⇒前回の記事はこちら
歴史民俗資料館の見学を見終えると、時間はもう15時20分です。
本当はもっとじっくりと見学したかったのですが、時間の都合で30分しか見れませんでした。
つづいて資料館の裏山にある浄楽寺・七ツ塚古墳群を見に行こうと思いますが、今日中に見ておきたい広島県内の遺跡がまだ数か所残っていますし、宿は島根県大田市内に予約していますので、時間的に見て広大な古墳群全域を徘徊することは無理です。
仕方がないですが、浅く見学しようと思います。
※みよし風土記の丘は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・
古墳群の入り口では移築した石室がお出迎え。
まずは篠津原第3号古墳の横穴式石室です。
近世城郭の石垣のようにきれいに成形された石が積まれていますが、これを切石積みといいます。
でも、切るといっても当時はカッターなんかありませんので、かち割ったあとはひたすら叩いて成形したようです。
つづいて酒屋高塚古墳の竪穴式石室。
竪穴式石室は埋葬後は墳丘の中に隠れてしまって出入り不可能になるため、普通はこういうふうに見ることはできませんよ。
宗祐池西遺跡の箱形石棺。
説明の通り、あまり箱形石棺という感じはしません。
ではいよいよ七ツ塚古墳群へ!
第20号古墳。
古墳がポコポコありますね。
浄楽寺・七ツ塚古墳群の中で最高所に築造された七ツ塚15号墳。
最高所と知ったら墳丘に登らざるを得ないですね。
葺石かしら?
墳頂。
古墳群最高所からの眺望。
よし次。
可愛らしい前方後円墳がありますよ。
急げ急げ。
全然ちゃんと見れていませんが、今日のところは引き揚げだ。
住居跡も復元してあります。
銅鐸の絵を元に復元したんですね。
そういえば、浄楽寺・七ツ塚古墳群の基本的な話をしていませんでしたが、古墳時代の中期から後期にかけて(5~6世紀)の群集墳です。
5世紀から造られ始めたということで、群集墳としてはかなり早い時期から造られたものとなります。
七ツ塚古墳群は60基の古墳からなり、ほとんどが円墳で、目玉とすると先ほど見た墳丘長29mの前方後円墳の7号墳や直径31.2mの円墳です。
一方、浄楽寺古墳群は116基の古墳からなり、こちらもほとんど円墳で、直径径45mの円墳が最大で、帆立貝式古墳2基と方墳4基があります。
どちらかというと、浄楽寺古墳群の方が規模が大きいです。
群集墳というと、関東の場合は6世紀のイメージがあるのですが、それよりも早いわけですね。
こういった群集墳の被葬者像については、昔から「富裕な農民」という説があり、古墳時代が進行するにつれて、古墳を築造できる人々の階層が下がっていったと説明されることがあります。
確かに、もし円墳だけで構成されていたらその可能性もあるかもしれませんが、こういった群集墳に前方後円墳が含まれていることを重く見なければならないと私は思っています。
つまり、ことはそう単純ではなく、西日本で5世紀半ば以降に群集墳が造られ始めることを考えると、その時期はヤマト王権の代表者が中国の権力をバックにして「王」から「大王」へ移り変わる時代で、地方への支配力を強めていた時期に当たります。
ですから、群集墳の被葬者は、中央と強く結びついた地方の人びとで、部民やそれに先んじる同様な身分の人びとであり、群集墳の中にみられる前方後円墳はそれを統括する人物ではないかと考えます。
もちろん、このような考え方は昔から一部の研究者が考えていますので、とくに目新しい発想ではありません。
さて、サラッとしか見ることができず残念でしたが、次はいよいよ、「初よすみ」ですよ!
⇒この続きはこちら
歴史民俗資料館の見学を見終えると、時間はもう15時20分です。
本当はもっとじっくりと見学したかったのですが、時間の都合で30分しか見れませんでした。
つづいて資料館の裏山にある浄楽寺・七ツ塚古墳群を見に行こうと思いますが、今日中に見ておきたい広島県内の遺跡がまだ数か所残っていますし、宿は島根県大田市内に予約していますので、時間的に見て広大な古墳群全域を徘徊することは無理です。
仕方がないですが、浅く見学しようと思います。
※みよし風土記の丘は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・
古墳群の入り口では移築した石室がお出迎え。
まずは篠津原第3号古墳の横穴式石室です。
近世城郭の石垣のようにきれいに成形された石が積まれていますが、これを切石積みといいます。
でも、切るといっても当時はカッターなんかありませんので、かち割ったあとはひたすら叩いて成形したようです。
つづいて酒屋高塚古墳の竪穴式石室。
竪穴式石室は埋葬後は墳丘の中に隠れてしまって出入り不可能になるため、普通はこういうふうに見ることはできませんよ。
宗祐池西遺跡の箱形石棺。
説明の通り、あまり箱形石棺という感じはしません。
ではいよいよ七ツ塚古墳群へ!
第20号古墳。
古墳がポコポコありますね。
浄楽寺・七ツ塚古墳群の中で最高所に築造された七ツ塚15号墳。
最高所と知ったら墳丘に登らざるを得ないですね。
葺石かしら?
墳頂。
古墳群最高所からの眺望。
よし次。
可愛らしい前方後円墳がありますよ。
急げ急げ。
全然ちゃんと見れていませんが、今日のところは引き揚げだ。
住居跡も復元してあります。
銅鐸の絵を元に復元したんですね。
そういえば、浄楽寺・七ツ塚古墳群の基本的な話をしていませんでしたが、古墳時代の中期から後期にかけて(5~6世紀)の群集墳です。
5世紀から造られ始めたということで、群集墳としてはかなり早い時期から造られたものとなります。
七ツ塚古墳群は60基の古墳からなり、ほとんどが円墳で、目玉とすると先ほど見た墳丘長29mの前方後円墳の7号墳や直径31.2mの円墳です。
一方、浄楽寺古墳群は116基の古墳からなり、こちらもほとんど円墳で、直径径45mの円墳が最大で、帆立貝式古墳2基と方墳4基があります。
どちらかというと、浄楽寺古墳群の方が規模が大きいです。
群集墳というと、関東の場合は6世紀のイメージがあるのですが、それよりも早いわけですね。
こういった群集墳の被葬者像については、昔から「富裕な農民」という説があり、古墳時代が進行するにつれて、古墳を築造できる人々の階層が下がっていったと説明されることがあります。
確かに、もし円墳だけで構成されていたらその可能性もあるかもしれませんが、こういった群集墳に前方後円墳が含まれていることを重く見なければならないと私は思っています。
つまり、ことはそう単純ではなく、西日本で5世紀半ば以降に群集墳が造られ始めることを考えると、その時期はヤマト王権の代表者が中国の権力をバックにして「王」から「大王」へ移り変わる時代で、地方への支配力を強めていた時期に当たります。
ですから、群集墳の被葬者は、中央と強く結びついた地方の人びとで、部民やそれに先んじる同様な身分の人びとであり、群集墳の中にみられる前方後円墳はそれを統括する人物ではないかと考えます。
もちろん、このような考え方は昔から一部の研究者が考えていますので、とくに目新しい発想ではありません。
さて、サラッとしか見ることができず残念でしたが、次はいよいよ、「初よすみ」ですよ!
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