*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県前橋市文京町3-2
JR両毛線前橋駅下車、徒歩約30分(実測)
現況
二子山児童公園
史跡指定
国指定史跡
史跡名:二子山古墳
指定日:昭和2年(1927)6月14日
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
6世紀前半~7世紀初期(説明板)
6世紀前半(『群馬の古墳物語 上巻』)
被葬者像
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:104m(現地説明板)
墳丘高:後円部約11m/前方部約9.5m(説明板)
段築:2段築成
葺石:あり
埴輪:あり
周溝
群馬県立文書館の敷地から周溝の跡が見つかり、前方部西側の周溝の幅は30m近いことが分かっている
主体部
未調査のため不明
出土遺物
周溝:円筒埴輪、土師器
3.探訪レポート
2015年5月5日(火)
2015年GW上毛野探訪の2日目。
昨日は21時半には寝てしまいましたが、とても快適に眠れて、起きたのは6時20分でした。
今回は朝飯付の宿泊プランにしたので、食堂へ行き、朝からお腹いっぱい食べます。
バイキング形式の場合、私はお米を食べてそのあとパンも食べることもありますし、完全なる野菜不足の私は、こういうときにここぞとばかりに野菜を食べるのですが、レンコンのきんぴらが特に美味しかった。
さて、そろそろ出発しようと思いますが、足が相変わらず痛いので、どうなっているのかな?と思いかかとを見てみると、何と両足ともかかとにでっかいマメができています。
ここまで大きいと、マメというよりかは水ぶくれみたいだ・・・
実は今回は長距離を歩いた実績のないトレッキングシューズを履いてきたのですが、この靴はアスファルトの上を長距離歩くのには向いていないようです。
とりあえず絆創膏を貼って、さらに手持ちがあと1枚になってしまったので、フロントに行って3枚もらってきました。
当初の計画では、今日は上野国府の南門と思われる場所へまず行ってから、そこから南へ向かい、高崎市の元島名将軍塚古墳のあたりで今度は東へ向かい、夕方には伊勢崎市内のホテルに入る予定でした。
つまりL字に移動です。
しかし、この足の痛みではちょっと無理です。
どうしようかなあ・・・
仕方がない、今日は群馬県立図書館に一日籠って資料調査をしよう。
8時過ぎに前橋カントリーホテルを出ます。
前橋駅北口に来ました。
図書館へはバス移動なので、とりあえずバス停のベンチに腰掛けてバスを待ちます。
しかし、せっかく上毛野に来て、たかだかマメができた程度で見たいものを見ないのも何だかなあ・・・
よし、無理しない程度に歩こう。
予定を変更して、広瀬川右岸に展開する広瀬古墳群を見てみようと思います。
ゆっくりと歩き出し、南口へまわります。
おっと、家系のラーメン屋発見。
実は昨日の夜、ホテルの部屋にあった周辺のお食事処マップにこのお店は載っていたのですが、昨日の夜の時点でたかだか5分歩くのも困難なほど足が痛くなっていたのです。
おそらく南口で唯一のラーメン専門店だと思いますが、今度前橋に泊まったときは食べてみます。
けやきウォークというショッピングモールの横を南下し、「天川原町」交差点を左折、しばらく歩くと前方左側にこんもりとした森が見えてきました。
きっとあれに違いない。
近づいてきます。
やっぱりそうでした。
天川二子山古墳は二子山児童公園の中にその墳丘を横たえていました。
お、さすがは国史跡、立派な説明板があります。
※主要古墳の分布に関しては下図を参照してください。
往時は150基とも200基ともいわれる古墳が存在し、それなりの規模を持つ首長墓級の前方後方墳や前方後円墳も17基は存在していましたが、現在残っている古墳は9基です。
天川二子山古墳は、前橋二子山古墳とも呼ばれたりしますが、「天川」の方で名前が通っているようで、説明板によると、墳長104メートルを誇る前方後円墳です。
前方後円墳のデザインの魅力の一つは、前方部の側面の麓から後円部を見た時の「くびれ」でしょう。
古墳ガールは前方後円墳の平面形が可愛いと言いますが、やはり我々男子はこのくびれに色気を感じるはずです。
国指定史跡を示す立派な石柱。
さあ、墳頂に登りましょう。
まずは前方部に登ってみました。
ところで、前方後円墳の形はどうしても丸い方が頭に見えてしまうのですが(「古墳ギャルのコフィー」みたいに古墳をキャラクター化すると必ずそうなる)、一応は四角い方が前ということになっているのです。
実際当時の人がどう考えていたかは分かりませんが、最近までは丸い方に埋葬主体(遺体を納める場所)を設けるのが通常だと思われており、やはり遺体がある場所は「奥」と考えるのが一般的なので、丸い方が「後円」と呼ばれてしまったのかもしれません。
でも古墳によっては前方部にも埋葬主体があるんですよね。
ただし、高さから行ったら古墳時代の前半は丸い方が高いので、そう考えるとやはり、四角い方が前のような気もします。
前方部から高い方である後円部を見ます。
この構図も私が好きなアングルの一つです。
なぜ好きか説明すると変態だと思われるので、聴きたい方は直接私にお訪ねください。
ちなみに説明板によると、前方部の高さが9.5mなのに対し、後円部は11mで、その差は1.5mしか無いのです。
説明板によると築造年代は6世紀前半から7世紀初期とかなり幅を取っていますが、前方部が高いことからおおよそこの通り、後期古墳であることは形状から分かりますね。
墳丘は川原石で葺かれており、説明板によると保護のためにその上に薄く土を盛っているそうですが、ところどころ葺石が顔をのぞかせています。
前方部から西の方の山々を望見すると、麓には群馬県立文書館があります。
非常に興味のある施設ですが、文書館の近辺からは周溝の跡が発見されています。
ただ、周溝の全体規模など詳細は分かっていないようです。
※註:2019年8月25日にクラツーで朝倉広瀬古墳群をご案内した際、文書館の見学もさせていただきましたが、古墳を古い絵図から調べる際にはそういった史料もありますのでぜひ訪れてみてください。
次に後円部に登ります。
後円部からは北の山々が見えますね。
後円部墳頂。
おっと、マニアにはたまらない三角点!
