日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

津堂城山古墳|大阪府藤井寺市 ~陵墓参考地だけど登れる超大型前方後円墳~ 【新春歴史探訪 ⑧】

2019-12-07 15:52:12 | 歴史探訪
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 河内大塚山古墳を見た後は、恵我ノ荘駅まで戻り、再度近鉄に乗ります。

 藤井寺駅まで2駅なので、時間があれば地形を楽しみながら歩くのもいいですが、今日はできるだけショートカット。

 藤井寺駅で下車。

 そういえば今日はまだ昼飯を食べていないなあ・・・

 ということで、駅前にあったすき家に入りました。



 14時20分の遅い昼飯。

 よし、体力回復!

 次に向かう津堂城山古墳までは、駅からの直線距離で1㎞くらいです。

 テクテク歩いて行くと、前面に公園というか、広場になっているようなスペースが展開し、墳丘らしきものが横たわっているのが見えてきました。



 こちら側から侵入すると、周濠はないですが、おそらく往時の周濠があった場所かと思います。



 大きいですね。



 ここは藤井寺陵墓参考地(允恭天皇陵)として治定されているのですが、自由に登れるようです。



 南側の藤井寺駅から歩いてくると、前方部側からのアプローチになりますね。



 おー、いいねえ。



 西側の周濠跡は湿地のようになっています。



 周濠は二重でした。



 くびれ部分。



 くびれ部分の両サイドには造り出しがあるのですが、こちら側はあまり目立ちません。

 古市古墳群の中の大型前方後円墳の中では、津堂城山古墳はそのトップバッターなわけですが、その時点で造り出しが備わっているのです。

 親子連れが多く訪れており、いい遊び場になっていますね。

 後円部へ行ってみましょう。





 後円部には八幡神社がありますよ。



 お、立派な説明板!

 と思ったら、古墳の説明ではなく、神社の由緒書でした。







 なるほど、渡来系の人びとのが住んでいたのですね。



 神様にご挨拶しましょう。







 それでは、後円部に登ります。



 津堂城山古墳は、墳丘長210mを誇る超大型前方後円墳で、既述した通り第19代允恭天皇の墓に治定されています。

 ただ、後円部墳丘の頂上部だけが立ち入り禁止になっているのでこうやって登れるわけですね。



 築造時期に関しては、多くの研究者が古市古墳群の大型古墳のなかでは最も古いと考えており、白石太一郎氏は前期の終わりころの築造と考えているようです。

 そうすると、允恭天皇の墓とするのは難しいですね。

 私は応神天皇の墓だと考えています。



 古市古墳群の配置図を見ると津堂城山古墳は一番北に位置し、その後の古墳の築造場所の中心になったということはないようです。

 後円部から前方部を見ます。



 今度は前方部から後円部。



 ちなみに、津堂城山古墳はその名前の通り、室町時代に城(小山城)として利用されていました。



 しかし、歩いていると土の感じが関東とは違うんですよね。

 専門的なことは分かりませんが、よく歩く古墳よりも「砂っぽい」ような感じがします。

 眺望。



 マンションの横にチラッと見える森は、雄略天皇陵に治定されている島泉丸山古墳ですね。



 島泉丸山古墳は、直径75mの大型円墳です。

 あの森も怪しいけど古墳じゃないでしょう。



 ところで、畿内の大型古墳で墳丘に登れる古墳って珍しいんじゃないでしょうか?

 関東人からすると古墳は登れて当たり前ですが。

 津堂城山古墳は竪穴式石室ですが、関東では横穴式石室が開口していれば入れることも多いですよ。

 以前は史跡名を「城山古墳」と言い単独の史跡でした。



 今は、史跡古市古墳群に含まれています。

 ちにみに、最近では古墳単体で国の史跡になることは難しく、周辺の古墳や遺跡と一緒に指定されるようになっています。 



 いやー、楽しかった!

 墳丘の東側から駅の方向へ戻りましょう。



 こちらの街道(府道2号線)沿いに詳しい説明板がありました。



 ここでは中期前葉の築造としていますね。

 王者の棺・長持形石棺が見つかっているんですね。



 古市古墳群の配置図があります。



 既述した通り、津堂城山古墳の位置は古市古墳群のなかでは北端で、この地図を見ると分かりやすいですね。

 現在の大和川の河道は往時と違うようですが、それでも墳丘の東側が低地に望んでいるため、そちら側からの眺望を意識して造られた古墳であるように思えます。

 おや、もう一つ説明板がある。





 水鳥形埴輪が出ているんですね。



 時代は津堂城山古墳から2世代くらい後になると思いますが、群馬県の太田天神山古墳も長持形石棺を格納し、かつ水鳥形埴輪が見つかっており、こう考えると太田の被葬者はかなり中央に近い権力者であったことがより確実になると思います。





 では、日暮れまでに古市古墳群の代表的な古墳だけでも見て回りたいと思います。



 次は、允恭天皇陵を目指します。

 あれ、今見たのが允恭の墓に治定されているんじゃないかったの?

 いったいどういうことだ?

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (りひと)
2019-12-07 20:40:00
凄い情報ありがとうございます。
津堂城山古墳、水鳥埴輪でいい感じですよ。
津氏は個人的に探している一族です。
応神さんの辺りの古墳は時代がどうも違和感あったんでどんな情報も参考になります、ありがたいです。
おまけに群馬の太田との共通があるんなら更に大阪と群馬の接点探している身としては本当ありがたい情報です。で陸運か水運か空運(神話的には鳥もあり)そこも気になりますね。
単純にくっ付けてどんなルートがあるか探りたいです。
で長野から草津で群馬ルートは使いたいんですけどね。なので近江と岐阜も通ったらちょっと面白くなります。

今城の古墳には行きましたけど、次に行きたい古墳は津堂城山古墳に今なりました。神社もあるのもありがたいです。古墳にいってもその場でどうしていいか?ですので。
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Unknown (稲用)
2019-12-15 20:36:09
本文にも書いてありますが、津堂城山は登れる古墳というところがいいですね。
水鳥埴輪は私も注目しており、各地の古墳に行ったときに出ていないか注意して探しています。
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