典座教訓私訳 第6回
遅くなってしまいました。3月7日開催分の典座教訓私訳を掲載します。
意味の取り違えや、誤訳がありましたらご教示くださいますようお願いいたします。
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(第五回から続く)
こういうわけであるから、私がこれまでみてきた文字が一二三四五であり、今日、文字のなんたるかを知った上で見る文字も六七八九十で、まったく同じものであるが、私の受け取り方は全く違っているのである。
これから佛道のなんたるかを学ぼうとする修行者よ、こちらからあちら、つまり、文字という現象の上から真実を見、さらにあちらからこちら、つまり真実の側から文字という現象を見るという丁寧な修行を続けて行けば、必ずや文字であらわされた純粋な禅の教えを体得することができるであろう。
もしそうしなければ、いろいろな混じり物の多い不純な禅の教えを学んでしまい、その弊害を被って、修行僧の食事を作るとしてもその腕前を充分に発揮することはできなくなってしまうであろう。
(十三)禅寺の最高責任者の心構え
まことにこの典座の職のありかたは、潙山、洞山、雪峰などの優れた禅師がたの跡形を先人から聞いたり、実際に修行中に体験したりして、今も眼に見えるようであり、耳にも残っているのである。
文字にして残っているものもあり、道理として修行の中に伝えられているものもあり、典座の職を務めることが、まさしく釈尊の仏法を正しく伝えている真髄そのものと言えるであろう。
もし、粥飯頭という粥やご飯の責任者の役職、すなわち住職の位について一寺を統括する立場をいただいたならば、その心構えは典座と同じでなければならない。『禅苑清規』には
「朝昼のお粥やご飯を調えることは、詳しく細かく心配りをし、かつ充分でなければならない。四事すなわち飲食や衣服、臥具、医薬などに事欠いたりしてはならない。釈尊は百歳あったご自身の寿命の内、二十年を私達後世に仏法を学ぶ者達にお残し下さり、
またそのご恩は今も私たちを覆い守ってくださっている。眉間からさす白毫の光のもたらす功徳は、用い続けても尽きる事がない」
と説かれている。
そうであるから
「ただひたすら修行僧に供養することだけを考え、貧乏を憂えてはならない。 もし物惜しみするような心がなければ、おのずから福徳が授かることは極まりない」
とも書かれているである。このような慮りこそがまさしく、典座や住職として修行僧に供養する心の運び方なのである。
(十四)食事供養の功徳
修行僧に供養する食事を調え、取り計らう際の心構えは、その材料が上等であるとか粗末であるとかを問題にせず、ただ深く真心を以て仕事にあたり、敬い大事にする心を以て材料に接する心を起こすことが肝要である。
一杯の米の研ぎ汁を釈尊に供養したことによって、ある老婆が生前にこの上もない福徳の功徳を受けられたことや、
臨終を迎えたアショカ王が、手元に最後に残った半切れのマンゴーを釈尊の教団に布施することによって大善根を積み、
来世の成仏を約束され、大いなる果報を得たことは承知の通りである。
仏のためにする供養であっても、量が多くとも偽りばかりであっては、少ない量でも真実に溢れているということに及ばない。
真実の心を起こして行うことが、優れた人の行いである。
(十五)物に差別をつけない
よく言うところの「醍醐味」と呼ばれるご馳走を作るときも、それを決して上等のものとはせず、また、「莆菜羹」と呼ばれる菜っ葉汁のような料理を作るときも、それを粗末なものと見下したりしてはならない。
粗末な材料をもってきてその中から食べられる物を選ぶときも、真心、誠実な心、清らかな心をもって醍醐味を作るときと同じようにしなさい。なぜなら、清らかな大海にたとえられる修行僧たちに食べ物が供養されるときは、多く川が海に流れ込んでその一つ一つの清濁や個性の区別も無くなってしまう様に、上等なものも粗末なものも区別がたたなくなって、ただ大海一つだけの味になってしまうのである。
ましてや、未来に仏となるための悟りを求める心を育み、佛智慧を宿すこの聖なる身体を養うことにおいては、醍醐味も莆菜味もまったく同じであり別物では無い。
「比丘の口、竈の如し~出家者の口は竈のようなもので、上等下等の区別をせず、頂いたものは好き嫌いせずになんでも頂戴する~」という言葉があるが、よくよく心得ておかなければならない事である。
粗末と思われる食べ物ほど、この身体を養い、そして悟りを目指す心、道心を育て起こさせてくれるのである、この点も忘れてはならない。
賤しんだり、軽んじたりしてはならない。人間界や天上界を導く師僧となるものは、粗末なこの莆菜をもって人々に食事の尊さを教え、善なるほうへと導き福徳を与えるべきなのである。
(十六)人を差別の目で見ない
また典座和尚は食材の良し悪しだけでなく、修行僧の資質の良し悪しや年齢の多少を問題にしてはならない。
自分自身の落ち着きどころさえ分かっていないのに、どうして他の人についてまで、その落ち着きどころを知ることができるだろうか。
自分が間違っていると思っている尺度で他人のしていることも間違っていると判断する、そんなことが誤りで無いはずがない。
老年であったり晩学後進の若者であったり、智慧あるものや愚かでぼんやりしているものなど、それぞれのその様子は異なっているけれども、
僧宝という仏法の宝としての尊さは、みな同じなのである。
また、これまで間違いであったことが今は正しいということや、悟っているとか迷っているとかの区別を、誰が知ることができるだろうか。
『禅苑清規』に「僧侶には凡人や聖人などの区別はなく、佛弟子としてすべてに通じる」と示してある。
もしすべてに是非の観念、すなわち得失・老少・凡聖などの区別があっても、これに関わってはならない。
区別を立てないという志、これがまっすぐそのままに悟りへの尊い修行とならないことがあろうか。
もしこれまで述べてきたところを一歩でも踏み外してしまうようであれば、すなわち、無上なる真実の悟りに対面していながらそれが解らずに行き違いになってしまうだろう。いにしえの典座和尚の修行の真髄は、まさに材料や僧の是非得失にとらわれない修行に力を尽くすというところにあるのである。後の時代において典座の職を掌るあなた方もまた、このような志で修行をして初めて古人の無上の境涯の真髄を得ることができるのである。百丈懐海高祖がその清規に典座の職を規定したことは、内容の無い空しいことであろうはずがないのである。
(第7回に続く)
今日はここまで。