日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

上戸日枝神社|埼玉県川越市 ~川越の古代を探る上で最重要な神社の一つ~

2020-08-28 14:11:06 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


埼玉県川越市



現況




史跡指定


なし

出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2016年10月10日(土)



この日の探訪箇所
山王塚古墳 → 尾崎神社 → 東山道武蔵路跡(JR的場駅近辺) → 河越館跡 → 上戸日枝神社 → 浅間宮の謎の塚 → 牛塚古墳 → 川越市立博物館 → 川越城跡 → 喜多院多宝塔古墳


さて、休憩の後は日枝神社へやってきました。



 まずは神様にご挨拶してから散策を始めましょう。



 扁額。



 「俺のスピードについて来れるか!」



 全速で走っていたので捕捉できませんでした。

 境内神社。



 向かって右から、白山神社、御嶽神社、え、え・・・?

 うぉーっ!

 大地主神社っ!



 名前からして地元の神様に違いありませんね。

 もしかしたら、ヤマト王権がこの地に支配をおよぼす前にこの近辺に君臨していた「入間の王」かもしれません。



 ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ奉ります!

 ・・・神様は顔は見えないので、イメージですよ。

 日枝神社なのでお猿さん。 



 懸仏の説明があります。



 ※この日訪れた川越市立博物館に複製が展示してありました。



 ※ちなみにこの右側の梵鐘も日枝神社にあったものだそうですが、展示されているのは複製です。




※以上3枚は同日に川越市立博物館展示にて撮影

 では、境内散策の続きです。

 こちらでも3社が並んで祀られています。



 向かって右から、八坂神社、八幡神社、疱瘡神社です。

 ※この探訪の時は不覚にも神社の由来が記された説明板に気づかなかったようで、Webを検索していたら、ブログ「白い参拝記」さんに説明板の写真が掲載されていました。

 それによると、境内社となっている神社のうち、明治時代に無格社だった神明、八坂天王、愛宕、御岳、浅間などは、明治41年にこちらに合祀されたとのことです。

 2015年1月23日にこの近辺に来たときに、上戸の天王公園を訪れ、その公園が神社のような佇まいであるのに社殿もないしその形跡もなくて不審に思ったのですが、こちらに祀ってある八坂神社が元々そこにあったと考えられます。

 それと、上戸日枝神社の祭神は、大山咋・大己貴・小彦名・大日霊・大御食都・大屋昆古の6柱です。

 あれ、社殿は無いようですが・・・



 境内の一部分は公園になっており、すべり台やブランコなどが設置してありますよ。



 しかし、境内神社が多いですね。

 神明社です。



 境内には横っちょから入ってきてしまったため、正式な参道の方には最後に来てしまいました。



 正式に外の参道から入ってきた場合、鳥居をくぐると両サイドの祠に気づくと思います。



 戸衛神社という聴きなれない名前の神様ですが、字面からすると、神社の入り口を守っている神様ですね。



 鳥居の先には直線の参道が伸びています。



 この参道は、南の方向に延びているのですが、先ほどの東山道武蔵路跡のページでもお見せしたこちらの図をご覧ください。


※同日、川越市立博物館にて撮影

 ここからまっすぐ1.2㎞弱のところに川越で最大の前方後円墳である牛塚古墳があり、この参道は牛塚古墳の前方部に向けて計算して造られています。

 道と古墳の位置だけを見ると、まるで大和の下ツ道と五条野丸山古墳みたいですね。

 牛塚古墳が築造されたのは6世紀末です。

 一方、ここ日枝神社の創建時期に関しては、神社の記録では貞観年間(859~77)となっていますが、『古代入間郡の役所と道』の考察によれば、宝亀3年(772)の太政官符に登場する入間郡家を護る「出雲伊波比神」が、この上戸日枝神社であると推定しています。

 もしその推定が正しければ、貞観よりも古く、8世紀半ばにはすでにこの場所に神社が存在し、さらに入間郡家の設置と同時に鬼門除けとして祀られたとすると、創建は7世紀後半にまでさかのぼる可能性があります。

 いずれにしても、古墳よりは後に神社が造られたわけですが、神を祀った人びとは、少し前の時代にこの地方を治めていた牛塚古墳の被葬者を意識したことは確かです。

 そしてその牛塚古墳の被葬者、すなわち「入間の王」がさきほど登場した大地主神ではないでしょうか。

 上戸日枝神社の南へ延びる参道に関しては、現在でも牛塚古墳との間にある霞ヶ関駅によって分断されている場所以外の道は、古墳のすぐ近くまで直線道として残っています。

 古代において、すでに古墳時代の古墳祭祀が終了した後も、神社の祀りとして、その道を使って古墳と行き来する現代の神輿渡御のような儀式があったのではないかと考えます。

 ではつづいて、その牛塚古墳へ行ってみたいところですが、その前に、牛塚古墳の近くにあるという円墳のような塚を確認してみようと思います。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『川越市立博物館 第41回企画展 古代入間郡の役所と道』 2015年


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