⇒前回の記事はこちら
百合畑古墳群から山の中へ入っていく道は、軽自動車なら行ける道幅なので、さらに車で突撃します。
いやー、今日は軽自動車で本当に良かった。
次はちょっと気分を変えて中世城館跡を見てみます。
入れるだけ入ってきたので車から降ります。
ではここで位置の確認をしましょう。
おや、何か説明板がありますよ。
これから行く生池城の用水に供されていたんですね。
え、河童に生け捕りにされた?
怖いですね。
逃げろ。
城跡へ向けて一人山の中を歩きます。
徐々に標高が増してきました。
分かれ道だ。
道はさらに上り坂になっています。
お、左手に堀跡発見!
間違いない。
この近くに郭の入口があるはず。
おっと、説明板発見!
16世紀半ばというと、戦国時代も佳境に入っていますね。
松浦(まつら)党の武士が壱岐に住んでいたということで、邪馬台国の時代以来の壱岐と松浦(末廬国)とのルートが使用されていたわけです。
ちなみに、奥州で行われた前九年合戦(1051~62)で源頼義に降伏した豪族安倍宗任が北部九州に配流されてきて松浦党の祖になったという伝承があります。
宗像大島には宗任の墓がありますよ。
そして安倍総理は宗任の子孫ということらしく、これ以上の話は宗像のツアーの際に話していますがここでは話しません。
それはそれとして、城主の源一(みなもとのいち)が朝鮮の王からも信任されていたというのは面白いですね。
北部九州の中世を考えるときは古代と同じく、朝鮮半島も視野に入れて考察する必要がありそうです。
ところで、ここはちょうど虎口の前ですね。
しかしこの図面を見る限りでは不思議な山城ですね。
というのも、実戦用の山城のように思わせながら、門が4つもあり、しかもそれぞれが単純な坂虎口になっており、非常に防御力が弱い。
もちろん、この図が正確でない可能性がありますし、逆に出撃が容易なので攻撃のための城としては良いかもしれません。
ただし如何せん、壱岐の中世史について何も知らないのでこれ以上のことを言うのは控えましょう。
それでは、堀を越えて郭の中に入ります。
向かって左。
向かって右。
右手の土塁上には櫓台に使ったような土盛がありますよ。
しかし、蜘蛛の巣が多いなあ。
郭は残念ながら完全な藪の中。
今日はこれ以上探索する時間もないですし、さきほどの説明板の図を見ても単郭でその周りに土塁と堀がめぐるだけの単純な構造なので、特にそそられるものもありません。
古墳に行こうっと。
虎口に戻り、中から土橋を見ます。
これだけ見ると、山城というより屋敷の門のようです。
土塁の上には登りたいよね。
ここまで結構歩いてきましたが、車に戻ります。
再び車に乗り込み、次の笹塚古墳を目指します。
林道を進んでいくと説明板を発見。
え、神代文字が描かれていたの?
でも、墳丘はどれだろう?
あ、石室がある。
ここも石室に入れるのね。
壱岐の古墳は石室マニアにとっても楽しくて仕方がない場所ですね。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
いや、全長15.2mってかなり大きいですよ。
墳丘は完全に林と一体化している・・・
これでは気づかないですよね。
古墳館の展示では周辺地形はこのようになっています。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
ただし、見た通り現状では林道などでかなり削られています。
『壱岐の島の古墳群~現状調査』によると、地山を整形した径70mほどの基壇部の上に径40mの円墳を載せた特異な形状の古墳です。
面白いねえ。
できることなら丸裸にしてあなたの輪郭をよく見てみたい・・・
墳丘規模は基壇を墳丘と考えた場合、円墳としては全国を見渡しても巨大円墳の仲間に入ると思いますし、石室も長大なので、この古墳の被葬者や歴史的位置づけが非常に気になります。
壱岐の古墳、すごい。
では、次は鬼の窟古墳を目指しますよ。
⇒この続きはこちら
百合畑古墳群から山の中へ入っていく道は、軽自動車なら行ける道幅なので、さらに車で突撃します。
いやー、今日は軽自動車で本当に良かった。
次はちょっと気分を変えて中世城館跡を見てみます。
入れるだけ入ってきたので車から降ります。
ではここで位置の確認をしましょう。
おや、何か説明板がありますよ。
これから行く生池城の用水に供されていたんですね。
え、河童に生け捕りにされた?
