⇒前回の記事はこちら
さきほどチラッと見えていた三重塔が気になった慶元寺(けいげんじ)にやってきました。
浄土宗慶元寺。
おー、素晴らしい参道。
だーれもいない、参拝にはベストなコンディションです。
山門に近づきつつ周囲に気を配っていると、右手に像があるのが見えました。
誰だろう?
おおっ、江戸重長だ!
江戸重長とは、平安時代末にその名字の通り、江戸城(江戸館といった方が適切かもしれない)を拠点としていた桓武平氏末裔秩父平氏一族で、その武力もさることながら、水運を利用した事業で莫大な富をなし、「坂東八箇国の大福長者」といわれた人物です。
源頼朝が房総に逃れた後、勢力を盛り返して下総に進出、鎌倉を目指そうとして隅田川の渡河を目論見ますが、対岸で大きな勢力を張っていたのが江戸重長です。
頼朝は重長を懐柔しますが、誘いに乗ってきません。
武力により重長を滅ぼすこともできないと考えた頼朝は、臣従したばかりの葛西清重が重長の親戚だったこともあり、「奴を暗殺しろ」と命じます。
ところが、清重に「親戚を卑怯な手段で殺すような不義はできません」と断られます。
結局、数日間の交渉によって重長は頼朝に従うことを約束してくれたのですが(清重の説得が功を奏した可能性が高い)、重長の武力を恐れた頼朝は江戸を迂回して、今の北区の方から遠回りして鎌倉を目指すことにしました。
※以下は北区滝野川にある金剛寺(紅葉寺)と説明板です。
江戸という町は徳川の時代から始まったと思っている人が多いのですが、それ以前の15世紀半ばに太田道灌によって江戸城が築かれたころはすでに浅草を中心として繁栄しており、私は道灌のことを「江戸のスーパースター」と呼んでいます。
ただし、さらにルーツをたどると、12世紀の江戸氏による江戸の統治が江戸の町の始まりといっていいのです。
ところで、初詣をはじめとして神田明神に参拝する方は多いですが、社殿の裏側に並んでいる境内神社を一つずつ参拝する方は少ないと思います。
その中に江戸最古級の神社である江戸神社があるのをご存じでしょうか。
現在の祭神はスサノオですなわち出雲系ですが、私は本来の祭神は古代(古墳時代)の江戸を支配した王だと考えています。
具体的には、上野公園にある摺鉢山古墳の被葬者とか・・・
秩父平氏は江戸に入部して江戸氏と称して統治を始めると、江戸神社を篤く崇敬していました。
江戸神社こそ、江戸の「コア神様」ですよ!
あれ、話がずれてしまいましたね。
江戸重長は私が好きな武将の一人なので、つい熱が入ってしまいました。
しかし、今日まさかお会いできるとは思ってもいなかったので恐悦至極に存じ奉ります。
あ、そっか!
思い出しましたが、慶元寺は江戸氏の菩提寺でした!
しばらく中世の歴史をやっていないので、江戸氏のことは脳内の記憶棚の後ろの方に行っていました。
山門脇にある説明板を読んでみましょう。
くどいですがさらに私見を述べると、江戸氏は室町時代に江戸を退去させられてこちらに移ってきたのですが、そのときの江戸への置き土産として「平将門怨霊伝説」を流布させてきたのではないかと考えています。
将門伝説は河野氏の一族である時宗の他阿真教が大きく絡んでいるはずですが、江戸氏と河野氏は縁が深いです。
江戸氏と同じ桓武平氏である将門の怨霊伝説には、本貫地であった江戸を奪われた江戸氏の怨念がこもっているのではないでしょうか。
話を戻しましょう。
山門をくぐる前に、三重塔を拝見しに行きます。
現代の墓域の奥の方にあります。
光の具合でこちらから撮るのがベストですが、微妙に現代のお墓が写りこんでしまいますね。
まあ、仕方ないか。
角度を変えて。
小ぢんまりしていますが、風格のある良い塔ですね。
それでは、山門に戻ります。
説明板に書かれている通り、宝暦5年(1755)に建てられた山門ですね。
今でも「未来永劫」という熟語を使いますが、山号は「永劫山」です。
本堂前のスペースも広々としていますねえ。
こちらが享保元年(1716)に再建された本堂。
