⇒前回の記事はこちら
戸隠神社は独立丘の上にあるのですが、どうも巨大円墳に見えて仕方がないので丘の周りを一周してみます。
でもこういったロームの露出を見るとやはり自然の山なんでしょうかねえ。
地山を利用して造った円墳かもしれない・・・
ではいよいよ、神門古墳群を目指しますよ!
今回の旅での目玉の一つです。
これが雷電池ですね。
なんか畿内の前方後円墳のような佇まいですが違いますよ。
お、本物の富士山。
住宅街に登ると、神門瓦窯跡の表示がありました。
近くにある国分寺で使用した瓦を焼いた窯があったんですね。
フェンスの向こうは雷電池へ向かって崖となっており、その崖を利用した登り窯でしょうか。
そうなると雷電池は新しいのでしょうかね。
先ほど訪れた戸隠神社。
うーん、やっぱり怪しい・・・
ところが怪しいと思っていたのは私だけではなかったようです。
近くのお宅の玄関から出てきた男性が写真を撮っている私を先ほどから不審そうに監視しているのです。
構わず撮影。
不審者だと思われることは慣れていますからね。
つづいて神門古墳群の神門3号墳の跡へ向かおうと思い歩き出すと、先ほどの男性が朝の散歩のためか道路に出てきました。
サングラス越しにジーっと私を見ているので、「こんにちは!」と挨拶すると、人の顔を直視したまま何も言わずすれ違っていきました。
人間は挨拶ができる動物のはずなのですが・・・
ワンちゃんでも挨拶はできますよ。
ペロペロって。
あ、でも考えてみればまだ朝の8時過ぎですから、「こんにちは」ではなく、「お早うございます」ですね。
朝の3時半に高尾を出て、5時から歴史めぐりをしているので、感覚的にはもうお昼なのです。
目の前に広大な草地が現れました。
上総国分僧寺跡ですね。
後で見学します。
神門古墳群は5号墳以外はすべて潰されており、ここに3号墳がありました。
少し目を南に転じたこの場所は4号墳跡。
では、墳丘が残っているという5号墳へ行きます。
おー、これですねー。
ちゃんと説明板もあります。
神門古墳群の3つの古墳の平面図も書かれています。
説明板にも書かれている通り、5号墳は東日本最古の前方後円墳で、箸墓古墳よりも前の「纒向型前方後円墳」と呼ばれているものです。
古墳じゃなくて弥生墳丘墓だという面倒くさい意見もあると思いますが、まあ、古墳でいいじゃないですか。
3世紀の初めころ、関東南部は東海勢力に席捲されたのですが、それと同時期か直後にヤマト勢力も関東への進出を目論みます。
ほとんど東海勢力一色だった南関東にヤマトが撃ち込んだ楔がまさしく5号墳なわけです。
関東の初期前方後円墳としては神川県海老名市の秋葉山古墳群がありますが、あちらは何度も行ったことがあるものの神門古墳群は初の探訪となります。
何年も前から来たかったので念願が叶いました。
周りはフェンスで囲まれていますが、墳丘に入れる場所は無いかなあ?
一周してみましたが無さそうですね。
仕方ない。
ここから入るか。
まずは形状を確認します。
最初道路側から眺めたときは随分と大きい古墳に見えたのですが、墳丘長42.6mということなので、それを考慮して観察してみます。
全体像が掴めました。
墳丘に登ります。
前方部側からは富士山が見えますね。
この地の古代人たちもこうやって日常的に富士山を見ていたんですね。
前方部から後円部を見ます。
後円部から前方部。
纒向型前方後円墳は前方部があまり発達していません。
さきほどの説明板を見てみればわかりますが、3つのうち一番新しい3号墳の形状は普通のスマートな前方後円墳になっていますね。
古墳の形状も時期によって変わるのです。
というわけで、5号墳は想像していたより残りが良くて嬉しい。
県指定史跡なのでこれ以上破壊される心配はないですねえ?
