⇒前回の記事はこちら
双六古墳につづいて他の古墳も時間の許す限り見てみましょう。
まずは、情報収集のため「壱岐風土記の丘」を探訪します。
風土記の丘は古墳館と古民家があり、古民家を見るのも好きですが今日は時間の都合で古墳館のみ見学します。
館内はパネル展示が中心で、壱岐古墳群をはじめとして壱岐島内の古墳についての情報を得ることができます。
とくに面白いのは、古墳築造中の「工事現場」のジオラマです。
地域の人びとが皆で協力して古墳を造っていますね。
現場には馬に跨った首長の姿も見えます。
少し前までは、古墳づくりは権力者が民衆を鞭打って強制労働で造らせたイメージを持つ人が多かったのですが、現在ではそうではなかったという意見が聞かれるようになりました。
つまり、権力者も民衆を大事にするのは当然なことなので、農民の農閑期に出稼ぎ労働的に働いてもらって、きちんと対価を支払っていたという考えです。
その考えをさらに推し進めると、若狭徹さんが『東国から読み解く古墳時代』で述べている通り、古墳づくりは民衆のある種の「お祭り」というか「イヴェント」のようなものであったと考えることができます。
皆で協力して一つのものを仕上げ、完成の喜びを分かち合うのです。
そして、完成後それを見ながら生活することになるので、「あれは俺たちが造ったんだ」という満足感を毎日得ることができるわけです。
もちろん、このような考えはポジティヴ過ぎると考える方もおられるかもしれませんが、このように考えた方が古代史が楽しくなりませんか?
さて、それでは近くの古墳を歩いてみましょう。
壱岐の史跡マップ。
壱岐古墳群についてはこちら。
これからこの周辺を見学しますよ。
と、その前に、古墳館の横にすでに古墳が一基ありますね。
掛木(かけぎ)古墳です。
さきほどの古墳館に周辺模型がありました。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
掛木古墳は現在ではこのように綺麗な姿になっていますが、調査をする前はひどく破壊されており、その時の現状からは墳丘の形を推測することすら困難になっていました。
ただ、その後の調査により、径28~35mの円墳であったと想定され、現在のような形に復元されたわけです。
石室が開いていますね。
石室の構造もさきほどの古墳館で見た展示を参考にしましょう。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
筑紫君磐井が滅びて、壱岐にもヤマトの影響が濃厚に及び始めた6世紀後半の築造ですので、巨石を使った横穴式石室になっています。
石室の全長は13.6mもあり、さきほど見た大型前方後円墳である双六古墳の石室よりも長いです。
では、お邪魔しまーす。
中には明かりがあるので心配は要りません。
玄室の奥壁。
石棺が置いてありますね。
中にはお賽銭が・・・
この石棺は長崎県で唯一の刳抜式家形石棺で、地元の凝灰岩か玄武岩を使って造られています。
刳り抜いた中身の全長は1.5mということなので、当時であっても普通の大人を横に寝かせるには少し小さいですね。
天井。
玄室から外を見ます。
そして生れ出た。
掛木古墳の石室はきちんと整備されていて見学しやすいです。
つづいて、百合畑古墳群へ向かいます。
ここで位置の確認。
ツアー当日は歩いて移動しますが、今日は少しでも時間を稼ぐため車で行ってみます。
お、駐車場もありました。
立派な石碑。
百合畑古墳群は史跡壱岐古墳群には含まれていませんよ。
先ほど訪れた古墳館にも百合畑古墳群の説明がありました。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
ここは「古墳群」なので、ここから見るとどうやら斜面の上に小さな円墳が群集しているようです。
とりあえず目に入る古墳を見ていきましょう。
先ほどの駐車場にあった説明板には、1号墳から6号墳が見れると書いてありましたが、この説明板では13号墳となっていますね。
たまにあることなのですが、古墳群のナンバリングが変更になることがあるので、この古墳は昔は3号墳だったのが、今では13号墳となったのでしょう。
『壱岐の島の古墳群~現状調査』によると、百合畑古墳群には現在23基の古墳が確認されており、前方後円墳は5基で円墳は16基、残りは形状不明のようです。
14号墳は前方後円墳のようです。
15号墳も前方後円墳ですね。
15号墳は百合畑古墳群の中心部にあり、規模も大きいことから15号墳の被葬者はこの古墳群に葬られた人びと(擬制的な一族か?)の始祖的な人物だったかもしれません。
おっと、この古墳の説明板は字が消えかかっている!
