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愛子さま(他の写真を見る)
予想された通り、ネット上では異論や反論が相次いだ。「安定的な皇位継承の在り方を検討する政府の有識者会議」(座長=清家篤・元慶応義塾長)は12月22日、最終報告を決定した。
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【写真】涙を誘う――愛おしいまなざしで愛子さまを見つめられる雅子さま
最終報告書では「【1】女性皇族が結婚後も皇室にとどまる」「【2】旧宮家の男系男子が養子として皇籍復帰する」の2案を軸とした。担当記者が言う。
「有識者会議は女性・女系天皇の問題は態度を明らかにせず、議論を先送りとしました。そのため一部の全国紙や野党の国会議員などから、『先送りにする余裕はないはずだ』といった批判が出ました」
更にネット上では、以前から「愛子天皇待望論」が盛り上がっている。これも最終報告書の不評につながったようだ。
「愛子さま(20)が即位された場合、『女性天皇』が誕生することになります。世論調査を見ると、『女性』と『女系』の区別が理解できていない人も、かなりの数にのぼるようです。『愛子天皇待望論』は、小室眞子さん(30)と圭さん(30)の結婚に反対する世論とも密接な関係があるでしょう。SNSなどでは依然として秋篠宮家に対する批判が根強く、悠仁さま(15)ではなく愛子さまに期待するという“ネット世論”の活発化につながっています」(同・記者)
女性天皇と女系天皇
とはいえ率直に言えば、やや近視眼的な思考から「愛子天皇待望論」が生み出されている可能性は否定できない。
「皇室の長い歴史を振り返ると、実在が確認されている女性天皇は8人になります。そのうち2人が、退位後に再び即位する『重祚(ちょうそ)』を行いました。そのため女性天皇は8人10代と数えられています。8人のうち6人は、6世紀末から8世紀後半、いわゆる飛鳥時代(592~710年)と奈良時代(710~794年)に集中しています。残る2人は江戸時代(1603~1868年)で、3代将軍の徳川家光(1604~1651)と10代将軍の家治(1737~1786)の治世に即位しました」(同・記者)
現在まで「男系天皇」が維持されてきた。もし女性天皇が一般の男性と結婚し、生まれた子供が即位したとすれば、「女系天皇」が誕生することになる。
「しかし『女系天皇』は1度も誕生したことがありません。そもそも国民の大多数が、8人の女性天皇に関して、ほとんど知らないように思います」(同・記者)
ならば8人の女性天皇が、どのような経緯で即位したかを振り返ってみよう。
初の女性天皇は、第33代の推古天皇(554~628)だ。
「父は第29代の欽明天皇(509?~571)で、聖徳太子として知られる厩戸皇子(574~622)から見ると、推古天皇は叔母にあたります。異母兄である第30代の敏達天皇(538?~585)と18歳で結婚しました。2男5女をもうけますが、夫である敏達天皇が585年に崩御してしまいます」(同・記者)
敏達天皇の次に即位した第31代・用明天皇(?~587)は在位2年で崩御。当時の皇室は権力闘争が激しく、続く第32代・崇峻天皇(553?~592)は暗殺されてしまう。
「蘇我馬子(551?~626)らが要請し、593年に推古天皇が第33代の天皇に即位しました。日本書紀には、女性皇族が摂政に就いたり、ごく一時的に即位したりといった記述もありますが、現在、明らかになっている歴史的事実としては、推古天皇が史上初の女性天皇です。聖徳太子を後押しし、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使の派遣、法隆寺の建立など、まさに日本史に残る重要な施策を行いました」(同・記者)
皇極天皇と中大兄皇子
2人目の女性天皇である第35代の皇極天皇と37代の斉明天皇(594~661)は同一人物だ。もともとは第34代の舒明天皇(593~641)の皇后だった。
「夫だった舒明天皇が崩御しても、後継者が決まりませんでした。そこで皇后が皇極天皇として、642年に即位したのです。中大兄皇子──第38代・天智天皇(626~672)──の母親でもありました。彼が大化の改新を行うと、645年に第36代の孝徳天皇(596~654)に皇位を譲りました。これが史上初の天皇の譲位(退位)です。ところが孝徳天皇が崩御したため、655年に再び即位して斉明天皇となりました。こちらは史上初の重祚と言われています」(同・記者)
3人目の女性天皇は、第41代の持統天皇(645~703)だ。第40代の天武天皇(?~686)の皇后だった。
「685年頃から天武天皇は病気がちになり、『政治のことは皇后と皇太子に報告せよ』と命じましたが、689年に皇太子だった草壁皇子(662~689)が病死。後に第42代の天皇となる文武天皇(683~707)を後継と決めますが、当時はまだ7歳。天武天皇が697年に崩御すると、皇后が持統天皇として第41代の天皇に即位しました」(同・記者)
独身で即位した女性天皇
