最近はCDを買うことはほとんどありませんが、中学2年のときのお年玉でCD付きラジカセを買ってから第一次音楽活動を終える20代後半までに400枚ほど集めました。
それらの主なものはMP3としてPCに取り込んでおり、仕事をしながら聴いているのですが、中学生の時に同級生にそそのかされて買ったエイスワンダーの曲がいま流れました。
つい先日、エイスワンダーっていったい誰なんだろうと急に気になり、Webで調べてみたらイギリスのバンドなんですね。
個人名かと思っていた。
Eighth Wonderのヴォーカルはパッツィ・ケンジット(Patsy Kensit)といって、当時はまだ10代だったんですね。
『When the phone stops ringing』
パッツィのその後を見ると、何と4度も結婚と離婚をしています。
おそらく以前の私だったら4度も結婚・離婚したことを「しょうもない人」と評価したと思いますが、今では自らの経験を鑑みて、いろいろと大変な思いをしたのだろうなあと思いますし、それだけ人生の勉強をしたのだろうと想像したりします。
配偶者は血のつながっていない赤の他人です。
他人と一緒に暮らす生活というのは、一種の学びの場であり、とくに自分と全然違う考えを持っている人と一緒にいると頭に来ることも多いですが、その反対に面白いことも多いですし、勉強になることも多いです。
まあ、パッツィの場合はいわゆる芸能人ですから配偶者と一緒に過ごす時間は少なかったのかもしれませんが。
今の私は結婚・離婚は何度しても無駄なことはないと考えていますし、そもそも「現代の私たち」は、戦後の「現代の法律」の上での結婚制度に踊らされているだけですので、人類700万年の歴史の中ではほんの一瞬の価値観に縛られているだけに過ぎません。
今の常識が過去の常識だったり未来の常識だったりすると考えるのは浅はかです。
いやしくも歴史をやっている人間はそういった「今現在の事象」だけを見て物事を判断してはいけません。
と、早朝から何の話をしているのか意味が分かりませんが、上総探訪の続きを行きますよ。
⇒前回の記事はこちら
つづいて、光善寺薬師堂へ向かいます。
雷電號を走らせていると、大多喜街道沿いに案内板が見えました。
その通りに進むと、お寺というか、お堂がありました。
ここですね。
社殿の背後は土塁で囲まれているのですが、既述した市原城の遺構だと考えられています。
あれ?
鈴?
薬師堂なのに鈴があるって素敵ですね。
エンジョイ・ザ・神仏混交。
お寺と神社を明確に区別するのは、明治以降の新しい信仰感でそれ以前の日本の伝統ではありませんよ。
説明板にも書かれている通り、光善寺は蘇我稲目の子孫である曽我上総太郎光善という人が建立したと伝わっています。
蘇我氏ファンとしては押さえておきたい場所なわけです。
千葉には蘇我という地名があり(今日は蘇我ICで降りた)、飛鳥の蘇我氏と千葉県との関わりはこれから調べていこうと思っているのですが、まずはその端緒として光善寺薬師堂へ来ました。
なんか、石燈籠が妙な存在感を醸し出しています。
千葉県最古!
石燈籠というと近世以降の物というイメージがありますが、これは室町時代のものと推定されているわけですね。
こちらは何でしょう。
この説明板には先ほど訪れた飯香岡八幡宮の「柳楯神事」との関連も書かれていますが、柳楯神事についてはまた後程。
境内には子安神社も鎮座しています。
なお、こちらには薬師堂しかありませんが、光善寺廃寺と呼ばれている古代寺院が7世紀末以降にあったと考えられています。
⇒この続きはこちら
それらの主なものはMP3としてPCに取り込んでおり、仕事をしながら聴いているのですが、中学生の時に同級生にそそのかされて買ったエイスワンダーの曲がいま流れました。
つい先日、エイスワンダーっていったい誰なんだろうと急に気になり、Webで調べてみたらイギリスのバンドなんですね。
個人名かと思っていた。
Eighth Wonderのヴォーカルはパッツィ・ケンジット(Patsy Kensit)といって、当時はまだ10代だったんですね。
『When the phone stops ringing』
パッツィのその後を見ると、何と4度も結婚と離婚をしています。
おそらく以前の私だったら4度も結婚・離婚したことを「しょうもない人」と評価したと思いますが、今では自らの経験を鑑みて、いろいろと大変な思いをしたのだろうなあと思いますし、それだけ人生の勉強をしたのだろうと想像したりします。
配偶者は血のつながっていない赤の他人です。
他人と一緒に暮らす生活というのは、一種の学びの場であり、とくに自分と全然違う考えを持っている人と一緒にいると頭に来ることも多いですが、その反対に面白いことも多いですし、勉強になることも多いです。
まあ、パッツィの場合はいわゆる芸能人ですから配偶者と一緒に過ごす時間は少なかったのかもしれませんが。
今の私は結婚・離婚は何度しても無駄なことはないと考えていますし、そもそも「現代の私たち」は、戦後の「現代の法律」の上での結婚制度に踊らされているだけですので、人類700万年の歴史の中ではほんの一瞬の価値観に縛られているだけに過ぎません。
今の常識が過去の常識だったり未来の常識だったりすると考えるのは浅はかです。
いやしくも歴史をやっている人間はそういった「今現在の事象」だけを見て物事を判断してはいけません。
と、早朝から何の話をしているのか意味が分かりませんが、上総探訪の続きを行きますよ。
* * *
⇒前回の記事はこちら
つづいて、光善寺薬師堂へ向かいます。
雷電號を走らせていると、大多喜街道沿いに案内板が見えました。
その通りに進むと、お寺というか、お堂がありました。
ここですね。
社殿の背後は土塁で囲まれているのですが、既述した市原城の遺構だと考えられています。
あれ?
鈴?
薬師堂なのに鈴があるって素敵ですね。
エンジョイ・ザ・神仏混交。
お寺と神社を明確に区別するのは、明治以降の新しい信仰感でそれ以前の日本の伝統ではありませんよ。
説明板にも書かれている通り、光善寺は蘇我稲目の子孫である曽我上総太郎光善という人が建立したと伝わっています。
蘇我氏ファンとしては押さえておきたい場所なわけです。
千葉には蘇我という地名があり(今日は蘇我ICで降りた)、飛鳥の蘇我氏と千葉県との関わりはこれから調べていこうと思っているのですが、まずはその端緒として光善寺薬師堂へ来ました。
なんか、石燈籠が妙な存在感を醸し出しています。
千葉県最古!
石燈籠というと近世以降の物というイメージがありますが、これは室町時代のものと推定されているわけですね。
こちらは何でしょう。
この説明板には先ほど訪れた飯香岡八幡宮の「柳楯神事」との関連も書かれていますが、柳楯神事についてはまた後程。
境内には子安神社も鎮座しています。
なお、こちらには薬師堂しかありませんが、光善寺廃寺と呼ばれている古代寺院が7世紀末以降にあったと考えられています。
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