先日まで上野の国立博物館で開催していた「三国志展」は行かれましたか?
中学生のときからの三国志マニアである私にとっては、おそらく今まで見た博物館の企画展示の中では最も面白く、もう発狂しそうなほどに楽しかったです。
それについて書くと大変なことになるので興奮を静かに抑えつつお話ししますが、これに気付いた方もいらっしゃったと思います。
いったいこれは何でしょう。
説明はこちらです。
我ら倭人のボスである公孫氏の炉ということです。
この形状を見て前方後円墳を思い出した方もいらっしゃると思います。
私はこれを見て、前方後円墳の形状のルーツについて確信に近づくことができました。
もちろん、こういうものが日本に渡ってきて、それを見た人が前方後円墳をデザインした、と言いたいわけではありません。
問題は公孫氏のいた遼寧省という場所です。
遼寧省の辺りは、日本の縄文時代に黄河文明や長江文明と並ぶ遼河文明が栄えたところで、遼河文明人は「天円地方」の思想を持っていたといわれています。
つまり、天が丸くて地が四角いという発想をもった人々がこういうデザインのものを考え出したとしたら、天円地方の思想は日本にも来ていると私は考えていますので、やはり日本人も同じような発想で前方後円墳をデザインしたのではないかと考えたわけです。
ようするに、昔から言われている前方後円墳の形状のルーツは天円地方思想によるという説が、自分の心の中でクローズアップされてしまったわけです。
そう考えると、東北アジアの人びとの墳墓の形状にも前方後円形があるのも同様な影響下の元にデザインされたと考えると納得がいきます。
私が今、中国大陸で一番注目しているのが遼河文明の場所で、遼河文明は中国の中原にも影響を及ぼしていますし、その文化は縄文時代の日本にどのような形で入ってきているか、主として東北地方の縄文遺跡のなかにその痕跡を探索中です。
では、この話はこの辺で終わらせて、先日の奥羽越歴史探訪の続きをご報告します。
20年以上前に訪れたことのある山形城を再訪し、最上義光像と久闊を叙した後は急いで南下します。
山形県内にも興味深い古墳は多くあるのですが、今回は本格的な下見ではなく、時間も確保できないので、南陽市の稲荷森古墳だけは見ていこうと思います。
霞城公園の駐車場を出て1時間ほど走り、目的の場所につきました。
雷電號を降りて、さっそく墳丘へ向かいます。
おおっ!
ここから見ると三段築成の円墳に見えますが、前方後円墳ですよ。
前方部側へ回りましょう。
バーン!
前方後円墳の場合、築造者が最も見てほしいのは真横からのアングルですよ。
しかしでかいですねえ。
96メートルあります。
山形にもこんな大きな前方後円墳があるんすよ!
ちなみに敷地の関係でこれ以上は後ろへ引けません。
説明板もちゃんとありますね。
ここに書かれている通り、出羽国内の内陸部では卓越した規模を誇る前方後円墳ですね。
なお、東北地方の古墳の大きさランキングはこんな感じです。
1位 雷神山古墳(宮城県名取市) 168メートル
1位 南森古墳(山形県南陽市) 168メートル
3位 亀ヶ森古墳(福島県会津坂下町) 129メートル
4位 塚前古墳(福島県いわき市) 120メートル
5位 会津大塚山古墳(福島県会津若松市) 114メートル
6位 玉山古墳(福島県いわき市) 112メートル
7位 遠見塚古墳(宮城県仙台市) 110メートル
8位 青塚古墳(宮城県大崎市) 100メートル
9位 稲荷森古墳(山形県南陽市) 96メートル
ということで、東北で9番目に大きな古墳なのです。
ちなみに私はまだ、1位タイの南森古墳と、4位、6位は未探訪なので今後より一層精進いたします。
なお、近年1位タイに躍り出た同じ南陽市の南森古墳は、昨年の調査で古墳である可能性が非常に高まったもので、まだ古墳であることは完全に確定していないようですが、古墳だとしたら規模は雷神山と並んでしまうことになります。
今後の発表に注視しましょう。
こちらは稲荷森古墳の築造方法の説明。
地山を削って成形しつつ、削った土を盛って後円部を3段築成にしているわけですね。
前方後円墳で私が一番好きなアングルはこれです。
前方後円墳は「くびれ」がセクシーなのです。
あ、セクシーとかいうと某政治家のように何か言われるかもしれません。
では、墳丘に登ますよ。
前方部。
植栽に囲まれているのが、埼玉古墳群の稲荷山古墳を思い出させます。
もしかして、あの森が上述した南森古墳がある森でしょうか?