さて、説明板にもチラッと書いてありましたが、境内には古墳が残っています。
慶元寺古墳群と言って8基の古墳が確認されており、実は参道入口には1号墳跡があり、参道途中には2号墳跡があったのです。
1号墳は『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」(寺田良喜/著)によると、円筒埴輪が出土しており、その図を見ると底部が長いので6世紀後半かなと思ったのですが、寺田氏は6世紀前半に編年しています。
裏の方に回ってみましょう。
ここに1基ありますよ。
3号墳です。
小さな円墳ですが、古墳が好きな人は存在に気づいてくれるかもしれません。
墳丘に登ることもできます。
あとはいくつか墳丘が残っている古墳がありますが、立ち入り禁止区域にあるので、普段見られるのはこの3号墳のみです。
しかし、こちらに来る前に地図で慶元寺という名前を見ていたのに、そのときは江戸氏と繋がらず、10年近く前は江戸氏について調べていたのに人間の記憶って大したことないですね。
でも忘れていたからこそ、ある種これは私自身へのサプライズでした。
今日は古墳めぐりに来たのですが、江戸重長に会えたのが一番嬉しいかもしれない。
さて、世田谷区の探訪はこれでおしまいです。
時刻は13時45分。
昨日考えていたプランでは、このあとは狛江市内の古墳めぐりをする予定なのですが、今日中に全部は難しそうなので、今日は小田急の和泉多摩川駅から帰ることにして、そちらへ向かう道すがらの古墳を見て終わりにしようと思います。
⇒この続きはこちら
さきほどチラッと見えていた三重塔が気になった慶元寺(けいげんじ)にやってきました。
浄土宗慶元寺。
おー、素晴らしい参道。
だーれもいない、参拝にはベストなコンディションです。
山門に近づきつつ周囲に気を配っていると、右手に像があるのが見えました。
誰だろう?
おおっ、江戸重長だ!
江戸重長とは、平安時代末にその名字の通り、江戸城(江戸館といった方が適切かもしれない)を拠点としていた桓武平氏末裔秩父平氏一族で、その武力もさることながら、水運を利用した事業で莫大な富をなし、「坂東八箇国の大福長者」といわれた人物です。
源頼朝が房総に逃れた後、勢力を盛り返して下総に進出、鎌倉を目指そうとして隅田川の渡河を目論見ますが、対岸で大きな勢力を張っていたのが江戸重長です。
頼朝は重長を懐柔しますが、誘いに乗ってきません。
武力により重長を滅ぼすこともできないと考えた頼朝は、臣従したばかりの葛西清重が重長の親戚だったこともあり、「奴を暗殺しろ」と命じます。
ところが、清重に「親戚を卑怯な手段で殺すような不義はできません」と断られます。
結局、数日間の交渉によって重長は頼朝に従うことを約束してくれたのですが(清重の説得が功を奏した可能性が高い)、重長の武力を恐れた頼朝は江戸を迂回して、今の北区の方から遠回りして鎌倉を目指すことにしました。
※以下は北区滝野川にある金剛寺(紅葉寺)と説明板です。
江戸という町は徳川の時代から始まったと思っている人が多いのですが、それ以前の15世紀半ばに太田道灌によって江戸城が築かれたころはすでに浅草を中心として繁栄しており、私は道灌のことを「江戸のスーパースター」と呼んでいます。
ただし、さらにルーツをたどると、12世紀の江戸氏による江戸の統治が江戸の町の始まりといっていいのです。
ところで、初詣をはじめとして神田明神に参拝する方は多いですが、社殿の裏側に並んでいる境内神社を一つずつ参拝する方は少ないと思います。
その中に江戸最古級の神社である江戸神社があるのをご存じでしょうか。
現在の祭神はスサノオですなわち出雲系ですが、私は本来の祭神は古代(古墳時代)の江戸を支配した王だと考えています。
具体的には、上野公園にある摺鉢山古墳の被葬者とか・・・
秩父平氏は江戸に入部して江戸氏と称して統治を始めると、江戸神社を篤く崇敬していました。
江戸神社こそ、江戸の「コア神様」ですよ!
