*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県高崎市元島名町162
現況
島名神社
史跡指定
高崎市指定史跡
名称:将軍塚古墳 附 周濠出土の底部穿孔壺型土器等一括資料
指定日:昭和48年1月31日(附は平成3年3月1日)
出土遺物が見られる場所
高崎市歴史民俗資料館
2.諸元
築造時期
4世紀後半(説明板)
3世紀第3四半期(『関東における古墳出現期の変革』)
被葬者像
墳丘
形状:前方後方墳
墳丘長:96m(現地説明板)
墳丘高:後方部約8.6m/前方部約4.7m(説明板)
段築:前方部2段、後方部3段と想定(『群馬の古墳物語 下巻』)
葺石:なし
埴輪:なし
周溝
発掘調査の結果、底面は有段であったことが分かった
主体部
後方部墳頂から2m下に1.8m×0.6mほどの竪穴
周囲に粘土が見られたことから粘土槨であったと想定
出土遺物
主体部:人骨、獣形鏡、碧玉製の石釧、刀、ヤリガンナの残欠、鉄片や木片
墳丘裾:底部穿孔壺、S字状口縁台付甕
3.探訪レポート
2013年5月5日(日)
前日から私は比田井克仁著の『関東における古墳出現期の変革』を読んでおり、弥生時代から古墳時代に移り変わるころの関東地方を調べていました。
関東地方では前方後「円」墳とは違うタイプの前方後「方」墳が、前方後円墳に先駆けて数多く築かれるのですが、該書の中では関東と濃尾地方が関係を濃密にした時期(3世紀第3四半期)のいくつかの東国の前方後方墳の名前が挙がっています。
その中で最初は長野県松本市の弘法山古墳を見てみたいと思いました。
そしてせっかく行くからには博物館も見てみたいと思いました。
しかし調べてみると、松本市の考古資料を集めている考古博物館は、とても辺鄙なところにあり、何と休日はバスが走っていないのです!
公共交通機関を使って来る人は平日に来いということですか。
まあ、車社会の土地なので仕方がないですね。
※註:弘法山古墳や松本市考古博物館にはこの時から5年経った2018年11月になってようやく念願叶い訪れることができました。
⇒弘法山古墳のページはこちら
ということで、別の古墳にしようと思ったところ、群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳が良いと思いました。
高崎であれば八王子から八高線で行けます。
しかも高崎には「かみつけの里博物館」という施設があり、周りには整備された保渡田古墳群があり、いつか行ってみたいと思っていたので、ちょうど良いということで高崎に決定!
八高線に乗り武蔵七党の故地を北上する
5時半に起床して、6時5分に出発です。
コンビニに寄って、おにぎりとお茶と缶コーヒーを買って高尾駅に向かいます。
日曜の早朝ですが、チラホラと人がいます。
ホームには中央本線の松本行きが停まっていました。
115系の長野支社色ですね。
でももちろん今日はこれには乗りません。
ちなみに松本へはこれで3時間半で行けます。
今日まず乗るのは6時21分発の中央快速の東京行きです。
E233系です。
八王子に着くと、今度は八高線に乗り換えます。
6時32分発の川越行きの209系3000番台です。
八高線は通勤でも使ったことがありますが、隣の北八王子に会社や工場がたくさんあるので、平日の朝は一駅だけ凄い混みます。
今日は椅子が全部埋まるくらいの混み具合です。
定刻になりゆっくりと電車は走り始めました。
八高線は単線で心なしかのんびり走るような気がします。
さて、実は私は八高線では拝島までしか行ったことがありません。
初めて行く場所ってワクワクしますよね。
拝島あたりから進行方向左手の車窓を見ると、富士山の頭が見え隠れしています。
箱根ヶ崎を過ぎると、東京都から埼玉県へ侵入です。
埼玉県に入って最初の駅は金子駅で、金子と言ったら、古代末から中世初頭にかけての武蔵の武士団である、武蔵七党のひとつ村山党の一派金子氏の土地です。
武蔵国は埼玉県側である北部側の方が東京都側の南武蔵よりも武士がよく繁茂していました。
高麗川駅に着いたら乗り換えです。
この路線は八王子と高崎を結んだので八高線という名前がついていますが、八王子と高崎の直通電車はありません。
なぜならば、高麗川から北側は非電化区間だからです。
電車は走れないのです。
そのため、ここでディーゼルカーに乗り換えです。
隣のホームにはキハ110系が待っていました。
何となつかしい!