前方部から後円部を見ます。
おっと、地元の若者が写ってしまった!
そういえば、下に自転車が置いてありましたな。
墳頂で男二人で何をしてたんでしょうね?
いなくなったのでもう一回。
段築を確認。
後円部から前方部。
後円部墳頂。
何かが設置してあります。
墳頂からの眺め。
私が雷電號を停めたのはもしかして正規の駐車場ではなかったのでしょうか?
では降りましょう。
さきほど墳頂からこんなのが見えていました。
古墳のスケールはデフォルメしていますが、方向は合っているようです。
稲荷森古墳の比較的に近くには戸塚山古墳群と天神森古墳があります。
本当は、前方後方墳である天神森古墳と、ここにある139号墳や「置賜の卑弥呼」と呼ばれる人骨が見つかった137号墳を擁する戸塚山古墳群も探訪したいのですが、今日は時間的に無理です。
ところで、さきほどの説明板には、築造時期については「1600年前」と表記してありましたが、そうなると単純に計算して5世紀初頭ということになります。
手元の『東北古墳探訪』(相原清次・三橋浩/著)によると「古墳時代前期の4世紀後半」とあるので、前期ということで4世紀半ばになるかもしれません。
(つづく)
中学生のときからの三国志マニアである私にとっては、おそらく今まで見た博物館の企画展示の中では最も面白く、もう発狂しそうなほどに楽しかったです。
それについて書くと大変なことになるので興奮を静かに抑えつつお話ししますが、これに気付いた方もいらっしゃったと思います。
いったいこれは何でしょう。
説明はこちらです。
我ら倭人のボスである公孫氏の炉ということです。
この形状を見て前方後円墳を思い出した方もいらっしゃると思います。
私はこれを見て、前方後円墳の形状のルーツについて確信に近づくことができました。
もちろん、こういうものが日本に渡ってきて、それを見た人が前方後円墳をデザインした、と言いたいわけではありません。
問題は公孫氏のいた遼寧省という場所です。
遼寧省の辺りは、日本の縄文時代に黄河文明や長江文明と並ぶ遼河文明が栄えたところで、遼河文明人は「天円地方」の思想を持っていたといわれています。
つまり、天が丸くて地が四角いという発想をもった人々がこういうデザインのものを考え出したとしたら、天円地方の思想は日本にも来ていると私は考えていますので、やはり日本人も同じような発想で前方後円墳をデザインしたのではないかと考えたわけです。
ようするに、昔から言われている前方後円墳の形状のルーツは天円地方思想によるという説が、自分の心の中でクローズアップされてしまったわけです。
そう考えると、東北アジアの人びとの墳墓の形状にも前方後円形があるのも同様な影響下の元にデザインされたと考えると納得がいきます。
私が今、中国大陸で一番注目しているのが遼河文明の場所で、遼河文明は中国の中原にも影響を及ぼしていますし、その文化は縄文時代の日本にどのような形で入ってきているか、主として東北地方の縄文遺跡のなかにその痕跡を探索中です。
では、この話はこの辺で終わらせて、先日の奥羽越歴史探訪の続きをご報告します。
* * *
20年以上前に訪れたことのある山形城を再訪し、最上義光像と久闊を叙した後は急いで南下します。
山形県内にも興味深い古墳は多くあるのですが、今回は本格的な下見ではなく、時間も確保できないので、南陽市の稲荷森古墳だけは見ていこうと思います。
霞城公園の駐車場を出て1時間ほど走り、目的の場所につきました。
雷電號を降りて、さっそく墳丘へ向かいます。
おおっ!
