⇒前回の記事はこちら
五香十字路の北側から野馬除土手を見ながら歩いて、プラッツ五香までやってきました。
プラッツ五香の遠景。
確か私が成人したころにここにお店ができましたが、当時は違うスーパーでした。
買い物エリアではなかったのであまり記憶がないです。
もっと前の時期は、中学校の通学ルートがこの辺だったんですよね。
二股に分かれています。
左側へ行くと我が家への近道でした。
つまり、このお墓の横の道が通学路だったのです。
そしてこの道が、江戸時代の野馬除土手のラインでもあったんですよね。
今は遺構は何もありません。
ちなみに中学校はちょっと遠くて、歩程2.5㎞ありました。
自転車通学が許可されていたので、ヘルメットをかぶって自転車で通った時期もありますが、学校帰りに遊んで帰ることが多かった時期は徒歩通学で、毎日結構な距離を歩きましたよ。
さて、墓地の横を通り、県道に出ました。
すぐ横には髙靇(たかお)神社があります。
あー、綺麗になったなあ。
香実会所跡の標柱。
当時住んでいた住所は五香六実(ごこうむつみ)と言ったのですが、明治になり小金牧跡が開墾地となったとき、広大な跡地に新たな地名が付けられていきました。
初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三というように美しい名前が付けられ、名付け親は下総牧開墾局知事の北島秀朝とされています。
この中で五香と六実は一緒にされることが多く、五香と六実を合わせて「香実」と呼んでいました。
会所では、女性や子供たちに対して、内職できる竹皮の草履や線香作りなどを教えていたそうです。
髙靇神社の祭神は、大山阿夫利神社に祀られている髙靇ノ命とヤマトタケル、それに出雲の「龍蛇神」という神社好きなら飛びつきそうな興味深い神様です。
いまだに私はこの神社については良く分かりませんが、やはり開拓民が信奉した神ですから雨乞いは重要なのでしょう。
そして私はいま、「高尾(たかお)」に住んでいます。
「たかお」という言葉には不思議な縁があるのかもしれません。
県道281号線を渡った先に続いている道が中学の通学路でした。
そしてその道のラインも先ほどからの土手の続きなのです。
その道沿いにも当時よく遊んだ友達の実家がありますが、今日は出身小学校へ行ってみたいので、ここから県道沿いを西へ進むことにします。
あー、このお肉屋さんも同級生だ。
道路を渡って小学校に近づくと、裏門が開いています。
せっかくなのでお邪魔しましょう。
裏から体育館の脇を通り、校庭へ出ます。
うわー、懐かしい。
「例のもの」はあるかな?
おー、まだあった!
トーテムポールです。
これは私よりも少し上の先輩が小学校を卒業するときに各クラスごとに造ったものです。
この中の一本。
エザル、いた・・・
これはある先生が自分自身をキャラクター化したものです。
この先生はこのあと、私が4年生の時に担任となりました。
私は小・中・高の12年間、毎年素晴らしい担任に恵まれたのですが、その中でもこのエザルの先生はとても良い先生で子供たちにも人気があったのです。
当時のうちの小学校には20代の若い熱血男性教諭が数名おりその中の一人だったのですが、クラスは一体感があり楽しかったですし、同級生の中には先生の影響で教育者になった者もいます。
今では考えられませんが、先生はたまに「校外学習」と称し、子供たちを遊びに連れて行ってくれました。
江戸川に遊びに行ったときは、松戸の有名なたい焼き屋さんで子供たち全員(40名以上)にたい焼きを振舞ってくれたり、後で先生が述懐したところによると、当時は校長先生など目上の先生たちと教育方針で衝突したということでした。
私たちも先生が住んでいた常盤平の団地にフラッと遊びに行くこともありましたよ。
知人の現役の小学校教諭から聞いたところでは、今は先生の住所は子供たちに教えないそうで、年賀状は学校に届くそうですね。
時代は変わっていくんだなあ・・・
さて、校庭をぐるっとめぐってみます。
遊具は当時と変わらないものもありますが、危険性が高い遊具(回転するやつとか)は撤去されて今はないです。
名前は分かりませんが回転する遊具にぶら下がり、友達に目一杯回してもらうと高速回転して、手を離すとかなり飛べるんですよね。
私も友達もずいぶんケガをしましたが楽しかったな。
子供の頃にケガをしたり人に殴られる経験はしたほうがいいですね。
自分自身が物理的な痛みを味わうことによって、他人にしてはいけないことが理解できると思います。
あれ、ラリアちゃんがいない?