「点」の旧字に注目!
今度はさっきとは反対に、後円部から前方部を見ます。
こう見ると前方部が高く見えますが、さきほども言った通りあまり高低差がないからで、後円部の方が少し標高があるんですよ。
それでは墳丘から降ります。
2段築成の段の部分ではジョギングをしている人がいました。
おっと、公園内に大事なものが・・・
昨日遊んで、忘れて行ってしまったんでしょうね。
少なくとも家に着いた時点で忘れたことに気づいたはずだと思いますが、早く取りに来て欲しいな。
今のところ、足の痛みは我慢できないほどでもないので、引き続きゆっくりと古墳めぐりをします。
次は、東国最古級の古墳の一つである前方後方墳の前橋八幡山古墳です。
(つづく)
4.補足
天川二子山古墳と朝倉君 2020年6月21日
広瀬古墳群というのは、『前橋市史 第一巻』の定義によると、前橋旧市域の古墳、朝倉古墳群、後閑古墳群、山王古墳群の4地域の古墳群の総称で、戦前には150を超える古墳が現存していました。
実は、「古墳群」という定義は難しく、延々と数キロに渡って古墳が続いている場合、どこからどこまでを「群」とするのか決めにくいのです。
現在「広瀬古墳群」に含まれている古墳は、渋川市で利根川から分かれた広瀬川の流域のうち、前橋市街地以南の広瀬川右岸にある古墳群です。
その地域には広瀬という地名は見当たらないものの広瀬川流域ということで「広瀬古墳群」という名称が定着していましたが、最近の前橋市のパンフレットでは「朝倉・広瀬古墳群」と表記し、右島和夫さんもそう呼んでいます。
『前橋市史 第一巻』では、天川二子山古墳は 旧市域と朝倉古墳群の中間にあって、どちらに属して良いか決しかねるとしていますが、もちろん古代においてはそのような町名区割りはないわけで、この地は承平年間(931~938)に成立した『倭名類聚抄』に記載された上野国那波郡の朝倉郷の範囲であると考えられます。
『倭名類聚抄』に記載されているということは、朝倉という地名は古い地名であるわけですが、実はもっと古い『日本書紀』「孝徳紀」の大化2年(646)3月2日の条に、朝倉君という人物が登場するのです。
朝倉君といっても「あさくらくん!」ではないですよ。
「君」というのは身分の高い人に与えられる姓の一つで、朝倉君(あさくらのきみ)という人物は朝倉という土地を治めることを朝廷から認定されている地元の豪族ということになります。
その朝倉君は、前年に東国に派遣された国司が要求するままに馬や武器、それに布を差し出したのですが、要求自体は国司による権力をバックにした不当行為であるにも関わらず、それに応じられたということは朝倉君はかなりの財力を持っていたと考えられます。
もっとも、646年の時点で「国司」という名前の官職はありませんでしたが、『日本書紀』は編纂された8世紀前葉の用語で内容を記述していますので、646年の時点で上野方面に派遣された中央の官人が地元の有力者である朝倉君に不当な要求をしたことがあったのは事実として考えてよいでしょう。
その朝倉君ですが、天川二子山古墳の説明板では、当古墳は朝倉君の陵墓ではなかったかと推定していますが、『日本書紀』に登場する朝倉君の先祖の墓の可能性はあると思います。
ちなみに、天川二子山古墳がある場所は現在では天川という住所ですが、「旧町名への旅 天川町・新町・高田町」によると、天川という地名は、利根川を「天の川」になぞらえ、その両岸をそう呼んだとの説があり、戦国期にはすでに天川という地名がありました。
江戸期以降は天川村と呼ばれ、明治22年に前橋町に合わされ、明治25年に前橋町が市制を施行したときに前橋市内の大字になったという経緯があります。
ただし、古代には前述した朝倉郷に含まれていたと考えられます。
なお、『群馬の古墳物語 上巻』によると、天川二子山古墳の墳丘はほとんどすべて人工の盛り土と推測されています。
また、築造時期に関しては、説明板には6世紀前半から7世紀初期とかなりの幅で書かれていますが、文書館の周溝跡からは6世紀中ごろの榛名山火山に伴う層が確認されたため、それ以前に築造された可能性が強くなりました。
5.参考資料
・現地説明板
・『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年