*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
明日香村大字橘
2.諸元
創建時期
3.探訪レポート
2019年3月8日(金)
この日の探訪箇所
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川原寺跡では住職さんから楽しい話を聴かせていただき、つづいて川原寺跡の向かいにある橘寺(たちばなでら)へ向かいます。
聖徳太子の生誕地ですぞ!
講座では「聖徳太子はいなかったかもしれない」と話していますが、今度クラツーの日本書紀講座にて聖徳太子の話をするため、最近は聖徳太子の姿がいつも脳内にチラチラしています。
聖徳太子はいなかった、というのは私の場合は、厩戸皇子(うまやどのみこ)は実在しても、聖徳太子の事績は、本当は蘇我馬子がやったことではないかということを言いたいわけです。
6世紀後半から7世紀前半の100年間くらいは、蘇我氏の全盛期で、蘇我氏が天皇だったと考えることもできるのですが、ことはそう単純ではありません。
そもそも、当時はまだ天皇はおらず、大王が倭国を治めており、その大王もまだ世襲だったかどうかも分かりませんし、その大王というものの実態を明らかにしないと話が進まないのです。
ですので、今はまず、大王や貴族(倭国の支配者層)の実態解明に躍起になっているのですが、重要なのは6世紀後半の大王はすでに姓を持っていないと考えられるところ、蘇我氏は「蘇我」(プラスもう一つの姓)という姓を持っており、やはり大王家と蘇我家では格が違うのです。
その辺が気になっているところです。
説明板がありますよ。
橘寺は聖徳太子が建立した7つのお寺の一つとされています。
拝観は有料です。
お邪魔いたします。
さきほどの川原寺は南北の軸で門、中金堂、講堂が並んでおり、すなわち仏様は南面していたわけですが、橘寺は東西の軸で伽藍が配置されており、本堂は東を向いています。
境内図拡大。
本堂には上がれるようになっています。
堂内の撮影は禁止です。
普段はセカセカしている分、こういう場所ではリラックスしたいですね。
お線香の匂いが落ち着きます。
では、境内を散策します。
古代の金堂の跡です。
橘寺の橘。
そもそも、このお寺の名前の由来は、田道間守(たじまもり=現在はお菓子の神様)が垂仁天皇に命じられて不老不死になれるという柑橘系の果物を海外に取りに行き、それを植えたことが由来です。
なお、田道間守が戻ってきたときには垂仁天皇はすでに亡くなっており、田道間守はショックのあまり自害してしまいました。
垂仁天皇や田道間守関連は先日奈良に来た時にめぐりました。
おや、さきほどは亀石という奇妙な石造物を見ましたが、ここにも石造物がありますよ。
なるほど、二つの表情が刻されているんですね。
こちらが善面。
こちらが悪面。
古代の回廊跡もあります。
鐘楼。
東門から出ます。
東を向いているということは、単純に考えて蘇我氏の本拠地へ向いているということでしょうか。
向かいには岡寺があります。
では、再び歩き始めましょう。
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