松戸市は豪州のホワイトホース市と姉妹都市で、確かその関連だったように思えますが、遊具の間に「ラリアちゃん」というカンガルーの石像があったのです。
私が小学校に入ったころはまだ桜の木の害虫駆除をしておらず、夏になるとそこら中にアメリカシロヒトリ(白い毛虫)が闊歩しており、ラリアちゃんや遊具にもビシーッと取り付いており、気づくと肩の上にいらっしゃったりしました。
あるときは同級生がラリアちゃんに頭をぶつけて流血騒ぎになったこともありました。
老朽化が進んで撤去されてしまったんでしょうね。
校庭の写真を撮影しながら歩いているのは完全に不審者に見えるかもしれませんが、別にそんなことは構いません。
目に入るものすべてが懐かしい・・・
それでは、小学校を後にして当時住んでいたマンションの方へ向かいます。
あー、駄菓子屋さんがとっくになくなっているのは知っていましたが、表札の名字は変わりません。
カップ焼きそばを食べるときにお湯を入れてもらうとおばちゃんは10円取ったんですよね。
当時の子供にとっては10円は大きいです。
でも、考えてみれば水道代とガス代がかかるわけですから、それくらい良いと思います。
今はコンビニで当たり前のようにお湯を入れていく人が多いですが、トイレを借りられることを含めて、もっとコンビニに感謝しないとだめですよ。
通学路の途中、一箇所だけ曲がり角があったのですが、拡幅されています。
分かれ道。
この右側を行くと我が家の方向。
もう、周辺は同級生の家だらけ。
いちいちピンポンダッシュをしていたら身が持ちませんよ。
下り坂が見えてきました。
あれ、もっと急坂だと思っていたけど、意外と緩い坂だ。
途中にある親友の家は建て替えており綺麗になっています。
高校2年の時にバイトをしていたスーパーの前に来ました。
ここは完全に面影がありません。
スーパーはマンションの1階に入っていたのですが、マンションはもうなく、住宅地となっています。
灯油を買いに来ていたガス屋さんもない?
ここのT字路から元山駅の方向を見ます。
モガミのパン屋さんがある!
子供の頃大好きで良く食べていましたが、現役なようで嬉しい。
しかし、この通りも昔は活気があったんですよ。
今日は元山駅の方には行かず、来た道を直進します。
はい、この右側の3階建てのマンションが18年くらい住んでいたマンションです。
引っ越した当初は新築で綺麗だったんです(当たり前か)。
マンション横にあった造園屋さんは駐輪場になっており、その奥にあった梨園もなくなっています。
道路の向かいには美容室がありますが、当時私が通っていたお店ではありません。
マンションの1階はテナントなのですが、当時はスナックなどで全部埋まっていました。
スナックが階下にあると、夜寝ている時に歌声が聞こえてくるのです。
たまに「あ、あいつが歌ってる」と友人の声と分かったりもしましたよ。
音というのは高音は壁などで遮断されて伝わりにくいのですが、低音は柱や壁を伝って聴こえてきます。
そのため、ベースの音が良く聴こえていました。
今現在、私が騒音に強くてどこでも眠れるのは、こういう環境で育ったお陰ですね。
しかし、大人の足で歩くと小学校から自宅は一瞬だな。
ちなみに6年生の時はサッカーボールをドリブルして通う変な子でしたよ。
もう少し先まで行きましょう。
あ、猫ちん!
昔うちにいたリリーの子孫かも知れない。
酒屋さんはやっていないかな?
ところてん工場はまだある。
緩い坂を下ってもっとも標高が低い場所まで来ました。
来る前にこの辺を航空写真で見ていたら、親友の家が更地になっているように見えてビックリしたので来てみましたが、更地になっていたのは隣の家でした。
ご両親お元気だろうか?
