大阪城はサラッと流そうと思っていたのですが、やはり城は面白いですね。
想定以上に時間がかかってしまいました。
大阪城、楽しかった!
時刻はもう11時を過ぎていますが、これから本日のメインである百舌鳥古墳群へ向かいます。
森ノ宮駅でJR大阪環状線に乗車。
関西のJRもいいねえ。
新今宮駅で南海電車に乗り換える為に降ります。
降りたついでに車両を撮影。
JRなのに私鉄のようなカラフルな塗装ですね。
おっ!
ウグイス色の車両だ!
この色は子供の頃の山手線を思い出します。
並んだ。
いいねえ。
そして人生初の南海電車!
電車が来ましたよ。
子供の頃に本で見た南海電車は緑色をしていました。
私は小学生の頃、プロ野球チームの野球帽をコレクションしていたのですが、南海ホークスの緑色のキャップもたまに被っていましたよ。
これには乗らず、次を待ちます。
向こうにはカッコいい特急が停まっていますね。
子供の頃は今よりも電車好きだったのですが、関西の私鉄のデザインって関東とはまた違うカッコよさがあるなあと今でも思います。
次に来た準急に乗り、堺東駅へ移動。
南海電車にはずっと憧れていたのですが、図らずも46歳になって初めて南海に乗ることができました。
南海、良かったよ。
それでは、本題の百舌鳥古墳群へ行きましょう。
最初に向かうのは堺市役所です。
ここだ!
ここの21階からは百舌鳥古墳群を見下ろすことができるんですよね。
それではここで、堺市役所と近辺の古墳の位置を確認しておきましょう。
では行きますよ!
21階に到着!
バーン!
南側の眺望ですね。
案内図と見比べてみましょう。
大仙陵(仁徳天皇陵)は後円部から前方部へ向けてのサイドを斜めに見ています。
大仙陵は周濠を含めると全長が850mもあるため普通の森というか山のように見えますが、大仙陵が横たわっている向こうに小さく見えるのが土師ニサンザイ古墳ですよ。
小さく見えるといっても、土師ニサンザイも290mあります。
視点をやや西に移動します。
国内3番目の墳丘長360mを誇る上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)が見えます。
つづいて東側を見てみましょう。
すぐ近く、というより眼下といってもいい場所に田出井山古墳(反正天皇陵)が見えますね。
ここから直線距離で500mもない場所にあり、かつ百舌鳥古墳群の中では一番北にある古墳ですので、百舌鳥古墳群を探訪する際は最初にここ堺市役所に来て、つづいて田出井山から廻るといいでしょう。
では、古墳歩きを始めますよ。
街に出ると標識が多く建てられているので迷わず歩くことができそうです。
堺東駅東口の市街地を歩き、田出井山の前方部左側エッヂ部分に到着。
到着といっても、ここも陵墓ですから、フェンスに囲まれており墳丘には入れませんよ。
フェンスを乗り越えて・・・
ではなく、フェンス越しに中を伺います。
フフフ・・・
水を湛えた周濠が見える・・・
こういう行為を他の地域でやっていると完全なる不審者なんですが、こちらの場合は古墳であることが市民に周知されているのでそう思われることはないでしょう。
ただし、やっぱり「古墳が好きな変った人」と思われることは確実です。
そういった体面を気にしていては古墳道は歩めない!
欲望のままに行動しましょう。
前方部底辺中央にある拝所に来ました。
いつもの看板もちゃんとありますよ。
堺市役所が見える。
立派な説明板がある!
説明板には5世紀中ごろの築造とありますが、「前方後円墳集成編年」では7期とされ、大仙陵と同じ時期とされています。
宮内庁は反正天皇陵に治定していますが、おそらく多くの研究者が違うと思っているはずです。
148mという墳丘長は、百舌鳥古墳群の中では大きくなく、大王墓として考えることは難しいでしょう。
なお、私見では反正陵は古市古墳群の誉田御廟山古墳(425m)で、反正は倭の五王の珍に比定します。
反正天皇もかなりの力を持った王であったと考えており、この時期の関東地方では大型古墳を造る勢力が少数に絞られ、上毛野と下毛野地域では群馬県太田市の天神山古墳の被葬者に権力が集中したように見え、こういった地方の有力者のなかでとくに信頼できる人物に広域の支配を任せるというのは、反正政権の政策だったと考えています。
反正、つまり珍は南宋の皇帝からもらった将軍の位を各地の有力者に分配していますが、反正自身の将軍の位は地方の有力者よりも一段階高いだけであり、反正の時点ではヤマト王権の王の権力は地方の王と比べても隔絶はしていなかったでしょう。
さて、古墳の話に戻りますが、墳丘図を見てみましょう。
3段築成で中期の古墳らしく、前方部の幅が拡大傾向にありますが、まだそれほどムッチリしておらず、なかなか美しいプロポーションじゃないでしょうか。
造り出しが片一方だけにありますね。
周濠は元々二重でしたが、現在見られるのは先ほど覗き見た内側の周濠のみです。
それと、上の説明板をよく見てください。
背景画の上の方に古墳の横っ腹が3個並んでいますね。
これって、大阪湾から見たこの田出井山と大仙陵、そして上石津ミサンザイをイメージしているのではないでしょうか。
だとすると、センスいい!