キハ110系は、岩手の釜石線や北上線で何度か乗ったことがあります。
発車するときディーゼルエンジンが唸り声を上げます。
この音もなつかしい・・・
高麗川を7時28分に出ると、私はロングシートに座っていたのですが、前に座っている中年の夫婦がサンドイッチを食べ始めたので、私もおにぎりを食べました。
電車の中で食べるとなんか凄く美味しいんですよね。
おにぎりを食べ終えて、さらに30~40分くらい乗っていると、寄居駅に着きました。
寄居は秩父鉄道も走っています。
そして隣の秩父鉄道のホームを見ると、昔の中央線のようなオレンジの車両が見えます。
なつかしい201系かと思い前を見たら何と201系よりも古い103系じゃないですか!
ここではJR(国鉄)のお古が活躍しているんですね。
あー残念、写真は撮れませんでした。
寄居を出てしばらく進むと、児玉駅に着きました。
ここも武蔵七党の児玉党の故地ですね。
往時、児玉党の武士団もこのような景色を見ながら馬を走らせていたかと思うと、とてもロマンを感じます。
そして車内にいる地元の高校生の男子を見ても、中世の武蔵七党武士団の若武者のように見えてきます。
次の駅は丹荘駅。
こちらもやはり武蔵七党の丹党の勢力範囲ですね。
丹党は丹治党ともいい、天正19年(1591)の九戸政実の乱(岩手県で戦われた秀吉の天下統一の最後の戦い)で政実の軍師として活躍した円子右馬丞元綱も丹党の流れです。
丹荘駅を出て、少し大きな川である神流川を渡ると、いよいよ群馬県、上野(こうづけ)国です。
群馬県に入って最初の駅である群馬藤岡駅では結構人が乗ってきました。
そして群馬藤岡から三つ目が高崎駅です。
8時57分、高崎に到着しました!
おおよそ3時間の旅でした。
意外と近い。
高崎駅には湘南新宿ラインが停まっていました。
E231系ですね。
隣には、185系も停まっています。
改札を出ると、まずはバスの乗り場と時間を確認するために、西口に行ってみます。
正面(西側)には高崎市役所のビルが見えます。
北側にもデパートの高島屋を初めとして商業施設がありますね。
タワーレコード(CD屋)やジュンク堂(本屋)、ミュージックランド・キー(楽器屋)など東京でおなじみの店もあります。
バスの時間はあらかじめ調べてきてはいますが、乗り場を確認するためにバス停に行ってみます。
最初の目的地である元島名将軍塚古墳へ行くには、群馬中央バスの県立女子大行きで、1番乗り場でした。
発車時刻は9時45分なので少し時間があります。
東口も見てみましょうか。
こちらもきれいに整った町になっています。
ヤマダ電気LABIもありますね。
ちなみにヤマダ電機は前橋が発祥ですが、都内の人には昔からメジャーなビックカメラはここ高崎が発祥なのです。
そして、コジマは栃木県、ケーズデンキは茨城県というように、北関東からは家電量販店がいくつも出現しているのです。
実は私は群馬県は今まで長野や新潟に行く際に通過しただけで、町に降り立ったのは今日が初めてです。
群馬県の県庁所在地は前橋ですが、県内で一番人口が多い自治体は高崎市なんですね。
高崎は鉄道の場合も上越新幹線や長野新幹線が停まり、いろいろな線が集まっています。
※註:後で気づいたのですが、車のナンバープレートも群馬と高崎があります。
そういうわけで、今日私は人間の数では群馬一番の町に来たわけです。
少し時間があるので、上信電鉄を見に行ってみましょうか。
入場券を買ってホームに入ると、ちょうど電車が入線してくるところでした。
近づいてきます。
可愛らしい電車ですね。
ホームの先にはいくつか他の種類の電車も停まっています。
右側の電車は昔の東武線にこんな顔をした電車がいましたが、それとは違うかな?