彼のお母さんは私のことを「いなようくん」と呼ばずに「いないようくん」と呼ぶのです。
でもそういう人は今まで数人いましたよ。
その方が発音しやすいんでしょう。
さらに進むと、昔は森だった場所がもう森でなくなっていました。
ここは大津川という川の支流・柳沢水路の水源地に近く、11㎞くらい下っていくと手賀沼に到達します。
小学生の時に大きな台風のためにこの辺に浸水被害が出たことを覚えており、クラスにも被害にあった子がいて、詳しくは覚えていませんが同級生でカンパしたことがありました。
当時は地形とかそんなことは気にしていませんでしたが、いまこうして改めて地形を観察すると、この辺りがそういったリスクのある場所だということが理解できます。
ただし、いまは水のコントロールがしっかりしておりそういう被害の心配はないようです。
一段丘を登ります。
この辺まで来ると駅からちょっと遠いせいか、あまり開発は進んでおらず当時とそれほど変わりませんね。
畑やら梨園やらは昔と一緒です。
振り返って柳沢水路の方を見ます。
地形が少し落ちているのが分かりますね。
ところで、今回の探訪で国分川の水源地が当時の我が家に近い場所であると話したことを覚えているでしょうか?
国分川は江戸川、すなわち東京湾方面にそそぐ川で、さきほどみた柳沢水路は反対側の手賀沼にそそぐ川です。
その二つの河川の水源地がこの近くにあることから分かる通り、この辺には分水嶺があるのです。
周辺には他にもいくつか小河川があるのですが、ちょうど新京成の線路があるラインが分水嶺となっており、この辺りの場合は、松戸から京成津田沼へ向かう新京成の車窓左手の川は手賀沼へ向かい、右手は東京湾へ向かうというわけです。
こういった地形についても当時は興味がなかったわけですが、改めて観察してみるととても面白く、さきほどの浸水被害の件を含め、子供の頃の疑問が今になってから氷解したりします。
さて、県道57号線に出ました。
陸上自衛隊松戸駐屯地の前の通りですね。
あそこですね。
背後にはちょうど新京成が走っていきました。
道路を渡って確認してみましょう。
この横の県道は数えきれないほど通っていますが、この存在にはまったく気が付きませんでした。
しかもこの県道のライン自体がまさしく土手の跡なんですよね。
さて、だいぶ歩いてきて気づけばもう15時20分です。
先を急ごうかな。
⇒この続きはこちら
五香十字路の北側から野馬除土手を見ながら歩いて、プラッツ五香までやってきました。
プラッツ五香の遠景。
確か私が成人したころにここにお店ができましたが、当時は違うスーパーでした。
買い物エリアではなかったのであまり記憶がないです。
もっと前の時期は、中学校の通学ルートがこの辺だったんですよね。
二股に分かれています。
左側へ行くと我が家への近道でした。
つまり、このお墓の横の道が通学路だったのです。
そしてこの道が、江戸時代の野馬除土手のラインでもあったんですよね。
今は遺構は何もありません。
ちなみに中学校はちょっと遠くて、歩程2.5㎞ありました。
自転車通学が許可されていたので、ヘルメットをかぶって自転車で通った時期もありますが、学校帰りに遊んで帰ることが多かった時期は徒歩通学で、毎日結構な距離を歩きましたよ。
さて、墓地の横を通り、県道に出ました。
すぐ横には髙靇(たかお)神社があります。
あー、綺麗になったなあ。
香実会所跡の標柱。
当時住んでいた住所は五香六実(ごこうむつみ)と言ったのですが、明治になり小金牧跡が開墾地となったとき、広大な跡地に新たな地名が付けられていきました。
初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三というように美しい名前が付けられ、名付け親は下総牧開墾局知事の北島秀朝とされています。
この中で五香と六実は一緒にされることが多く、五香と六実を合わせて「香実」と呼んでいました。
会所では、女性や子供たちに対して、内職できる竹皮の草履や線香作りなどを教えていたそうです。
髙靇神社の祭神は、大山阿夫利神社に祀られている髙靇ノ命とヤマトタケル、それに出雲の「龍蛇神」という神社好きなら飛びつきそうな興味深い神様です。
いまだに私はこの神社については良く分かりませんが、やはり開拓民が信奉した神ですから雨乞いは重要なのでしょう。
そして私はいま、「高尾(たかお)」に住んでいます。
「たかお」という言葉には不思議な縁があるのかもしれません。
県道281号線を渡った先に続いている道が中学の通学路でした。
そしてその道のラインも先ほどからの土手の続きなのです。
その道沿いにも当時よく遊んだ友達の実家がありますが、今日は出身小学校へ行ってみたいので、ここから県道沿いを西へ進むことにします。
あー、このお肉屋さんも同級生だ。
道路を渡って小学校に近づくと、裏門が開いています。
せっかくなのでお邪魔しましょう。
裏から体育館の脇を通り、校庭へ出ます。
うわー、懐かしい。
「例のもの」はあるかな?