17号墳だ。
つづいて16号墳。
この石は何だろう・・・
お、立派な古墳が現れましたぞ。
18号墳です。
先ほど、百合畑古墳群の中心部にある15号墳が始祖的人物かもしれないと言いましたが、こちらの方が大きさは上ですね。
ただし、18号墳は円墳ですので、形状から言ったら15号墳の被葬者の方が格が上になります。
生前、15号墳と18号墳のそれぞれの被葬者はどのような関係にあったのでしょうね。
ちなみに、径31mの円墳であれば、関東地方ではそこそこ大きい円墳になりますよ。
では、石室を覗かせていただきます。
現存する石室は7.5mということで、やはりこのような村の有力者レヴェルの人と壱岐の王的な人とではかなりの格差がありますね。
でも、先ほどの説明板にも書かれていた通り、こういった群集墳に葬られる人は支配者階級の人びとであって、一般人はどのように葬られたのか知られていません。
例えば、地面に穴を掘って埋めるだけといった跡形も残らない方法で葬られた人も多かったと考える研究者もいます。
他にもまだあるようですが、この辺でいいでしょう。
つづいては古墳ではなく、中世の城館跡を見に行きますよ。
※帰宅後、『壱岐の島の古墳群~現状調査』を読んだところ、1号墳が竪穴式石室の可能性があると書かれていました。
1号墳は全長26.5mの前方後円墳なので、規模的に見ても始祖的存在の墓として申し分なく、もし竪穴式石室だった場合は、時代的にも百合畑古墳群で最も古い古墳になるだけでなく、壱岐全体でも最も古い古墳になる可能性があります。
⇒この続きはこちら
双六古墳につづいて他の古墳も時間の許す限り見てみましょう。
まずは、情報収集のため「壱岐風土記の丘」を探訪します。
風土記の丘は古墳館と古民家があり、古民家を見るのも好きですが今日は時間の都合で古墳館のみ見学します。
館内はパネル展示が中心で、壱岐古墳群をはじめとして壱岐島内の古墳についての情報を得ることができます。
とくに面白いのは、古墳築造中の「工事現場」のジオラマです。
地域の人びとが皆で協力して古墳を造っていますね。
現場には馬に跨った首長の姿も見えます。
少し前までは、古墳づくりは権力者が民衆を鞭打って強制労働で造らせたイメージを持つ人が多かったのですが、現在ではそうではなかったという意見が聞かれるようになりました。
つまり、権力者も民衆を大事にするのは当然なことなので、農民の農閑期に出稼ぎ労働的に働いてもらって、きちんと対価を支払っていたという考えです。
その考えをさらに推し進めると、若狭徹さんが『東国から読み解く古墳時代』で述べている通り、古墳づくりは民衆のある種の「お祭り」というか「イヴェント」のようなものであったと考えることができます。
皆で協力して一つのものを仕上げ、完成の喜びを分かち合うのです。
そして、完成後それを見ながら生活することになるので、「あれは俺たちが造ったんだ」という満足感を毎日得ることができるわけです。
もちろん、このような考えはポジティヴ過ぎると考える方もおられるかもしれませんが、このように考えた方が古代史が楽しくなりませんか?
