*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
率川神社:奈良県奈良市本子守町1
2.諸元
3.探訪レポート
2019年1月3日(木)
2018年12月31日に出発し、2019年1月2日に帰着する福岡の初詣ツアーを案内してきました。
往復とも新幹線のグリーン車で移動する高級なこのツアーは、私個人の1日目の仕事は夕方の宮地嶽神社の案内だけですので、私は早朝に出発し飛行機で現地入りし、日中は一人で福岡の遺跡をめぐり、17時に宮地嶽神社にてお客様に合流しました。
そして、2019年の1月1日と2日は神社の案内をし、2日の午後にはお客様と共に新幹線に乗り込み東京を目指しましたが、せっかくなので私は京都で離団して奈良へ向かい、3日から3日間、趣味と仕事の下見を兼ねて奈良・大阪の古墳めぐりをしてきました。
今回はそのうちの初日である1月3日の様子をお届けします。
* * *
ホテルの朝食は7時からなので出発も自動的にそれ以降となってしまい、7時半に近鉄奈良駅近くのホテルを出立しました。
ホテルから東へ向かうと東大寺とか奈良公園とかがありますが、今日は西へ向かいますよ。
今日はまだ正月3日ですから各地の博物館などの施設は開いていませんので、そういった場所は抜きにしてめぐるつもりです。
最初に向かったのは第9代開化天皇の宮殿跡。
宮殿跡といっても、宮殿があったとされる伝承地であり、そもそも開化天皇は「欠史八代」といわれ、多くの研究者が実在しなかったと考える天皇ですね。
実在しなかった天皇だとすると、その宮殿跡も幻のものとなってしまいますが、ところがどっこい、以前お話しした通り私は「実在派」なのです。
その開化天皇の宮殿は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)と記され、『古事記』では春日之伊邪河宮と表記されており、大神神社の境外摂社である率川(いざかわ)神社がその跡との伝承があります。
幻であっても何でもいいのです。
地元で伝承されているその場所をこの目で見てみたい。
そう思い歩いていると、漢國神社という、渡来系を思わせる聞いたことのない名前の神社がありました。
県社とありますね。
「饅頭の祖神 林神社」と刻された石柱も立っていますよ。
饅頭ってあのお菓子の饅頭ですよね?
饅頭にも先祖の神がいるんでしょうか?
鳥居をくぐると今度はお寺を思わせるような門が現れました。
説明板がありますよ。
読み方は「からくに」ではなく「かんごう」で、特に渡来系という感じでは無さそうです。
そして今度は鳥居と拝殿が現れました。
先ほどの説明板には、本殿は桃山時代の様式で近世初頭の建築ということがサラッと書いてありましたが、畿内だと近世初頭の建築と言っても驚かないと思いますが、関東地方ではそうやたらにお目に掛れない古建築ですよ。
境内社をめぐってみましょう。
こちらは源九郎稲荷神社。
あ、鏡餅が社の両サイドに鎮座している一風変わった神社がありますよ。
こちらが饅頭の祖神が祀られている林(りん)神社でしょう。
ということは、両サイドのあれは鏡餅ではなくて饅頭ですね。
饅頭塚もあります。
面白い神社ですね。
※後日註:あとで「Wikipedia」で調べたところ、貞和5年(1349)に林浄因という人が中国からやってきて日本で初めて饅頭を作り、昭和53年(1978)に菓祖神の田道間守(たじまもり)を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集めているそうです。
この社にも鏡餅が供えられています。
葵神社と書いてあります。
「世界平和」を念じているこちらの社は?
八王子社とありますよ。
私は東京都八王子市に住んでいますが、その八王子の名前の由来は、牛頭天王の8人の息子たちです。
八王子っていう地名は結構列島各地で見ますよ。
ついつい寄り道してしまいましたが、饅頭は私も大好きなので、これからも美味しい饅頭を食べ続けることができれば幸せです。
あ、そういう願い事をする神社ではないですね、多分。
さて、改めて率川神社へ向かいますよ。
漢國神社のすぐ近くにありました。
石柱には「大神神社摂社」とありますね。
由緒書きがあります。
開化天皇の宮殿については一言も書かれていませんね。
それでは、境内で宮殿の痕跡を探してみましょう。
この石は何だろう?
・・・分かりません。
境内神社が並んでいます。
向かって右手が春日社、左手が住吉社、そして中央が式内社・率川阿波神社です。
率川神社は大神神社の境外摂社ということで大神神社の遥拝所があります。
これは何でしょうか?
蛙石。
そういえば、東京都千代田区の将門塚には蛙の置物がたくさん奉納されており、あそこの場合は外務省の職員などが外国に赴任するときに無事帰ってこれるように参拝するんですよね。
同じような信仰は各地にあるんですね。
拝殿。
拝殿の奥には本殿がありますが、3つの社に分かれています。
祀られている3柱についてはさきほどの由緒書きに記されていました。
拝殿を別角度から。
ところで、境内をくまなく歩いてみても天皇の宮殿跡を示すようなものはありませんね。
神社的には宮殿の件は完全無視のようです。
宮殿跡かどうかは掘って確かめるという手もありますが、神社の境内を掘るのは大変難しいです。
ちなみに、初代神武天皇以降、天皇の宮殿とはっきり分かる遺跡は全然なくて、ようやく21代の雄略天皇になって桜井市の脇本遺跡がその可能性が高いといわれるようになりますが、その後もまた飛鳥時代まで天皇の宮殿は見つかりません。
ということは、古代の日本には「大王(天皇)」なんていなかったんじゃないの?
と言い出す人が出てきてもおかしくないですね。
宮殿は無いけど巨大な古墳はやたらたくさんあるところが、ある種日本の古代史のミステリーかもしれません。
脇本遺跡の例からも想像できる通り、古代の大王の宮殿は私たちが普通にイメージするような荘厳で立派な建築物ではなく、意外と質素な建物だった可能性が高いです。
なお、欠史八代の宮殿伝承地のほとんどは奈良盆地の南西側の葛城地域にありますが、開化天皇だけ北方の奈良市内にあるんですね。
開化天皇の最初の妻は丹波(タニハ)の豪族の娘ですから、私は以前もお話しした通り、北方から奈良盆地に入部して、ヤマトの豪族の元へ婿入りのような形式でこちらの地方の家系を継いだのではないかと考えています。
つづいて、この近くには現・開化天皇陵もあるので行ってみますよ。
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4.補足
5.参考資料
・現地説明板