3.探訪レポート
2021年6月21日(月)
この日の探訪箇所
六道山古墳 → 小泉大塚古墳 → 法起寺 → 中宮寺跡 → 法輪寺 → 仏塚古墳 → 藤ノ木古墳 → 斑鳩文化財センター → 法隆寺
今日は聖徳太子に会いに行きます。
こんなアヅマエビスのおっさんがアポなしでいきなり行って果たして会ってくれるのでしょうか?
というか、そもそもご存命なのでしょうか?
そういう難しいことは考えず、ひとまず奈良へ向かいます。
ちなみに私の頭の中では聖徳太子はこのイメージです。
青いジャージを着用されている方が聖徳太子です。
さて、今日に関しては仕事ではないため、ゆっくり無理のないように行こうと思い、新幹線で京都まで行き、奈良線に乗り換えて奈良に着いたときはもう10時を過ぎていました。
宿泊は近鉄奈良駅近くの東横インですから、探訪が終わったあとまたここに戻ってくるので、コインロッカーに荷物を預けます。
少し前まではコインロッカー代を捻出することが困難だったため、重い荷物を背負って一日歩いていましたが、いまは皆様のお陰で「コインロッカーを借りられる男」にスペックが上がりました。
冗談抜きで皆様には本当に感謝しております。
奈良からは関西本線に乗り換えです。
ホームに行くと電車がいたので撮影。
奈良から2つ目の大和小泉駅で下車しました。
駅舎から歩く方向を見ます。
今日の最大の目的は法隆寺ですが、法隆寺に向かう途中に出現する遺跡を見て行こうと思います。
最初は、六道山古墳へ行ってみますよ。
大和小泉駅。
富雄川まで来ました。
川を渡らずに北上しようかと思ったのですが・・・
歩道が荒れている!
こういうのは、奈良っぽいといえば奈良っぽい。
まあいいや、渡河しましょう。
富雄川の下流方向。
そういえば、富雄川と言えば日本最大の円墳である富雄丸山古墳を想起させられると思いますが、ここから北のほうに直線距離で約4㎞のところにありますよ。
住宅街の中をテクテク歩きます。
お、「片桐城址」の石碑!
片桐というのは地名なのか、はたまたあの片桐且元に関係があるのでしょうか。
奈良って歩いていると結構城跡に出くわしますね。
時間があればこういうのも丹念に見ていきたいですが、さすがに城跡に寄っている時間はないですな。
※後日註:帰宅後に調べてみたら且元の弟の貞隆が近世初頭に陣屋にしていた歴史があったんですね。
大和小泉駅から歩きだして10分ちょっとで六道山古墳らしき森が見えてきました。
さて、どうやって近接すればいいかな?
ひとまず北側の県道9号線のほうに回ってみます。
うーん、ありましたがフェンスで囲われており墳丘には入れないようですね。
説明板らしきものもないようです。
古墳の東側は富雄川のほうへ向けて地形が落ちています。
でもこの場所は最高所ではなく、西の方はさらに地形が高くなっていますよ。
このまま終わらせるのも癪なので、周辺を一周してみます。
墳丘の周りは住宅街になっており、どこからも取り付けないですね。
だめだこりゃ。
関東の古墳めぐりをしているときは墳丘に登れないとガッカリしますが、奈良の場合は墳丘に立ち入れない古墳がむしろ当たり前なので諦めもつきます。
なお、六道山古墳についての詳しいことは分かりませんが、奈良女子大学謹製のWebサイト「前方後円墳データベース」によると、元々は墳丘長100mの前方部の短い前方後円墳でしたが、現在は前方部は削平されているとのことです。
では、続いて近くにある小泉大塚古墳へ行ってみますよ。
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4.補足
帰宅してから『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編・1992年)を読んだため、その記述をもとに述べます。
まず最初に驚いたのは、該書の例言に、「調査は、宗教法人慈光院(中略)による墳丘裾部の無断・無届けによる破壊工事を受け、緊急に実施したものである」とあることで、これはただ事ではないと思って読み進めると、六道山古墳が破壊されているとの通報を受けた大和郡山市教育委員会の担当者が現場に急行し、工事をストップさせ、その後緊急発掘調査をしたとのことです。
該書からは無届けによる文化財破壊への強い憤りを感じることができ、おそらくこの事実を知った多くの方が同じような気持ちになるでしょう。
ただし、1974年刊行の『奈良県の主要古墳Ⅰ』にはすでに前方部が破壊されていると記されているため、上述の無届の破壊行為は後円部側の裾部分でのできごとです。
なお、破壊されている前方部の位置は北側の県道側のほうで、写真を再掲しますが、この砂利の駐車場にもともと前方部がありました。
さて、調査の結果ですが、葺石と埴輪は確認されず、後円部は2段築成の可能性がありますが、注目すべき記述として、後円部南東部に福岡県八女市の岩戸山古墳の「別区」のような張出部分が見られ、「こうした典型的別区と同様の施設であるかどうかは今後の詳しい検討を経なければ判明しないが、とりあえず注意を喚起しておきたい」とあります。
該書は発掘調査報告書ですが、かなり攻めた記述でいいですね。
ただし、岩戸山の別区は墳丘からの張り出しではなく、周堤に付属しています。
古墳の位置には弥生時代の集落があったということで、複合遺跡となりますね。
六道山古墳は、この調査が行われる前までは、前期末から中期前葉の築造と言われていましたが、ダイナミックに破壊された盛土の中からTK-47型式に属する須恵器が出たため、古墳築造の上限は5世紀末~6世紀初頭と考えられ、近辺の古墳を含めた編年は下記の通りに修正が迫られました。
小泉大塚古墳 → 瓦塚1・2号墳 → (未知の古墳) → 六道山古墳 → 小泉東狐塚古墳 → 小泉狐塚古墳 → 笹尾古墳
該書をお読みになりたい方は、下記リンクからどうぞ。
5.参考資料
・前方後円墳データベース
・『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編) 1992年