⇒前回の記事はこちら
慶元寺で江戸重長のご尊顔を拝し奉ったあとは、世田谷区から狛江市に侵入します。
ここからはしばらくの間、岩戸川の河道跡を進みたいと思います。
まずはここから。
反対方向。
では行きますよ。
・・・うわっ、なんだこのカーブは!
一見すると普通の遊歩道のような感じですが、岩戸川の流路を直線に改修してからその上を緑道にしたようではなく、中世の河道をそのままの形で緑道にしているような感じで、非常にクネクネしていて楽しいです。
こういう曲線は堪りません。
途中、お花が植えてあったりもしてお散歩にいい道です。
八幡神社の前の道に出てきました。
せっかくなので神社にお参りしましょう。
説明板がありますよ。
神社に薬師如来?と思ったら左手にはお寺さんがあるんですね。
明静院(みょうじょういん)。
明静院は岩本山清岸寺と号する天台宗のお寺です。
享禄3年(1530)年に開創にされ、江戸中期に再興されています。
こちらは八幡神社の拝殿。
説明板があります。
境内神社。
では、河道跡歩きの続きをしましょう。
先ほどまで少しの間歩いてきた岩戸川の河道跡は、古代・中世のころは野川の本流でした。
野川の水源は、国分寺駅西側にある日立製作所の敷地内にあり、国分寺崖線の直下を湧水を集めながら南東方向へ流れていきます。
『駒澤地理 No.54』所収「立川段丘面群と野川の流路」(角田清美/著)によると、野川は湧水と雨水によって成立している川なので、昔から水枯れが起きると川に水がなくなることがあったそうで、河床が立川礫層という水を浸透しやすい地層であることも枯れやすい原因と考えられるそうです。
また、野川は多摩川水系なので大昔の多摩川の名残川だと思われるかもしれませんが、成立過程を見るともともとは多摩川とは関係のない川です。
さて、その野川は狛江市の西野川4丁目付近からは現在の流路とは違って、南に向けて流れていました。
その河道跡は現在でも遊歩道や一般の道路によって辿れますが、やがてここ八幡神社の前までたどり着くわけです。
そしてこの近くでは、狛江駅のすぐ西側にある泉龍寺の弁財天池から流れ出た清水川と合流します。
狛江市には「和泉」が付く住所がありますが、江戸期にはすでに和泉村があり、地名の由来としては令制和泉国というより、川の水源となる「泉」にちなんでいるのかなと思ったりします。
今度はその清水川の河道跡を歩きますよ。
ちょっとだけ水があります。
この直線も気になりますが中には入れません。
こちらのニョロニョロ具合も凄まじいですよ。
※帰宅してから地図で再確認してみたら普通に住宅街の道を歩くのに比べて、単純に道として考えたらかなり無駄の大きな道であることが分かりました。
川の右岸(南側)に段差が生じていますよ。
右岸が段丘で左岸は氾濫原ですね。
こちらとさきほど分かれた野川の本流との間は、中世までは氾濫原が広がっていたのでしょう。
高低差がさらに増してきました。
本格的な段丘っぽくなってきましたよ!
段丘の合間から住宅街の道がチラッと見えますが、まあまあの坂道になっています。
このまま歩いて行くと狛江駅まで行ってしまってお目当ての古墳が見られなくなるので、そろそろ河道跡とサヨナラしましょうか。
清水川と岩戸川(旧野川流路)の河道は以上のようにかなりクネクネしていて面白いので、河道マニアの方はぜひ訪れてみてください。
さて、この辺には清水塚1号墳から3号墳まで確認されており、1号墳は墳丘が残っているようですが、民家の敷地内にあるようです。
あの森の右手辺りでしょうか。
あの森の向こうは先ほど歩いた清水川に向けて地形が落ちているので、清水塚古墳群も段丘の縁の部分にあることがわかります。
二股に分かれる場所には庚申塔。
都道11号線に出て西へ向かいます。
分かれ道を左へ行きましょう。
「東京都遺跡地図」を見ると、猪方3丁目あたりに3基の古墳があります。
あれ、古墳かな?