百舌鳥古墳群の主要古墳は海から見た景観を意識して造っているのです。
西日本の有力者だけでなく半島などの外国から使者が瀬戸内海を航行して大阪湾に入ってきたとき、堺浦から上陸する場合は、この景観をまず見せればヤマト王権の強大さを見せつけることができますね。
古墳は単なる墓ではなく、権力を見せつける装置としてそういった効果を狙って築造することも多いのです。
ところで、この辺は古墳歩きがしやすいように遊歩道が整備されていますね。
そしてまた覗き見。
つぎに陪塚を見てみましょう。
鈴山古墳。
残念、墳丘には入れないですね。
でも陪塚であってもちゃんと説明板がありますよ。
方墳のようです。
もういっちょ!
天王古墳。
こちらも方墳ですか。
説明板によると、百舌鳥古墳群には方墳が4つしかないようです。
全国の古墳を見ても、単純に円墳と方墳を比べたら方墳は少数派になるのですが、少数派である方墳とはいったい何なのか、という意味を考えるのも面白いでしょう。
ただし、形状は方墳であっても、古墳時代の時期によってはその意味合いも変わってくると考えられるので、それは注意しないとなりませんね。
つづいて方違(ほうちがい)神社へ行って見ますよ。
境内が見えてきた。
と、その前にこちら側(北側)からも墳丘が見える場所があるはずです。
おー、見えた見えた。
後円部側です。
方違神社へ参じましょう。
今日は5日ですが、まだまだ初詣の日和ですね。
ではつづいて、仁徳さんに会いに行きましょう!
⇒この続きはこちら
想定以上に時間がかかってしまいました。
大阪城、楽しかった!
時刻はもう11時を過ぎていますが、これから本日のメインである百舌鳥古墳群へ向かいます。
森ノ宮駅でJR大阪環状線に乗車。
関西のJRもいいねえ。
新今宮駅で南海電車に乗り換える為に降ります。
降りたついでに車両を撮影。
JRなのに私鉄のようなカラフルな塗装ですね。
おっ!
ウグイス色の車両だ!
この色は子供の頃の山手線を思い出します。
並んだ。
いいねえ。
そして人生初の南海電車!
電車が来ましたよ。
子供の頃に本で見た南海電車は緑色をしていました。
私は小学生の頃、プロ野球チームの野球帽をコレクションしていたのですが、南海ホークスの緑色のキャップもたまに被っていましたよ。
これには乗らず、次を待ちます。
向こうにはカッコいい特急が停まっていますね。
子供の頃は今よりも電車好きだったのですが、関西の私鉄のデザインって関東とはまた違うカッコよさがあるなあと今でも思います。
次に来た準急に乗り、堺東駅へ移動。
南海電車にはずっと憧れていたのですが、図らずも46歳になって初めて南海に乗ることができました。
南海、良かったよ。
それでは、本題の百舌鳥古墳群へ行きましょう。
最初に向かうのは堺市役所です。
ここだ!
ここの21階からは百舌鳥古墳群を見下ろすことができるんですよね。
それではここで、堺市役所と近辺の古墳の位置を確認しておきましょう。
では行きますよ!
21階に到着!
バーン!