※註:東武顔をしていますが、帰宅後調べたら上信電鉄の自社発注車でした。
いいなあ。
さて、そろそろ良い時間になってきたので、バス乗り場へ向かいます。
今度はあらためて時間を確保して上信電鉄に乗りに来たいです。
入場券は記念に取っておこうっと。
念願の前方後方墳
バスの発車の時刻が迫ってきたので、高崎駅西口のバスターミナルの1番乗り場に行ってみるとバスが停まっていました。
群馬中央バスの9時45分発、県立女子大行きです。
元島名将軍塚古墳は高崎駅からは東の方向にあるのですが、バスは西口から出ているのです。
バスは発車すると、まずは街中を走り、それから国道354号線に乗り東を目指します。
初めての土地でバスに乗るって結構緊張しますよね。
このバスは次のバス停が車内前方の掲示板に表示されないので、降り過ごさないようにアナウンスの声に注意します。
おおよそ15分ほどで慈眼寺裏(じげんじうら)に到着しました。
料金は360円です。
バスを降りると、西に少し戻り上滝町のT字路を右折し北へ向かいます。
バス停から5分ほど歩いたところで、右側前方にこんもりとした森が見えました。
あれが古墳じゃないか?
さらにその先には島名神社の入口がありました。
事前の調べでは、元島名将軍塚古墳の前方部には島名神社の社殿があるということだったので、神社へ行ってみます。
鳥居をくぐります。
すると、古墳らしき土盛りがありました!
標柱と説明板もあります!
ここですね。
間違いないです。
まずは説明板を見てみましょう。
なるほど、古墳の規模は全長96メートルですね。
この大きさは私が住む都内では大きい方ですが、古墳大国の群馬ではとくに驚くほどではありません。
でも、前方後方墳としては大きいほうなのかな?
ちなみに私は前方後方墳を生で見るのは初めてになります。
東国の人間としては、憧れの前方後方墳を見ることができて感動なのだ!
さて、横の石段の上には島名神社の社殿があります。
しかし気持ちが逸るので、まずは後方部に登って見てみましょう。
後方部に登ろうとすると、前方に猫ちんを発見しました。
ちょうど獲物を狙って飛びかかろうとしているところです。
静かに近づいてみると・・・
あ、やっぱり気付かれた。
猫ちんは後方部墳頂に向かって走り去って行きました。
私も猫ちんを追って後方部に登ります。
後方部から前方部を見ると、だいぶ削られてしまっているのが分かります。
古墳には埴輪が付きものだと思う方もおられると思いますが、元島名将軍塚古墳では埴輪は発見されていません。
また、後方部中心にあった主体部(埋葬施設)からは人骨が発見されており、頭部を北向きにしていたそうです。
主体部からの出土遺物は、人骨以外に獣形鏡が一点、碧玉製の石釧(いしくしろ=腕輪)が一点、あとは刀やヤリガンナの残欠、鉄片や木片が出ています。
石釧は碧玉製では現在確認できるものとしては県内唯一の出土です。
遺物の石釧と獣形鏡は、東京国立博物館へ行き、他のものは県立歴史博物館や元島名将軍塚古墳の近所にある歴史民俗資料館にあるそうです。
国立博物館に持って行かれたということは相当貴重なものなんですね。
後方部から降りて、順序が逆になってしまいましたが、神様にご挨拶をします。
石碑の説明によると、島名神社の創立年代は不詳だそうです。
ヤマト王権から東国には彦狭嶋王(ひこさしまおう=第7代孝霊天皇の子)が派遣されたという伝承があるのですが、石碑を読むとどうやら元島名将軍塚古墳は、彦狭嶋王の墓であるとの伝承があるようで、古墳が作られた4世紀後半(この時期に関しては改めて後述)に神社が創建されたと考えられているようです。
それはあくまでも伝承ですが、史料上からは「延喜式」に「従四位上 嶋名明神」とあるそうなので、古い神社であることは確かです。
また、以前は八幡宮だったそうです。
既述した通り、社殿は古墳の前方部に建っているのですが、その南側は現在では地元で「将軍淵」といわれる浸食谷によって少し削られています。
おそらく社殿を建てる際に社殿基部は整形しているものと思われます。
それでは元島名将軍塚古墳の遠景を見てみましょう。
道路に出て北側に回り込みます。
写真では分かりづらいですが、北側から見ると8.6メートルを測る後方部は結構高さがあります。
良い眺めですねえ。
今度はもうちょっと角度を変えて、北東方向から見てみます。
古墳を横から見る感じです。