西側から回り込んでみますが、近接できません。
それと、猪方小川塚古墳は、現在狛江市が整備に向けて動いているようなので、整備が完了したらまた見に来ようと思います。
というわけで、小田急線の和泉多摩川駅に到着しました。
時刻は14時45分ということで、本日は約5時間、距離にして12㎞ほどの探訪になりました。
この探訪の初めにもお話ししましたが、最近はこういった趣味の歴史歩きの場合はストイックに歩くことはしないようにしています。
これくらいの歩程がちょうどいいかも知れませんね。
最近は万歩計も持ち歩かないようになり、ストイック系の場合は2万5000歩以上は行きますが(最高で4万歩を超えたことがあります)、今日はおそらく2万歩は行っていないでしょう。
では、小田急線に乗りますよ。
お、この駅は写真を撮るのにちょうどいいじゃないですか!
私は都民になってからずっと京王線沿線に住んでいるため京王線には馴染みがあるのですが、小田急はあまり馴染みがないのです。
ですから小田急の写真はあまり撮っていません。
子供のころから小田急の車両はカッコいいなあと思っていました。
和泉多摩川駅から1駅だけ乗って登戸駅では南武線に乗り換え帰りますよ。
なお、狛江市の古墳に関しては、本日はほんの少ししか歩いていませんが、今日歩かなかった他の地区に興味深い古墳がたくさんあるため、また日を改めて探訪しようと考えています。
今日も楽しい一日でした!
(了)
慶元寺で江戸重長のご尊顔を拝し奉ったあとは、世田谷区から狛江市に侵入します。
ここからはしばらくの間、岩戸川の河道跡を進みたいと思います。
まずはここから。
反対方向。
では行きますよ。
・・・うわっ、なんだこのカーブは!
一見すると普通の遊歩道のような感じですが、岩戸川の流路を直線に改修してからその上を緑道にしたようではなく、中世の河道をそのままの形で緑道にしているような感じで、非常にクネクネしていて楽しいです。
こういう曲線は堪りません。
途中、お花が植えてあったりもしてお散歩にいい道です。
八幡神社の前の道に出てきました。
せっかくなので神社にお参りしましょう。
説明板がありますよ。
神社に薬師如来?と思ったら左手にはお寺さんがあるんですね。
明静院(みょうじょういん)。
明静院は岩本山清岸寺と号する天台宗のお寺です。
享禄3年(1530)年に開創にされ、江戸中期に再興されています。
こちらは八幡神社の拝殿。
説明板があります。
境内神社。
では、河道跡歩きの続きをしましょう。
先ほどまで少しの間歩いてきた岩戸川の河道跡は、古代・中世のころは野川の本流でした。
野川の水源は、国分寺駅西側にある日立製作所の敷地内にあり、国分寺崖線の直下を湧水を集めながら南東方向へ流れていきます。
『駒澤地理 No.54』所収「立川段丘面群と野川の流路」(角田清美/著)によると、野川は湧水と雨水によって成立している川なので、昔から水枯れが起きると川に水がなくなることがあったそうで、河床が立川礫層という水を浸透しやすい地層であることも枯れやすい原因と考えられるそうです。
また、野川は多摩川水系なので大昔の多摩川の名残川だと思われるかもしれませんが、成立過程を見るともともとは多摩川とは関係のない川です。
さて、その野川は狛江市の西野川4丁目付近からは現在の流路とは違って、南に向けて流れていました。
その河道跡は現在でも遊歩道や一般の道路によって辿れますが、やがてここ八幡神社の前までたどり着くわけです。
そしてこの近くでは、狛江駅のすぐ西側にある泉龍寺の弁財天池から流れ出た清水川と合流します。
狛江市には「和泉」が付く住所がありますが、江戸期にはすでに和泉村があり、地名の由来としては令制和泉国というより、川の水源となる「泉」にちなんでいるのかなと思ったりします。
今度はその清水川の河道跡を歩きますよ。
ちょっとだけ水があります。
この直線も気になりますが中には入れません。
こちらのニョロニョロ具合も凄まじいですよ。
※帰宅してから地図で再確認してみたら普通に住宅街の道を歩くのに比べて、単純に道として考えたらかなり無駄の大きな道であることが分かりました。
川の右岸(南側)に段差が生じていますよ。
右岸が段丘で左岸は氾濫原ですね。
こちらとさきほど分かれた野川の本流との間は、中世までは氾濫原が広がっていたのでしょう。
高低差がさらに増してきました。
本格的な段丘っぽくなってきましたよ!
