悲しかったたくさんの記憶
子どもの頃に深く傷ついた思い出
それをトラウマだって言ってしまうと、
前に進めない自分の
進めない理由になってしまいそう。
なんか、まるで、
進むのが怖いから、
進まなくていい理由を見つけようとしている自分が
いるような気がして。
なんかいやだ。
なんにも考えなければ、
どんな感情もおきないまま、楽々100m歩けるとしても、
青い空の雲を見ると、いじめられた日の記憶がよみがえって、
冷たい風が顔に吹くと、死んでいった家族の笑顔が浮かんで、
遠くの山を見ると、自転車で兄弟を追いかけた後ろ姿が胸をよぎって、
そんなふうにして100m歩く人もいる。
そんなふうに時々涙を流しながら
やっと100mを歩ききる人もいる。
距離は同じなのに、
その中にたくさんのものを詰め込むみたいにして、
やっと歩いていたとしても、
わきでてきたたくさんの思い出に
疲れ果ててしまっても
それを途中でやめる理由にしたくないな。
誰にも気づかれることもなく、
人の何倍ものエネルギーを使って歩いているとしても、
それが自分にとっての歩くということ。
それが自分の歩き方。
ほかのひとの生きてきた日々と比べながら、
歩くのをやめるためのトラウマ探しなんて
したくない。
歩いていきたい。
たくさんたくさんエネルギーを使いながら。
たくさんたくさん
悲しみや苦しみや喜びの思い出にうずもれながら。
時々、立ち止まったりしながら。
それでもきっと歩いていく。
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