これも写真だと分かりづらいですが、肉眼では古墳らしさが良く分かります。
しばらく道路に座ってお茶を飲みながら古墳を眺めます。
気温も結構上がってきていて少し暑いですが、良い天気なのでこういう長閑な雰囲気を楽しむのも良いですね。
さて、そろそろバスの時間なのでバス停に戻りましょう。
バスの時間は10時50分。
それを逃すと次は2時間後です。
ほとんど時間が無くなってしまったので、この近くにある高崎市歴史民俗資料館には寄れません。
残念ですが仕方がありません。
※註:この2年後に再訪した時は、高崎市歴史民俗資料館を見学することができました。
10時50分を少し過ぎてバスがやってきました。
それでは高崎駅まで戻り、高崎城を見てから昼飯を食べましょう。
⇒この続きはこちら
2015年5月6日(水)
思っていたよりもかなり楽しめた高崎市歴史民俗資料館を出たあとは、元島名将軍塚古墳に向かいます。
しかし2年前も来ており、しかも季節も同じであるので、とくに再訪する必要もないような感じもしますが、やはり将軍様に一言ご挨拶をしてから行きたいと思います。
あれ?前回来た時に見た焼肉屋は名前が変わっている。
そして駐車場の一画にはソーラーパネルが並べてあります。
群馬県内を歩いていると、よくソーラーパネルが設置されているのを見ます。
島名神社の入口に来ました。
2年前に来たばかりなので新鮮味はないですね。
それでもやはり、墳丘の上には登ります。
そして前回と同じように北側に回り込み遠景を撮ります。
さて、この元島名将軍塚古墳ですが、ここまで歩いてきたことで分かる通り、東山道武蔵路の沿線にあります。
古墳が築造されたのは、比田井説を取ると3世紀後第3四半期ですので、それから400年以上経ってからここを歩いた中央の官人や遣いの人、それに旅人達は元島名将軍塚古墳を見て、昔の偉い人のお墓として認識していたんでしょうかね。
(つづく)
その後の探訪
2016年4月にクラツーと契約してから群馬の古墳ツアーとしては最初に造ったツアーに元島名将軍塚古墳を盛り込みました。
お陰様でそのツアーは好評をいただき、現在までに10回催行しており、テレビ東京「旅スルおつかれさま ハーフタイムツアーズ」でも取り上げられました。
ツアーにて探訪した日は以下の通りです。
・2017年4月2日(事前下見)
・同年4月8日
・同年12月9日
・2018年7月21日
・同年8月21日
・同年12月9日
・2019年5月29日
・同年6月2日
・同年11月17日
・2020年1月12日
・同年3月1日
バスで乗り付けて、多いときは40名くらいの人数の時もあるので、おそらく現地の方々は最初はビックリされたかと思いますが、今はもう「あーまた物好きな人たちがきた」程度に思ってくださっているのでないでしょうか。
現地の皆さん、毎回お騒がせして申し訳ありませんが、今後ともよろしくお願いいたします。
4.補足
元島名将軍塚古墳の被葬者像とその支配地域 2020年6月22日
元島名将軍塚古墳の後方部東側裾部では石田川式土器が見つかっており、元島名将軍塚の被葬者は石田川式文化の統率者でした。
石田川式の甕を見ると、濃尾の「S字状口縁台付甕」、通称「S字甕」とそっくりで、古墳時代の幕開けとともに濃尾からやってきた集団が利根川あるいは渡良瀬川をさかのぼって現在の群馬県域に侵入し、石田川式土器を作り、石田川式文化圏を形成したことが分かります。
以下の写真は群馬県立歴史博物館で撮影したものですが、まずはこちらが高崎市新保遺跡出土の東海西部(濃尾)系のS字甕です。
口縁部がS字になっていますね。
と、ツアーの時に現物を見せてお客様に説明しても「分からない!」と言われることがありますが、そう見えるようになってください。
つづいて、S字甕が在地化した中溝・深町遺跡出土の石田川式のS字甕です。
濃尾の人びとが入ってくる前の群馬県域には樽式土器を使用する人びとが住んでいましたが、樽式文化の人びとは沖積低地の開発を上手にできず、そういった場所は弥生時代後期にも空白地が多く、石田川式文化の人びとは沖積地の開発をしつつ居住範囲を広げ、少し戦いの形跡はあるものの基本的には両者は住み分けをしていました。
元島名将軍塚古墳を含めた群馬県域の初期古墳(前方後方墳)は石田川文化人が作りましたが、石田川文化人の勢力範囲は利根川と渡良瀬川の流域となります。