段丘の合間から住宅街の道がチラッと見えますが、まあまあの坂道になっています。
このまま歩いて行くと狛江駅まで行ってしまってお目当ての古墳が見られなくなるので、そろそろ河道跡とサヨナラしましょうか。
清水川と岩戸川(旧野川流路)の河道は以上のようにかなりクネクネしていて面白いので、河道マニアの方はぜひ訪れてみてください。
さて、この辺には清水塚1号墳から3号墳まで確認されており、1号墳は墳丘が残っているようですが、民家の敷地内にあるようです。
あの森の右手辺りでしょうか。
あの森の向こうは先ほど歩いた清水川に向けて地形が落ちているので、清水塚古墳群も段丘の縁の部分にあることがわかります。
二股に分かれる場所には庚申塔。
都道11号線に出て西へ向かいます。
分かれ道を左へ行きましょう。
「東京都遺跡地図」を見ると、猪方3丁目あたりに3基の古墳があります。
あれ、古墳かな?
西側から回り込んでみますが、近接できません。
それと、猪方小川塚古墳は、現在狛江市が整備に向けて動いているようなので、整備が完了したらまた見に来ようと思います。
というわけで、小田急線の和泉多摩川駅に到着しました。
時刻は14時45分ということで、本日は約5時間、距離にして12㎞ほどの探訪になりました。
この探訪の初めにもお話ししましたが、最近はこういった趣味の歴史歩きの場合はストイックに歩くことはしないようにしています。
これくらいの歩程がちょうどいいかも知れませんね。
最近は万歩計も持ち歩かないようになり、ストイック系の場合は2万5000歩以上は行きますが(最高で4万歩を超えたことがあります)、今日はおそらく2万歩は行っていないでしょう。
では、小田急線に乗りますよ。
お、この駅は写真を撮るのにちょうどいいじゃないですか!
私は都民になってからずっと京王線沿線に住んでいるため京王線には馴染みがあるのですが、小田急はあまり馴染みがないのです。
ですから小田急の写真はあまり撮っていません。
子供のころから小田急の車両はカッコいいなあと思っていました。
和泉多摩川駅から1駅だけ乗って登戸駅では南武線に乗り換え帰りますよ。
なお、狛江市の古墳に関しては、本日はほんの少ししか歩いていませんが、今日歩かなかった他の地区に興味深い古墳がたくさんあるため、また日を改めて探訪しようと考えています。
今日も楽しい一日でした!
(了)
薬師如来!超嬉しいです。上野山も8の日に行く事多いんですけど、このお寺にも8の日に行きたいです。
神社にはオオヤマツミさんがいますね。歩いて散策しても地名だけでワクワクしますね。
吉良さんが足利に勝ったというのもイメージ出来ますね。足利やっぱりこの辺り関係ありそうな予感。奈良の野見宿禰と当麻蹴速のあたりも似てそうに勘では思います。探究している民族が出てくるから楽しくてしょうがないです。
そうそう、和泉も大阪と関係ないのかな?寺院がらみでとも妄想します、薬師ですし。狛と猪も私の中では同じなんですよね。そうそう調布で頂いてきたお札の神社名は虎狛神社でして七福神の深大寺の近くで文字みて行きたくなった神社です。文字は獣へんだったかな?とお札確認したら狛江の狛でした。木偏の柏ってのもお寺の文字でもありましたが柏餅の時期ですし、柏紋も探査船ワードですし今だから気付く事ありますね。
志村けんさんが深大寺にいるVを観てから深大寺ブームです。父にも仏壇に深大寺そば置いたりしましたけどなんかまたブームが来てますよ。
水木しげるさんも境港とここですし、どんな中でも命を大事にした方の関わる場所に改めて縁を感じちゃいました。狛江と深大寺までが繋がるかは?あなた次第ですけど。私はどうも繋がってきちゃいました。