⇒前回の記事はこちら
8時半くらいから府中町の歴史探訪をはじめて、ようやく歴史民俗資料館の開館時刻である10時になりました。
いやー、楽しみです。
どんな展示があるでしょうか。
あれ?
マツダのブースがある。
マツダって府中町に本社があったんですね!
私が雷電號と呼んでいる愛車はマツダのデミオなんですが、マツダユーザーのくせに知らなかった・・・
部屋の奥壁にバーンと写真が貼られているルマンで優勝したレーシングカーの説明もありますよ。
こういう古い写真も良いですね。
図らずもマツダの展示に遭遇してしまいました。
デミオユーザーの私には嬉しいサプライズです。
こういった予期しない出会いがあることも旅の醍醐味ですね。
では、本題へ戻りますよ。
今日の朝一に行った総社跡の古い写真。
この土地独特の石器もあります。
有段石斧、確かに聴いたことがないと思います。
初めての場所に来ると刺激的!
ところで、町内からは旧石器時代と縄文時代の遺跡は見つかっていないのです。
しかも、関東人の私からすると広島県の弥生時代は田んぼが展開していたと思っていましたが、町内には弥生時代の遺跡もないんですね。
ただし、それら原始時代に関しては少数の遺物は見つかっており、隣の広島市東区には畳谷遺跡という縄文時代の貝塚があり、弥生時代後期の住居跡が10軒あまり見つかっています。
古墳時代になってくると少し活気がでてきます。
古代の4文化圏。
このうちの太田川文化圏の三ツ城古墳はこのあと探訪するつもりです。
あ、さっき行った下岡田遺跡の展示がある!
こちらの図の方が現地の図より分かり易い。
まったく土地勘のない場所に来ていますので、こういった図はありがたい。
こういった国衙規模の比較も面白いですね。
ただし、国衙の発掘は全国ではそれほど進んでいるわけではないので、この表は現在分かっている範囲での話です。
安芸国衙は方4丁で小さいです。
今日はこの図に書かれている場所を歩いてみましたが、どうも現在の道路とこの図にあるような地割はピッタリ合わないのです。
国衙の廃絶から1000年も経っているのでだいぶ変わってしまったのでしょうか。
そもそも国衙は本当にここだったのか、と考えることもできますが、今後の課題としたいと思います。
本日の最初に出てきた田所氏に関する詳しい展示もあります。
古代末から中世の展示は豊富ですね。
「内海警固衆 白井氏」という言葉はマイナー戦国武将好きには堪りません。
安芸武田氏、いいねえ。
「信長の野望」をプレイしていた頃を思い出します。
そして民俗関連。
神楽の展示もありますよ。
展示を一通り見学した後は、資料館の方に府中町の歴史について教わります。
さきほど参拝した多家神社の歴史についても整理ができました。
神社の由緒書にも多家神社があの場所に建てられたのは明治初頭で、その理由としては江戸時代から神武天皇が滞在した埃宮の場所をめぐって松崎八幡宮の南氏子と総社の北氏子の対立しており、それが激化していたのを仲直りさせるためだったということは書かれていますが、やはり口頭で説明していただくと分かり易いですし、由緒書には書かれていないエグイ話も聴くことができました。
由緒書の文章を読む限りでは、古代の式内社としての多家神社は実際にどこかにあったのでしょうが、中世を経て本来の場所が分からなくなってしまい、それがもとで南北の氏子が対立する展開になってしまったのでしょう。
また、下岡田遺跡の最新発掘状況も教えていただき、遺物も少し見させていただくことができました。
あー、面白かった!
何だかんだで1時間ほど滞在してしまいました。
職員の方、いろいろと教えていただきありがとうございました!
それでは有料の書籍を買いこみ資料館を後にします。
⇒この続きはこちら
8時半くらいから府中町の歴史探訪をはじめて、ようやく歴史民俗資料館の開館時刻である10時になりました。
いやー、楽しみです。
どんな展示があるでしょうか。
あれ?
マツダのブースがある。
マツダって府中町に本社があったんですね!
私が雷電號と呼んでいる愛車はマツダのデミオなんですが、マツダユーザーのくせに知らなかった・・・
部屋の奥壁にバーンと写真が貼られているルマンで優勝したレーシングカーの説明もありますよ。
こういう古い写真も良いですね。
図らずもマツダの展示に遭遇してしまいました。
デミオユーザーの私には嬉しいサプライズです。
こういった予期しない出会いがあることも旅の醍醐味ですね。
では、本題へ戻りますよ。
今日の朝一に行った総社跡の古い写真。
この土地独特の石器もあります。
有段石斧、確かに聴いたことがないと思います。
初めての場所に来ると刺激的!
ところで、町内からは旧石器時代と縄文時代の遺跡は見つかっていないのです。
しかも、関東人の私からすると広島県の弥生時代は田んぼが展開していたと思っていましたが、町内には弥生時代の遺跡もないんですね。
ただし、それら原始時代に関しては少数の遺物は見つかっており、隣の広島市東区には畳谷遺跡という縄文時代の貝塚があり、弥生時代後期の住居跡が10軒あまり見つかっています。
古墳時代になってくると少し活気がでてきます。
古代の4文化圏。
このうちの太田川文化圏の三ツ城古墳はこのあと探訪するつもりです。
あ、さっき行った下岡田遺跡の展示がある!
こちらの図の方が現地の図より分かり易い。
まったく土地勘のない場所に来ていますので、こういった図はありがたい。
こういった国衙規模の比較も面白いですね。
ただし、国衙の発掘は全国ではそれほど進んでいるわけではないので、この表は現在分かっている範囲での話です。
安芸国衙は方4丁で小さいです。
今日はこの図に書かれている場所を歩いてみましたが、どうも現在の道路とこの図にあるような地割はピッタリ合わないのです。
国衙の廃絶から1000年も経っているのでだいぶ変わってしまったのでしょうか。
そもそも国衙は本当にここだったのか、と考えることもできますが、今後の課題としたいと思います。
本日の最初に出てきた田所氏に関する詳しい展示もあります。
古代末から中世の展示は豊富ですね。
「内海警固衆 白井氏」という言葉はマイナー戦国武将好きには堪りません。
安芸武田氏、いいねえ。
「信長の野望」をプレイしていた頃を思い出します。
そして民俗関連。
神楽の展示もありますよ。
展示を一通り見学した後は、資料館の方に府中町の歴史について教わります。
さきほど参拝した多家神社の歴史についても整理ができました。
神社の由緒書にも多家神社があの場所に建てられたのは明治初頭で、その理由としては江戸時代から神武天皇が滞在した埃宮の場所をめぐって松崎八幡宮の南氏子と総社の北氏子の対立しており、それが激化していたのを仲直りさせるためだったということは書かれていますが、やはり口頭で説明していただくと分かり易いですし、由緒書には書かれていないエグイ話も聴くことができました。
由緒書の文章を読む限りでは、古代の式内社としての多家神社は実際にどこかにあったのでしょうが、中世を経て本来の場所が分からなくなってしまい、それがもとで南北の氏子が対立する展開になってしまったのでしょう。
また、下岡田遺跡の最新発掘状況も教えていただき、遺物も少し見させていただくことができました。
あー、面白かった!
何だかんだで1時間ほど滞在してしまいました。
職員の方、いろいろと教えていただきありがとうございました!
それでは有料の書籍を買いこみ資料館を後にします。
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