日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

渋谷向山古墳(現・景行天皇陵)|奈良県天理市 ~墳丘長300mを誇る古墳時代前期では国内最大の前方後円墳~

2020-07-25 12:58:33 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県天理市渋谷町



現況


皇陵

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


前方後円墳集成編年:3期

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:300m
段築:3段
葺石:あり
埴輪:あり

主体部


竪穴系のはず

出土遺物


円筒埴輪(Ⅱ式)、朝顔形円筒埴輪(Ⅱ式)、形象埴輪(楯形・蓋形)

 

3.探訪レポート                         


2017年11月23日(木)


 ⇒前回の記事はこちら

 つづいて渋谷向山古墳へ向かいましょう。



 「渋谷」って東京では「しぶや」と発音しますが、関西では「しぶたに」だということを、20年以上前に勤めていた会社の上司の渋谷さんが言っていました。

 すわなち、「しぶたにむかいやま」古墳ですよ。

 宮内庁により第12代景行天皇の陵に治定されており、多くの研究者もそうだと考えている古墳です。



 行燈山古墳と櫛山古墳から渋谷向山古墳へは山の辺の道が続いていますので、散策にもとても良い場所ですね。



 条里制か・・・



 首都圏でも実は条里制の名残が現代の道路に反映されている場所があるんですよ。

 行燈山古墳を振り返ります。



 行燈山古墳は宮内庁によって第10代崇神天皇の陵に治定されていますが、では第11代の垂仁天皇の陵はどこにあるのかというと、盆地北部の奈良市内にある宝来山古墳(墳丘長227m)がそれです。


 ※2019年1月3日撮影

 第10代崇神・第11代垂仁・第12代景行の3代は私は実在だと考えているのですが、それら天皇の陵がどれなのかは宮内庁の治定とは違う考えを持っています。

 ただし、景行の陵は渋谷向山古墳で良いんじゃないかと考えています。

 渋谷向山は300mあるため、全体をカメラに収めるためには相当に引かないとならないのですが、山の辺の道沿いにはちょうどよい撮影ポイントが無いですね。

 東側にできる限り寄ってみたのですが、今の時刻だと逆光になってしまいます。



 あまり綺麗な画にならないなあ。

 あ、古墳だ。



 「飛地ろ号」と呼ばれている丸山古墳で、径35mの円墳です。

 ここに説明板がありました。



 墳丘図。



 渋谷向山古墳と行燈山古墳、前方後円墳集成だと同じ3期となっていますが、一般的には行燈山古墳の方が古いと言われています。

 先ほど「ポッチャリ型」と言った行燈山古墳の墳丘図をもう一度見てください。



 ほぼ同じ時期と言われる前方後円墳でも平面形が結構違うのが分かりますか?

 渋谷向山は、墳丘長300mで後円部径が168mですから、全長に占める後円部の割合は56%となり、65%の行燈山古墳よりもスマートなボディです。

 そして、前方部の底辺の長さに注目すると、行燈山は後円部径と比べて前方部底辺長が短いのですが、渋谷向山は、後円部径が168mで前方部底辺長が170mとほぼ同じなのです。

 このデザインが、4世紀中葉におけるヤマト王権の最高権力者・オシロワケ(景行天皇)の陵のデザインであり、全国を巡ってこれと同様なデザインの古墳を見つけることができたら、それは景行の影響下(私はヤマト王権のフランチャイズと呼んでいます)に入ったその地方の王の墓です。

 3世紀半ばに纏向の地で発足したヤマト王権の初代は、私は開化と考えているのですが、開化から数えて4代目のオシロワケのときに勢力が絶頂となり、このように300mもの当時国内最大の墳墓を構築するに至り、そしてそのフランチャイズ下に入った地方の王たちにもオシロワケと同じデザインの墓の構築をライセンス許可したというわけです。

 なお、オシロワケはヤマト王権のトップに君臨しましたが、「ワケ」という称号を名乗っていることから、列島各地の「ワケ」を名乗る諸王と比べても隔絶した力はまだ得ていませんでした。

 ヤマトの王が各地の諸王から抜きに出るにはなおも100年ほどの時間が必要です。

 先ほどの陪塚を別の角度から。



 西側にも古墳が見える。



 墳丘長144mの前方後円墳・上の山古墳ですね。

 渋谷向山の周濠に近寄りました。





 石仏かと思いましたが墓石でしょうか。



 今は後円部側にいますよ。



 墳丘へ続く渡堤。



 渋谷向山の現況を見ると、周濠には合計10か所の渡堤があり、傾斜地に周濠を掘っているため、段差を設けて水を貯めるためだと考えられますが、古墳築造時から今見られるような形になっていたのかは分かりません。

 近世以降に改変された可能性が高そうです。



 山の辺の道を歩いている人々が見えますね。



 古墳に興味がない方々はこの近辺も普通に歩いて通過していきますが、古墳に興味がある場合は寄り道ばっかりしてなかなか先に進まないと思います。



 国道側にある拝所の方へ行ってみましょう。



 前方部の拝所に到着。



 宮内庁が立てた制札があります。



 「景行天皇 山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」とあります。

 なお、「陵墓」という言葉を良く使いますが、皇室典範によると、天皇、皇后、太皇太后(先々代の天皇の后)および皇太后(先代の天皇の后)を葬る所を「陵」とし、その他の皇族を葬る所を「墓」として、厳密な使い分けが存在します。

 例えば箸墓古墳のことを宮内庁は「大市墓(おおいちのはか)」と呼んでいますが、被葬者とされているモモソヒメは「その他の皇族」ということで「大市陵」ではなく「大市墓」とされているわけです。

 さて、近辺にはまだいくつかの古墳がありますので、引き続き古墳散策をしてみましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『天理の古墳100』 天理市教育委員会/編 2015年
・『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭/著 2018年


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