利根川流域を見るとその中で最大規模のものは前橋市にある朝倉・広瀬古墳群に属する前橋八幡山古墳(墳丘長は前方後方墳としては東日本最大の130m)で、それに次ぐのが元島名将軍塚となり、前橋八幡山は利根川本流(現在の広瀬川)を支配地域とし、元島名将軍塚は利根川の支流である井野川流域を支配範囲としました。
便宜上、私は元島名将軍塚の被葬者を「イノの王」と呼びます。
それでは、イノの王の支配地域を現在分かっている遺跡の情報をもとに見てみましょう。
この図にはいくつかの遺跡がプロットしてありますが、まず利根川の流路は図に書いてある通り、この図の範囲にある現在の利根川は往時はありませんので、利根川は無視してください。
王の支配地域には被支配者の居住地域があるわけですが、古墳から北西方向に代表的な集落が集中しています。
井野川の段丘の上には元島名遺跡や鈴ノ宮遺跡があり、井野川低地には高崎情報団地Ⅰ遺跡、同Ⅱ遺跡、南大類稲荷遺跡などがあります。
それらの中には、小型の前方後方墳あるいは前方後方型の方形周溝墓が存在することがあり、その被葬者はイノの王の下、各集落を支配した有力者の墓でしょう。
一方、北側の現在の利根川流路の方向にある萩原・沖中遺跡や西横手遺跡群といった遺跡には方形周溝墓群があり、西側の柴崎遺跡群からも周溝墓が見つかっています。
水田跡もこの周辺では古墳時代以降のものが多数見つかっていますが、高崎JCTを造る際の発掘では多くの水田跡が見つかっており、イノの王の支配地域はコメもふんだんにあったと想定できます。
では、王はどこに住んでいたのかというと、この周辺からは古墳時代前期の豪族居館跡は見つかっていません。
気になるのは、古墳のすぐ東側の上滝榎町北遺跡で建物跡が検出されていることで、これについての詳細は私には分からず、もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください。
なお、元島名将軍塚の向きですが、おおよそ後方部が榛名山へ向いています。
元島名将軍塚が築造された後、榛名山は数回大噴火を起こしていますから、いま現地に行って榛名山を眺めても古墳時代人が見ていたものとは山容が違うのですが、群馬の古墳へ行ったときは、ぜひ榛名や赤城、そして浅間山などの周囲の山を眺めて往時の人たちの気持ちに思いを馳せてみてください。
元島名将軍塚古墳の後継古墳は? 2020年6月22日
元島名将軍塚古墳に継ぐ首長墓を周辺から探してみると、井野川を下った直線距離で約4.5㎞の場所に、関越道建設によって湮滅した下郷天神塚古墳がありました。
下郷天神塚古墳は、墳丘長102mで円筒・朝顔形Ⅱ式が出土しており、前方後円墳集成ではⅣ期となっています。
ただ、Ⅳ期だと4世紀後半になるので、元島名将軍塚を比田井克仁さんの説を参考に3世紀第三四半期と考えている私からすると、元島名将軍塚古墳とは100年以上の間隔が開いてしまうことが気になります。
両古墳の間を埋めるものとしては、前方後円墳集成でⅡ期とされる玉村町の川井稲荷山古墳が候補となりますが、当該古墳の墳丘長は43mでやや物足りない気がします。
ただし、特筆すべきは、川井稲荷山古墳からは三角縁神獣鏡が出ている点で、濃尾勢力の影響下にあった井野川流域に初期ヤマト王権が調略の手を伸ばしてきた形跡であると考えます。
なお、川井稲荷山古墳から出土した円筒埴輪はⅠ式とされます。
元島名将軍塚の近くで三角縁神獣鏡を探せば、前橋天神山古墳や柴崎蟹沢古墳からも出ており、ヤマト王権は関東の中でもこの地域を特に重要視していたことが分かります。
以上、現在のところ、元島名将軍塚のすぐ後を受けた後継者の墓に該当する古墳はありませんが、ヤマト王権にとって井野川流域が重要な場所であったことは事実です。
5.参考資料
・現地説明板
・『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『太田市史 通史編 原始古代』 太田市/編 1996年
・『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁 2001年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 下巻』 右島和夫/著 2018年
・『高崎市文化財調査報告書 第417集 元島名中子遺跡』 高崎市教育委員会・株式会社ノガミ/編 2018年