おー、まだあった!
トーテムポールです。
これは私よりも少し上の先輩が小学校を卒業するときに各クラスごとに造ったものです。
この中の一本。
エザル、いた・・・
これはある先生が自分自身をキャラクター化したものです。
この先生はこのあと、私が4年生の時に担任となりました。
私は小・中・高の12年間、毎年素晴らしい担任に恵まれたのですが、その中でもこのエザルの先生はとても良い先生で子供たちにも人気があったのです。
当時のうちの小学校には20代の若い熱血男性教諭が数名おりその中の一人だったのですが、クラスは一体感があり楽しかったですし、同級生の中には先生の影響で教育者になった者もいます。
今では考えられませんが、先生はたまに「校外学習」と称し、子供たちを遊びに連れて行ってくれました。
江戸川に遊びに行ったときは、松戸の有名なたい焼き屋さんで子供たち全員(40名以上)にたい焼きを振舞ってくれたり、後で先生が述懐したところによると、当時は校長先生など目上の先生たちと教育方針で衝突したということでした。
私たちも先生が住んでいた常盤平の団地にフラッと遊びに行くこともありましたよ。
知人の現役の小学校教諭から聞いたところでは、今は先生の住所は子供たちに教えないそうで、年賀状は学校に届くそうですね。
時代は変わっていくんだなあ・・・
さて、校庭をぐるっとめぐってみます。
遊具は当時と変わらないものもありますが、危険性が高い遊具(回転するやつとか)は撤去されて今はないです。
名前は分かりませんが回転する遊具にぶら下がり、友達に目一杯回してもらうと高速回転して、手を離すとかなり飛べるんですよね。
私も友達もずいぶんケガをしましたが楽しかったな。
子供の頃にケガをしたり人に殴られる経験はしたほうがいいですね。
自分自身が物理的な痛みを味わうことによって、他人にしてはいけないことが理解できると思います。
あれ、ラリアちゃんがいない?
松戸市は豪州のホワイトホース市と姉妹都市で、確かその関連だったように思えますが、遊具の間に「ラリアちゃん」というカンガルーの石像があったのです。
私が小学校に入ったころはまだ桜の木の害虫駆除をしておらず、夏になるとそこら中にアメリカシロヒトリ(白い毛虫)が闊歩しており、ラリアちゃんや遊具にもビシーッと取り付いており、気づくと肩の上にいらっしゃったりしました。
あるときは同級生がラリアちゃんに頭をぶつけて流血騒ぎになったこともありました。
老朽化が進んで撤去されてしまったんでしょうね。
校庭の写真を撮影しながら歩いているのは完全に不審者に見えるかもしれませんが、別にそんなことは構いません。
目に入るものすべてが懐かしい・・・
それでは、小学校を後にして当時住んでいたマンションの方へ向かいます。
あー、駄菓子屋さんがとっくになくなっているのは知っていましたが、表札の名字は変わりません。
カップ焼きそばを食べるときにお湯を入れてもらうとおばちゃんは10円取ったんですよね。
当時の子供にとっては10円は大きいです。
でも、考えてみれば水道代とガス代がかかるわけですから、それくらい良いと思います。
今はコンビニで当たり前のようにお湯を入れていく人が多いですが、トイレを借りられることを含めて、もっとコンビニに感謝しないとだめですよ。
通学路の途中、一箇所だけ曲がり角があったのですが、拡幅されています。
分かれ道。
この右側を行くと我が家の方向。
もう、周辺は同級生の家だらけ。
いちいちピンポンダッシュをしていたら身が持ちませんよ。
下り坂が見えてきました。
あれ、もっと急坂だと思っていたけど、意外と緩い坂だ。
途中にある親友の家は建て替えており綺麗になっています。
高校2年の時にバイトをしていたスーパーの前に来ました。
ここは完全に面影がありません。
スーパーはマンションの1階に入っていたのですが、マンションはもうなく、住宅地となっています。
灯油を買いに来ていたガス屋さんもない?
