日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

唐仁古墳群|鹿児島県肝属郡東串良町【初の鹿児島古墳探訪 ①】

2020-10-05 14:08:33 | 歴史探訪


 3日目は朝6時に都城グリーンホテルから出陣。

 九州は関東より夜明けが遅いため、この時間でもまだ少し暗く、月が輝いています。



 おっ!



 ダスキンの古い店かと思ったらリースキンだった!

 昔のダスキンにフォントも似ていない?

 ちなみにリースキンとダスキンの関係は・・・、じゃなくて、今日は大隅半島へ向かいますよ。

 なぜ都城に止宿したのかというと、地理的に大隅半島へのアクセスが良いからです。

 戦略的ホテル予約。

 1時間ほど走り、実質的に初めてやってきた鹿児島県の風景を眺めてみます。





 最初は大型の前方後円墳がある唐仁(とうじん)古墳群を目指しますよ。

 この辺かな・・・

 お、古墳らしきものが見える。



 すでに「古墳ポコポコ地帯」に足を踏み入れているようです。

 少し進むと、右手に立派な石碑と説明板が現れました!





 分布図を拡大。



 さらに進むと薬師堂塚古墳(16号墳)がありました。

 墳丘長40mの前方後円墳です。

 墳丘に入れるので墳頂に登ってみます。



 眺望はきいていません。



 道路からは違う古墳も見えています。



 あちらには綺麗な前方後円墳が見えるので行ってみましょう。



 墳丘長57mの役所塚古墳(100号墳)です。

 さきほどの「やくしどうづか」とこの「やくしょづか」って発音が似ていますよね。

 こちらの「役所塚」ももしかしたら元々墳頂に薬師さんが祀られていて「薬師塚」って呼ばれていたんじゃないでしょうか?

 逆光気味になりますが、反対サイドからも見てみたい。



 いいねえ。

 でも草が結構茂っているので墳頂には行きませんよ。

 さて、メインの唐仁大塚古墳(1号墳)へ行ってみましょう。

 近づくと、住宅が切れた場所から墳丘の裾と周堀が見えます。



 あの森の中に墳丘が隠れているのでしょう。



 正規の入口へ行ってみます。

 大塚神社、ここですね。



 さきほど見た看板に書いてある通り、大塚神社の脇には広い駐車場もあります。

 ここはバスで来れますね。

 大塚神社の由緒。



 大塚古墳の石碑。



 説明板がありますが、先ほど見たのと同じ内容です。

 唐仁大塚古墳の墳丘の形を見てみましょう。



 後円部には大塚神社がありますが、参道と前方部の軸はずれています。

 唐仁大塚古墳の墳丘長は140mと言われており、九州屈指の大型前方後円墳です。

 後円部の方へ行ってみましょう。



 墳頂にある社殿に登る階段は現在は通行不能になっています。



 でも、脇から登る階段がありますので大丈夫ですよ。

 墳頂から見下ろすとかなりの比高差があります。



 でもここから眺めても前方部らしきものが良く分からない理由は、先ほど言った通り、前方部の軸は参道とずれているからです。

 後円部から降ります。

 参道から鳥居の方を見ますが、左手の土の高まりが前方部の墳丘です。



 鳥居に戻ってきて前方部を確認します。



 前方部の底辺。



 さて、古代史を調べていて、大隅半島に大型前方後円墳の唐仁大塚古墳があることを知ってからずっと来てみたいと思っていました。

 今日は念願かなって来ることができて嬉しいわけですが、来てみると大型前方後円墳が単独であるだけでなく、かなり大きな古墳群だということが分かって、これもまた大きな収穫です。

 肝属(きもつき)郡は大隅国の範囲ですが、大隅国は和銅6年(713)に日向国から分立しました。

 日向南部からこの辺りは隼人の居住地域として有名で、墓制としては地下式横穴墓という独特な墓を作る地域でもあります。

 地下式横穴墓と隼人を短絡的に結びつけることはできませんが、独自の文化を持った地域であったことは間違いないです。

 ただ、この唐仁古墳群にある古墳たちは非常にヤマトチックなのです。

 独特な在地の文化を持ちながらも、この周辺を治めた大隅直(おおすみのあたい)氏は、「親ヤマト」の豪族であったことが分かります。

 日向国側に入ると、同じく親ヤマトの諸県君(もろかたのきみ)氏が展開しており、諸県君の領域の北側にある有名な西都原古墳群を含め、この周辺の前期から中期前半の前方後円墳は、いわゆる「柄鏡形」と呼ばれる形をしているものが多く、その形状がこの地域の歴史を解明するキーになりそうです。

 柄鏡形はヤマトでは奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が有名ですが、両墳とも200mを超える超大型古墳で、ヤマト王権の首長墓であることは間違いないと私は考えています。

 両墳は初期ヤマト王権を考察するうえでは非常に面白い素材で、その位置づけ(被葬者像など)については、研究者も様々な見解を述べており定説は存在せず、そんな面白いヤマトの古墳と同様なデザインを日向や大隅の多くの古墳が採用しているというのが、南九州の古代史の楽しさを倍加させる元になっているわけですね。

 大隅の古代史面白い・・・

 つづいて、列島最南端の前方後円墳に行ってみますよ。

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