1基、大鶴巻古墳を見て帰ります。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『東国から読み解く古墳時代』 若狭徹/著 2015年
・『群馬の古墳物語 下巻』 右島和夫/著 2018年