怖いですね。
逃げろ。
城跡へ向けて一人山の中を歩きます。
徐々に標高が増してきました。
分かれ道だ。
道はさらに上り坂になっています。
お、左手に堀跡発見!
間違いない。
この近くに郭の入口があるはず。
おっと、説明板発見!
16世紀半ばというと、戦国時代も佳境に入っていますね。
松浦(まつら)党の武士が壱岐に住んでいたということで、邪馬台国の時代以来の壱岐と松浦(末廬国)とのルートが使用されていたわけです。
ちなみに、奥州で行われた前九年合戦(1051~62)で源頼義に降伏した豪族安倍宗任が北部九州に配流されてきて松浦党の祖になったという伝承があります。
宗像大島には宗任の墓がありますよ。
そして安倍総理は宗任の子孫ということらしく、これ以上の話は宗像のツアーの際に話していますがここでは話しません。
それはそれとして、城主の源一(みなもとのいち)が朝鮮の王からも信任されていたというのは面白いですね。
北部九州の中世を考えるときは古代と同じく、朝鮮半島も視野に入れて考察する必要がありそうです。
ところで、ここはちょうど虎口の前ですね。
しかしこの図面を見る限りでは不思議な山城ですね。
というのも、実戦用の山城のように思わせながら、門が4つもあり、しかもそれぞれが単純な坂虎口になっており、非常に防御力が弱い。
もちろん、この図が正確でない可能性がありますし、逆に出撃が容易なので攻撃のための城としては良いかもしれません。
ただし如何せん、壱岐の中世史について何も知らないのでこれ以上のことを言うのは控えましょう。
それでは、堀を越えて郭の中に入ります。
向かって左。
向かって右。
右手の土塁上には櫓台に使ったような土盛がありますよ。
しかし、蜘蛛の巣が多いなあ。
郭は残念ながら完全な藪の中。
今日はこれ以上探索する時間もないですし、さきほどの説明板の図を見ても単郭でその周りに土塁と堀がめぐるだけの単純な構造なので、特にそそられるものもありません。
古墳に行こうっと。
虎口に戻り、中から土橋を見ます。
これだけ見ると、山城というより屋敷の門のようです。
土塁の上には登りたいよね。
ここまで結構歩いてきましたが、車に戻ります。
再び車に乗り込み、次の笹塚古墳を目指します。
林道を進んでいくと説明板を発見。
え、神代文字が描かれていたの?
でも、墳丘はどれだろう?
あ、石室がある。
ここも石室に入れるのね。
壱岐の古墳は石室マニアにとっても楽しくて仕方がない場所ですね。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
いや、全長15.2mってかなり大きいですよ。
墳丘は完全に林と一体化している・・・
これでは気づかないですよね。
古墳館の展示では周辺地形はこのようになっています。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
ただし、見た通り現状では林道などでかなり削られています。
『壱岐の島の古墳群~現状調査』によると、地山を整形した径70mほどの基壇部の上に径40mの円墳を載せた特異な形状の古墳です。
面白いねえ。
できることなら丸裸にしてあなたの輪郭をよく見てみたい・・・
墳丘規模は基壇を墳丘と考えた場合、円墳としては全国を見渡しても巨大円墳の仲間に入ると思いますし、石室も長大なので、この古墳の被葬者や歴史的位置づけが非常に気になります。
壱岐の古墳、すごい。
では、次は鬼の窟古墳を目指しますよ。
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