南側の眺望ですね。
案内図と見比べてみましょう。
大仙陵(仁徳天皇陵)は後円部から前方部へ向けてのサイドを斜めに見ています。
大仙陵は周濠を含めると全長が850mもあるため普通の森というか山のように見えますが、大仙陵が横たわっている向こうに小さく見えるのが土師ニサンザイ古墳ですよ。
小さく見えるといっても、土師ニサンザイも290mあります。
視点をやや西に移動します。
国内3番目の墳丘長360mを誇る上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)が見えます。
つづいて東側を見てみましょう。
すぐ近く、というより眼下といってもいい場所に田出井山古墳(反正天皇陵)が見えますね。
ここから直線距離で500mもない場所にあり、かつ百舌鳥古墳群の中では一番北にある古墳ですので、百舌鳥古墳群を探訪する際は最初にここ堺市役所に来て、つづいて田出井山から廻るといいでしょう。
では、古墳歩きを始めますよ。
街に出ると標識が多く建てられているので迷わず歩くことができそうです。
堺東駅東口の市街地を歩き、田出井山の前方部左側エッヂ部分に到着。
到着といっても、ここも陵墓ですから、フェンスに囲まれており墳丘には入れませんよ。
フェンスを乗り越えて・・・
ではなく、フェンス越しに中を伺います。
フフフ・・・
水を湛えた周濠が見える・・・
こういう行為を他の地域でやっていると完全なる不審者なんですが、こちらの場合は古墳であることが市民に周知されているのでそう思われることはないでしょう。
ただし、やっぱり「古墳が好きな変った人」と思われることは確実です。
そういった体面を気にしていては古墳道は歩めない!
欲望のままに行動しましょう。
前方部底辺中央にある拝所に来ました。
いつもの看板もちゃんとありますよ。
堺市役所が見える。
立派な説明板がある!
説明板には5世紀中ごろの築造とありますが、「前方後円墳集成編年」では7期とされ、大仙陵と同じ時期とされています。
宮内庁は反正天皇陵に治定していますが、おそらく多くの研究者が違うと思っているはずです。
148mという墳丘長は、百舌鳥古墳群の中では大きくなく、大王墓として考えることは難しいでしょう。
なお、私見では反正陵は古市古墳群の誉田御廟山古墳(425m)で、反正は倭の五王の珍に比定します。
反正天皇もかなりの力を持った王であったと考えており、この時期の関東地方では大型古墳を造る勢力が少数に絞られ、上毛野と下毛野地域では群馬県太田市の天神山古墳の被葬者に権力が集中したように見え、こういった地方の有力者のなかでとくに信頼できる人物に広域の支配を任せるというのは、反正政権の政策だったと考えています。
反正、つまり珍は南宋の皇帝からもらった将軍の位を各地の有力者に分配していますが、反正自身の将軍の位は地方の有力者よりも一段階高いだけであり、反正の時点ではヤマト王権の王の権力は地方の王と比べても隔絶はしていなかったでしょう。
さて、古墳の話に戻りますが、墳丘図を見てみましょう。
3段築成で中期の古墳らしく、前方部の幅が拡大傾向にありますが、まだそれほどムッチリしておらず、なかなか美しいプロポーションじゃないでしょうか。
造り出しが片一方だけにありますね。
周濠は元々二重でしたが、現在見られるのは先ほど覗き見た内側の周濠のみです。
それと、上の説明板をよく見てください。
背景画の上の方に古墳の横っ腹が3個並んでいますね。
これって、大阪湾から見たこの田出井山と大仙陵、そして上石津ミサンザイをイメージしているのではないでしょうか。
だとすると、センスいい!
百舌鳥古墳群の主要古墳は海から見た景観を意識して造っているのです。
西日本の有力者だけでなく半島などの外国から使者が瀬戸内海を航行して大阪湾に入ってきたとき、堺浦から上陸する場合は、この景観をまず見せればヤマト王権の強大さを見せつけることができますね。
古墳は単なる墓ではなく、権力を見せつける装置としてそういった効果を狙って築造することも多いのです。
ところで、この辺は古墳歩きがしやすいように遊歩道が整備されていますね。
そしてまた覗き見。
つぎに陪塚を見てみましょう。
鈴山古墳。
残念、墳丘には入れないですね。
でも陪塚であってもちゃんと説明板がありますよ。
方墳のようです。
もういっちょ!
天王古墳。
こちらも方墳ですか。
説明板によると、百舌鳥古墳群には方墳が4つしかないようです。
全国の古墳を見ても、単純に円墳と方墳を比べたら方墳は少数派になるのですが、少数派である方墳とはいったい何なのか、という意味を考えるのも面白いでしょう。
ただし、形状は方墳であっても、古墳時代の時期によってはその意味合いも変わってくると考えられるので、それは注意しないとなりませんね。
つづいて方違(ほうちがい)神社へ行って見ますよ。
境内が見えてきた。
と、その前にこちら側(北側)からも墳丘が見える場所があるはずです。
おー、見えた見えた。
後円部側です。
方違神社へ参じましょう。
今日は5日ですが、まだまだ初詣の日和ですね。
ではつづいて、仁徳さんに会いに行きましょう!
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