ここから見ると三段築成の円墳に見えますが、前方後円墳ですよ。
前方部側へ回りましょう。
バーン!
前方後円墳の場合、築造者が最も見てほしいのは真横からのアングルですよ。
しかしでかいですねえ。
96メートルあります。
山形にもこんな大きな前方後円墳があるんすよ!
ちなみに敷地の関係でこれ以上は後ろへ引けません。
説明板もちゃんとありますね。
ここに書かれている通り、出羽国内の内陸部では卓越した規模を誇る前方後円墳ですね。
なお、東北地方の古墳の大きさランキングはこんな感じです。
1位 雷神山古墳(宮城県名取市) 168メートル
1位 南森古墳(山形県南陽市) 168メートル
3位 亀ヶ森古墳(福島県会津坂下町) 129メートル
4位 塚前古墳(福島県いわき市) 120メートル
5位 会津大塚山古墳(福島県会津若松市) 114メートル
6位 玉山古墳(福島県いわき市) 112メートル
7位 遠見塚古墳(宮城県仙台市) 110メートル
8位 青塚古墳(宮城県大崎市) 100メートル
9位 稲荷森古墳(山形県南陽市) 96メートル
ということで、東北で9番目に大きな古墳なのです。
ちなみに私はまだ、1位タイの南森古墳と、4位、6位は未探訪なので今後より一層精進いたします。
なお、近年1位タイに躍り出た同じ南陽市の南森古墳は、昨年の調査で古墳である可能性が非常に高まったもので、まだ古墳であることは完全に確定していないようですが、古墳だとしたら規模は雷神山と並んでしまうことになります。
今後の発表に注視しましょう。
こちらは稲荷森古墳の築造方法の説明。
地山を削って成形しつつ、削った土を盛って後円部を3段築成にしているわけですね。
前方後円墳で私が一番好きなアングルはこれです。
前方後円墳は「くびれ」がセクシーなのです。
あ、セクシーとかいうと某政治家のように何か言われるかもしれません。
では、墳丘に登ますよ。
前方部。
植栽に囲まれているのが、埼玉古墳群の稲荷山古墳を思い出させます。
もしかして、あの森が上述した南森古墳がある森でしょうか?
前方部から後円部を見ます。
おっと、地元の若者が写ってしまった!
そういえば、下に自転車が置いてありましたな。
墳頂で男二人で何をしてたんでしょうね?
いなくなったのでもう一回。
段築を確認。
後円部から前方部。
後円部墳頂。
何かが設置してあります。
墳頂からの眺め。
私が雷電號を停めたのはもしかして正規の駐車場ではなかったのでしょうか?
では降りましょう。
さきほど墳頂からこんなのが見えていました。
古墳のスケールはデフォルメしていますが、方向は合っているようです。
稲荷森古墳の比較的に近くには戸塚山古墳群と天神森古墳があります。
本当は、前方後方墳である天神森古墳と、ここにある139号墳や「置賜の卑弥呼」と呼ばれる人骨が見つかった137号墳を擁する戸塚山古墳群も探訪したいのですが、今日は時間的に無理です。
ところで、さきほどの説明板には、築造時期については「1600年前」と表記してありましたが、そうなると単純に計算して5世紀初頭ということになります。
手元の『東北古墳探訪』(相原清次・三橋浩/著)によると「古墳時代前期の4世紀後半」とあるので、前期ということで4世紀半ばになるかもしれません。
(つづく)
置賜は気になって出てくる場所です。
今後楽しみにしております。