あれ、話がずれてしまいましたね。
江戸重長は私が好きな武将の一人なので、つい熱が入ってしまいました。
しかし、今日まさかお会いできるとは思ってもいなかったので恐悦至極に存じ奉ります。
あ、そっか!
思い出しましたが、慶元寺は江戸氏の菩提寺でした!
しばらく中世の歴史をやっていないので、江戸氏のことは脳内の記憶棚の後ろの方に行っていました。
山門脇にある説明板を読んでみましょう。
くどいですがさらに私見を述べると、江戸氏は室町時代に江戸を退去させられてこちらに移ってきたのですが、そのときの江戸への置き土産として「平将門怨霊伝説」を流布させてきたのではないかと考えています。
将門伝説は河野氏の一族である時宗の他阿真教が大きく絡んでいるはずですが、江戸氏と河野氏は縁が深いです。
江戸氏と同じ桓武平氏である将門の怨霊伝説には、本貫地であった江戸を奪われた江戸氏の怨念がこもっているのではないでしょうか。
話を戻しましょう。
山門をくぐる前に、三重塔を拝見しに行きます。
現代の墓域の奥の方にあります。
光の具合でこちらから撮るのがベストですが、微妙に現代のお墓が写りこんでしまいますね。
まあ、仕方ないか。
角度を変えて。
小ぢんまりしていますが、風格のある良い塔ですね。
それでは、山門に戻ります。
説明板に書かれている通り、宝暦5年(1755)に建てられた山門ですね。
今でも「未来永劫」という熟語を使いますが、山号は「永劫山」です。
本堂前のスペースも広々としていますねえ。
こちらが享保元年(1716)に再建された本堂。
さて、説明板にもチラッと書いてありましたが、境内には古墳が残っています。
慶元寺古墳群と言って8基の古墳が確認されており、実は参道入口には1号墳跡があり、参道途中には2号墳跡があったのです。
1号墳は『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」(寺田良喜/著)によると、円筒埴輪が出土しており、その図を見ると底部が長いので6世紀後半かなと思ったのですが、寺田氏は6世紀前半に編年しています。
裏の方に回ってみましょう。
ここに1基ありますよ。
3号墳です。
小さな円墳ですが、古墳が好きな人は存在に気づいてくれるかもしれません。
墳丘に登ることもできます。
あとはいくつか墳丘が残っている古墳がありますが、立ち入り禁止区域にあるので、普段見られるのはこの3号墳のみです。
しかし、こちらに来る前に地図で慶元寺という名前を見ていたのに、そのときは江戸氏と繋がらず、10年近く前は江戸氏について調べていたのに人間の記憶って大したことないですね。
でも忘れていたからこそ、ある種これは私自身へのサプライズでした。
今日は古墳めぐりに来たのですが、江戸重長に会えたのが一番嬉しいかもしれない。
さて、世田谷区の探訪はこれでおしまいです。
時刻は13時45分。
昨日考えていたプランでは、このあとは狛江市内の古墳めぐりをする予定なのですが、今日中に全部は難しそうなので、今日は小田急の和泉多摩川駅から帰ることにして、そちらへ向かう道すがらの古墳を見て終わりにしようと思います。
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神田明神の裏は丹念にお参りします、江戸氏も昔調べて江戸に住む者として感謝してます。けど上野の古墳っていうのがまた超嬉しいですよ。私知らなかったですけど、古墳っぽいってあの周り通る時は必ず上に登ってお参りしますよ、かなり辺な人ですけど上にいる方も特殊な方が多いので。被葬者楽しみです、天海さんは知ってたかな?
あともう一つ河野氏ですけど、そことも繋がるってのは嬉しいですよ。初恋の方のお名前でこの前誕生日だったんでまた思い出しました。頭良かったんですよね、そのおかげで今もあるんで感謝する一族ですし、縁頂いてます。
お寺の移動やはりあったようですね。江戸時代以降は辿りやすいですけど道灌前はとても興味あります。
浄土宗ならば安心立派なお寺みたいですのでコロナ落ち着いたらお詣りに行きたいです。ただこの関係たちならコロナのヒントも持ってそうなので早く行きたいです、家にいなくてもこうして勉強出来るってありがたいです。稲用さん感謝です。