神門古墳群に来ることができたので、東日本の初期古墳時代を研究している私としては、これでようやく日陰の身から脱して太陽の下で堂々と上を向いて歩くことができます。
今日もいい日だ。
明るい晴れやかな気分で国分僧寺跡へ向かいます。
⇒この続きはこちら
戸隠神社は独立丘の上にあるのですが、どうも巨大円墳に見えて仕方がないので丘の周りを一周してみます。
でもこういったロームの露出を見るとやはり自然の山なんでしょうかねえ。
地山を利用して造った円墳かもしれない・・・
ではいよいよ、神門古墳群を目指しますよ!
今回の旅での目玉の一つです。
これが雷電池ですね。
なんか畿内の前方後円墳のような佇まいですが違いますよ。
お、本物の富士山。
住宅街に登ると、神門瓦窯跡の表示がありました。
近くにある国分寺で使用した瓦を焼いた窯があったんですね。
フェンスの向こうは雷電池へ向かって崖となっており、その崖を利用した登り窯でしょうか。
そうなると雷電池は新しいのでしょうかね。
先ほど訪れた戸隠神社。
うーん、やっぱり怪しい・・・
ところが怪しいと思っていたのは私だけではなかったようです。
近くのお宅の玄関から出てきた男性が写真を撮っている私を先ほどから不審そうに監視しているのです。
構わず撮影。
不審者だと思われることは慣れていますからね。
つづいて神門古墳群の神門3号墳の跡へ向かおうと思い歩き出すと、先ほどの男性が朝の散歩のためか道路に出てきました。
サングラス越しにジーっと私を見ているので、「こんにちは!」と挨拶すると、人の顔を直視したまま何も言わずすれ違っていきました。
人間は挨拶ができる動物のはずなのですが・・・
ワンちゃんでも挨拶はできますよ。
ペロペロって。
あ、でも考えてみればまだ朝の8時過ぎですから、「こんにちは」ではなく、「お早うございます」ですね。
朝の3時半に高尾を出て、5時から歴史めぐりをしているので、感覚的にはもうお昼なのです。
目の前に広大な草地が現れました。
上総国分僧寺跡ですね。
後で見学します。
神門古墳群は5号墳以外はすべて潰されており、ここに3号墳がありました。
少し目を南に転じたこの場所は4号墳跡。
では、墳丘が残っているという5号墳へ行きます。
おー、これですねー。
ちゃんと説明板もあります。
神門古墳群の3つの古墳の平面図も書かれています。
説明板にも書かれている通り、5号墳は東日本最古の前方後円墳で、箸墓古墳よりも前の「纒向型前方後円墳」と呼ばれているものです。
古墳じゃなくて弥生墳丘墓だという面倒くさい意見もあると思いますが、まあ、古墳でいいじゃないですか。
3世紀の初めころ、関東南部は東海勢力に席捲されたのですが、それと同時期か直後にヤマト勢力も関東への進出を目論みます。
ほとんど東海勢力一色だった南関東にヤマトが撃ち込んだ楔がまさしく5号墳なわけです。
関東の初期前方後円墳としては神川県海老名市の秋葉山古墳群がありますが、あちらは何度も行ったことがあるものの神門古墳群は初の探訪となります。
何年も前から来たかったので念願が叶いました。
周りはフェンスで囲まれていますが、墳丘に入れる場所は無いかなあ?
一周してみましたが無さそうですね。
仕方ない。
ここから入るか。
まずは形状を確認します。
最初道路側から眺めたときは随分と大きい古墳に見えたのですが、墳丘長42.6mということなので、それを考慮して観察してみます。
全体像が掴めました。
墳丘に登ります。
前方部側からは富士山が見えますね。
この地の古代人たちもこうやって日常的に富士山を見ていたんですね。
前方部から後円部を見ます。
後円部から前方部。
纒向型前方後円墳は前方部があまり発達していません。
さきほどの説明板を見てみればわかりますが、3つのうち一番新しい3号墳の形状は普通のスマートな前方後円墳になっていますね。
古墳の形状も時期によって変わるのです。
というわけで、5号墳は想像していたより残りが良くて嬉しい。
県指定史跡なのでこれ以上破壊される心配はないですねえ?
神門古墳群に来ることができたので、東日本の初期古墳時代を研究している私としては、これでようやく日陰の身から脱して太陽の下で堂々と上を向いて歩くことができます。
今日もいい日だ。
明るい晴れやかな気分で国分僧寺跡へ向かいます。
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