2日目、新潟市内の探訪を終えた後は胎内市へ向かいます。
胎内市には城の山古墳があり、日本海側の前期古墳としては北限に位置するため、以前から見てみたかったのです。
さきほど歩いた古津八幡山遺跡が乗る丘を振り返ります。
古津八幡山遺跡は今度のツアーでご案内しますが、これから行く場所はツアーには入っていません。
45分ほど走り、それそろ城の山古墳かなというところで、小さな円墳のようなものを発見しました。
もしかして、この辺は「古墳ポコポコ地帯」か?
古墳ポコポコ地帯というのは、学術的には群集墳と呼ばれているもので、スミマセン、私独自の言い回しです。
お、あれだな!
あったー!
立派な説明板もありますよ。
ちゃんとキャラクターまでいる。
今度私も古墳に対して勝手に非公式のキャラクターを作っちゃおうかな。
でも私はこの程度の絵しか描けなく、幼少の頃より絵を描くことに対して非常なコンプレックスを持って生きてきました。
※これは私が書いた「チュウさんと与兵衛」という物語に出てくるキャラクターです
40過ぎてもこういうものしか描けず、本当に両親に申し訳ないと思っています。
周りの人からはよく「あなたには私のことはこういうふうに見えているのね」と言われるのですが、私は自分自身が人間であるのにも関わらず、人間の体の構造をうまく絵にすることができないのです。
そんなことより墳丘へ登りましょう。
墳頂。
説明板に書いてある通り、城の山古墳は円墳ではありますが、楕円形を呈しており、径の大きい方は45mあります。
円墳としては、全国的に見ても大きい部類に入りますね。
楕円形ということは、実は帆立貝式じゃないの?と思うかもしれませんが、築造時期が4世紀前半ということなので、おそらくそういうことはないでしょう。
墳丘から東方向の眺め。
北方向の眺め。
城の山古墳の名前の由来は、古代末からこの周辺を治めていた城氏の墓であるとの伝承によります。
ところで、城の山古墳は大きいということでも話題性に富みますが、既述した通り日本海側の古墳としては最北端に位置することも興味深いです。
つまり、古墳時代前期にヤマト王権の影響力がこの地域までおよんだことが分かるわけですね。
ヤマト王権は、発足してから100年以内にはここ新潟県や南東北にまで影響力をおよばし、それを私は「ヤマト王権のフランチャイズ戦略」と呼んでおり、城の山古墳の被葬者も「加盟店」として加わったわけです。
私はヤマト王権は戦争による支配領域の拡大は基本的にはしなかったと考えており、本部の営業マンが列島各地に飛んで、平和裏に交渉によって加盟店を増やしていったと考えています。
それでは、ここより北に加盟店はできなかったのでしょうか。
城の山古墳から北東方向へ4㎞少しで胎内川が流れており、その向こうには現在の新潟県の最北の町である村上市が展開していますが、現状では村上市域では浦田山古墳群という後期の古墳が知られているのみです。
浦田山古墳群は、6世紀に九州をルーツとする海人集団が造営した墓である可能性が高く、そうなると古墳時代中期までは村上市域にはヤマト王権の力はおよばなかったように見えますが、ここまで来てしまえば村上市域はあと一歩ですから、城の山古墳の被葬者が村上市域を支配していたのかもしれません。
ところで、先ほど見た説明板に、出土品は「奥山荘歴史館」にあると書いてありましたね。
しかも土日祝しか開館しておらず探訪難易度がやや高いですが、今日は開いているはずです。
案内図はこちら。
車で5分。
予定には入っていませんが行ってみましょう!
そして到着!
この続きは後日!
(つづく)
胎内市には城の山古墳があり、日本海側の前期古墳としては北限に位置するため、以前から見てみたかったのです。
さきほど歩いた古津八幡山遺跡が乗る丘を振り返ります。
古津八幡山遺跡は今度のツアーでご案内しますが、これから行く場所はツアーには入っていません。
45分ほど走り、それそろ城の山古墳かなというところで、小さな円墳のようなものを発見しました。
もしかして、この辺は「古墳ポコポコ地帯」か?
古墳ポコポコ地帯というのは、学術的には群集墳と呼ばれているもので、スミマセン、私独自の言い回しです。
お、あれだな!
あったー!
立派な説明板もありますよ。
ちゃんとキャラクターまでいる。
今度私も古墳に対して勝手に非公式のキャラクターを作っちゃおうかな。
でも私はこの程度の絵しか描けなく、幼少の頃より絵を描くことに対して非常なコンプレックスを持って生きてきました。
※これは私が書いた「チュウさんと与兵衛」という物語に出てくるキャラクターです
40過ぎてもこういうものしか描けず、本当に両親に申し訳ないと思っています。
周りの人からはよく「あなたには私のことはこういうふうに見えているのね」と言われるのですが、私は自分自身が人間であるのにも関わらず、人間の体の構造をうまく絵にすることができないのです。
そんなことより墳丘へ登りましょう。
墳頂。
説明板に書いてある通り、城の山古墳は円墳ではありますが、楕円形を呈しており、径の大きい方は45mあります。
円墳としては、全国的に見ても大きい部類に入りますね。
楕円形ということは、実は帆立貝式じゃないの?と思うかもしれませんが、築造時期が4世紀前半ということなので、おそらくそういうことはないでしょう。
墳丘から東方向の眺め。
北方向の眺め。
城の山古墳の名前の由来は、古代末からこの周辺を治めていた城氏の墓であるとの伝承によります。
ところで、城の山古墳は大きいということでも話題性に富みますが、既述した通り日本海側の古墳としては最北端に位置することも興味深いです。
つまり、古墳時代前期にヤマト王権の影響力がこの地域までおよんだことが分かるわけですね。
ヤマト王権は、発足してから100年以内にはここ新潟県や南東北にまで影響力をおよばし、それを私は「ヤマト王権のフランチャイズ戦略」と呼んでおり、城の山古墳の被葬者も「加盟店」として加わったわけです。
私はヤマト王権は戦争による支配領域の拡大は基本的にはしなかったと考えており、本部の営業マンが列島各地に飛んで、平和裏に交渉によって加盟店を増やしていったと考えています。
それでは、ここより北に加盟店はできなかったのでしょうか。
城の山古墳から北東方向へ4㎞少しで胎内川が流れており、その向こうには現在の新潟県の最北の町である村上市が展開していますが、現状では村上市域では浦田山古墳群という後期の古墳が知られているのみです。
浦田山古墳群は、6世紀に九州をルーツとする海人集団が造営した墓である可能性が高く、そうなると古墳時代中期までは村上市域にはヤマト王権の力はおよばなかったように見えますが、ここまで来てしまえば村上市域はあと一歩ですから、城の山古墳の被葬者が村上市域を支配していたのかもしれません。
ところで、先ほど見た説明板に、出土品は「奥山荘歴史館」にあると書いてありましたね。
しかも土日祝しか開館しておらず探訪難易度がやや高いですが、今日は開いているはずです。
案内図はこちら。
車で5分。
予定には入っていませんが行ってみましょう!
そして到着!
この続きは後日!
(つづく)