さて、それでは近くの古墳を歩いてみましょう。
壱岐の史跡マップ。
壱岐古墳群についてはこちら。
これからこの周辺を見学しますよ。
と、その前に、古墳館の横にすでに古墳が一基ありますね。
掛木(かけぎ)古墳です。
さきほどの古墳館に周辺模型がありました。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
掛木古墳は現在ではこのように綺麗な姿になっていますが、調査をする前はひどく破壊されており、その時の現状からは墳丘の形を推測することすら困難になっていました。
ただ、その後の調査により、径28~35mの円墳であったと想定され、現在のような形に復元されたわけです。
石室が開いていますね。
石室の構造もさきほどの古墳館で見た展示を参考にしましょう。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
筑紫君磐井が滅びて、壱岐にもヤマトの影響が濃厚に及び始めた6世紀後半の築造ですので、巨石を使った横穴式石室になっています。
石室の全長は13.6mもあり、さきほど見た大型前方後円墳である双六古墳の石室よりも長いです。
では、お邪魔しまーす。
中には明かりがあるので心配は要りません。
玄室の奥壁。
石棺が置いてありますね。
中にはお賽銭が・・・
この石棺は長崎県で唯一の刳抜式家形石棺で、地元の凝灰岩か玄武岩を使って造られています。
刳り抜いた中身の全長は1.5mということなので、当時であっても普通の大人を横に寝かせるには少し小さいですね。
天井。
玄室から外を見ます。
そして生れ出た。
掛木古墳の石室はきちんと整備されていて見学しやすいです。
つづいて、百合畑古墳群へ向かいます。
ここで位置の確認。
ツアー当日は歩いて移動しますが、今日は少しでも時間を稼ぐため車で行ってみます。
お、駐車場もありました。
立派な石碑。
百合畑古墳群は史跡壱岐古墳群には含まれていませんよ。
先ほど訪れた古墳館にも百合畑古墳群の説明がありました。
※壱岐風土記の丘古墳館にて撮影
ここは「古墳群」なので、ここから見るとどうやら斜面の上に小さな円墳が群集しているようです。
とりあえず目に入る古墳を見ていきましょう。
先ほどの駐車場にあった説明板には、1号墳から6号墳が見れると書いてありましたが、この説明板では13号墳となっていますね。
たまにあることなのですが、古墳群のナンバリングが変更になることがあるので、この古墳は昔は3号墳だったのが、今では13号墳となったのでしょう。
『壱岐の島の古墳群~現状調査』によると、百合畑古墳群には現在23基の古墳が確認されており、前方後円墳は5基で円墳は16基、残りは形状不明のようです。
14号墳は前方後円墳のようです。
15号墳も前方後円墳ですね。
15号墳は百合畑古墳群の中心部にあり、規模も大きいことから15号墳の被葬者はこの古墳群に葬られた人びと(擬制的な一族か?)の始祖的な人物だったかもしれません。
おっと、この古墳の説明板は字が消えかかっている!
17号墳だ。
つづいて16号墳。
この石は何だろう・・・
お、立派な古墳が現れましたぞ。
18号墳です。
先ほど、百合畑古墳群の中心部にある15号墳が始祖的人物かもしれないと言いましたが、こちらの方が大きさは上ですね。
ただし、18号墳は円墳ですので、形状から言ったら15号墳の被葬者の方が格が上になります。
生前、15号墳と18号墳のそれぞれの被葬者はどのような関係にあったのでしょうね。
ちなみに、径31mの円墳であれば、関東地方ではそこそこ大きい円墳になりますよ。
では、石室を覗かせていただきます。
現存する石室は7.5mということで、やはりこのような村の有力者レヴェルの人と壱岐の王的な人とではかなりの格差がありますね。
でも、先ほどの説明板にも書かれていた通り、こういった群集墳に葬られる人は支配者階級の人びとであって、一般人はどのように葬られたのか知られていません。
例えば、地面に穴を掘って埋めるだけといった跡形も残らない方法で葬られた人も多かったと考える研究者もいます。
他にもまだあるようですが、この辺でいいでしょう。
つづいては古墳ではなく、中世の城館跡を見に行きますよ。
※帰宅後、『壱岐の島の古墳群~現状調査』を読んだところ、1号墳が竪穴式石室の可能性があると書かれていました。
1号墳は全長26.5mの前方後円墳なので、規模的に見ても始祖的存在の墓として申し分なく、もし竪穴式石室だった場合は、時代的にも百合畑古墳群で最も古い古墳になるだけでなく、壱岐全体でも最も古い古墳になる可能性があります。
⇒この続きはこちら