ここのT字路から元山駅の方向を見ます。
モガミのパン屋さんがある!
子供の頃大好きで良く食べていましたが、現役なようで嬉しい。
しかし、この通りも昔は活気があったんですよ。
今日は元山駅の方には行かず、来た道を直進します。
はい、この右側の3階建てのマンションが18年くらい住んでいたマンションです。
引っ越した当初は新築で綺麗だったんです(当たり前か)。
マンション横にあった造園屋さんは駐輪場になっており、その奥にあった梨園もなくなっています。
道路の向かいには美容室がありますが、当時私が通っていたお店ではありません。
マンションの1階はテナントなのですが、当時はスナックなどで全部埋まっていました。
スナックが階下にあると、夜寝ている時に歌声が聞こえてくるのです。
たまに「あ、あいつが歌ってる」と友人の声と分かったりもしましたよ。
音というのは高音は壁などで遮断されて伝わりにくいのですが、低音は柱や壁を伝って聴こえてきます。
そのため、ベースの音が良く聴こえていました。
今現在、私が騒音に強くてどこでも眠れるのは、こういう環境で育ったお陰ですね。
しかし、大人の足で歩くと小学校から自宅は一瞬だな。
ちなみに6年生の時はサッカーボールをドリブルして通う変な子でしたよ。
もう少し先まで行きましょう。
あ、猫ちん!
昔うちにいたリリーの子孫かも知れない。
酒屋さんはやっていないかな?
ところてん工場はまだある。
緩い坂を下ってもっとも標高が低い場所まで来ました。
来る前にこの辺を航空写真で見ていたら、親友の家が更地になっているように見えてビックリしたので来てみましたが、更地になっていたのは隣の家でした。
ご両親お元気だろうか?
彼のお母さんは私のことを「いなようくん」と呼ばずに「いないようくん」と呼ぶのです。
でもそういう人は今まで数人いましたよ。
その方が発音しやすいんでしょう。
さらに進むと、昔は森だった場所がもう森でなくなっていました。
ここは大津川という川の支流・柳沢水路の水源地に近く、11㎞くらい下っていくと手賀沼に到達します。
小学生の時に大きな台風のためにこの辺に浸水被害が出たことを覚えており、クラスにも被害にあった子がいて、詳しくは覚えていませんが同級生でカンパしたことがありました。
当時は地形とかそんなことは気にしていませんでしたが、いまこうして改めて地形を観察すると、この辺りがそういったリスクのある場所だということが理解できます。
ただし、いまは水のコントロールがしっかりしておりそういう被害の心配はないようです。
一段丘を登ります。
この辺まで来ると駅からちょっと遠いせいか、あまり開発は進んでおらず当時とそれほど変わりませんね。
畑やら梨園やらは昔と一緒です。
振り返って柳沢水路の方を見ます。
地形が少し落ちているのが分かりますね。
ところで、今回の探訪で国分川の水源地が当時の我が家に近い場所であると話したことを覚えているでしょうか?
国分川は江戸川、すなわち東京湾方面にそそぐ川で、さきほどみた柳沢水路は反対側の手賀沼にそそぐ川です。
その二つの河川の水源地がこの近くにあることから分かる通り、この辺には分水嶺があるのです。
周辺には他にもいくつか小河川があるのですが、ちょうど新京成の線路があるラインが分水嶺となっており、この辺りの場合は、松戸から京成津田沼へ向かう新京成の車窓左手の川は手賀沼へ向かい、右手は東京湾へ向かうというわけです。
こういった地形についても当時は興味がなかったわけですが、改めて観察してみるととても面白く、さきほどの浸水被害の件を含め、子供の頃の疑問が今になってから氷解したりします。
さて、県道57号線に出ました。
陸上自衛隊松戸駐屯地の前の通りですね。
あそこですね。
背後にはちょうど新京成が走っていきました。
道路を渡って確認してみましょう。
この横の県道は数えきれないほど通っていますが、この存在にはまったく気が付きませんでした。
しかもこの県道のライン自体がまさしく土手の跡なんですよね。
さて、だいぶ歩いてきて気づけばもう15時20分です。
先を急ごうかな。
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