病死した草壁皇子の妻であり第42代・文武天皇の母が、4人目の女性天皇となった第43代の元明天皇(661~721)だ。
「707年に25歳で崩御した文武天皇の後継は、第45代の聖武天皇(701~756)と決まっていましたが、まだ6歳と幼かったことから、母である元明天皇が即位しました。藤原不比等(659~720)を重用し、和同開珎の鋳造や平城京への遷都など、歴史的な施策を進めました」(同・記者)
715年、元明天皇は退位する。だが、聖武天皇はまだ10代半ばだった。依然として時期尚早と、元正天皇(680~748)が第44代の天皇に即位する。
5人目の女性天皇である元正天皇は、父が草壁皇子で母が第43代の元明天皇。結婚経験がなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。
「母が第43代の元明天皇、娘が第44代の元正天皇と、母から娘に皇位が継承されたのは皇室史上唯一の例です。在位中の723年に、開墾地の私有を認める三世一身法が制定されました。律令制が制度疲労を起こしてきた時期に即位した女性天皇となります」(同・記者)
孝謙天皇と道鏡
第46代の孝謙天皇と重祚による第48代の称徳天皇(718~770)が、6人目の女性天皇だ。父は第45代の聖武天皇になる。孝謙天皇から、道鏡(700?~772)を思い出した人もいるだろう。
「聖武天皇は男子に恵まれなかったため、史上唯一の女性皇太子でもありました。聖武天皇から譲位され、749年に孝謙天皇として即位しました。758年に第47代の淳仁天皇(733~765)に譲位し、孝謙上皇となります。この時代、病に伏せった上皇が、僧侶の道鏡の看病を受けたエピソードは有名です。これをきっかけに、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになりました」(同・記者)
764年、孝謙上皇に反旗を翻す藤原仲麻呂(706~764)の乱が勃発する。しかし、上皇は事前に計画を察知し、藤原仲麻呂は制圧され殺される。淳仁天皇は廃位となり、流刑となった。
「孝謙上皇は天皇に復位し、称徳天皇となりました。道鏡の寵愛は変わりませんでしたが、770年に病臥すると、崩御するまで道鏡と会うことはありませんでした。道鏡の権威は失墜して失脚。下野国(現在の栃木県)に左遷されました」(同・記者)
悲劇の明正天皇
これから約850年の間、女性天皇が即位することはなかった。
7人目の女性天皇は、1629年に即位した第109代の明正天皇(1624~1696)。父は先代である第108代・後水尾天皇(1596~1680)、母は第2代将軍・徳川秀忠の五女・徳川和子(1607~1678)。徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇だ。
「女性天皇が久しぶりに誕生した直接的な背景は、後水尾天皇に男子が恵まれなかったからです。しかし、真の原因は、この頃、徳川幕府と朝廷が対立関係にあったためです。幕府は朝廷への統制を強めており、その象徴が1615年に制定された禁中並公家諸法度でした。後水尾天皇は半ば嫌がらせのような形で、幕府には一切伝えずに退位し、娘を即位させて明正天皇が誕生したのです」(同・記者)
その時、明正天皇は何と数えで7歳、満年齢だと5歳だったという。この年齢では天皇としての職責が果たせるはずもなく、後水尾天皇が院政を敷いていたと考えられている。
「その後、幕府と朝廷は和解し、1642年、明正天皇は21歳で譲位します。ところが、第3代将軍の徳川家光(1604~1651)から、かなり厳しい外出や面会の制限を課され、監禁に近い状態に置かれました」(同・記者)
激動の時代に直面
8人目の女性天皇は、第117代の後桜町天皇(1740~1813)。現在のところ最後の女性天皇ということになる。
「1762年に第116代の桃園天皇(1741~1762)が崩御します。2人は母親は異なるものの弟と姉という間柄でした。第118代の後桃園天皇(1758~1779)が即位することは決まっていましたが、まだ5歳と幼く、宮廷内で対立もありました。そこで近衛家や一条家といった、いわゆる五摂家が秘かに対策を練り、桃園天皇の遺言という口実で、後桜町天皇の即位が決まるのです」(同・記者)
歴史学者で皇學館大学文学部教授の松浦光修氏は、こう語る。
「総じていえば、皇位継承を巡って何らかのトラブルが発生し、『とにかく次代に皇統を正しく繋ぐ』ことを要請されて、女性天皇は即位されました。ある意味では、歴史の激動期に向かい合うことを余儀なくされ、皇統の男系継承の伝統を守るため、重責を担った女性たちとも言えるのではないでしょうか」
8人の女性天皇で、即位してから子供をもうけた例はない。もしそのようなことが起これば、更に皇位継承の問題が複雑化することを熟知していたからだろう。
後桜町天皇の和歌
これを現代の観点から「恋愛や結婚、出産の自由を阻害されていた」と指摘することも可能ではある。
「実際、女性天皇は、宮中でも様々な困難に直面していたと考えられます。一例を挙げれば、宮中祭祀です。神道では伝統的に『月の御障り』を忌みます。大相撲の土俵に女性が上がれない問題は、常に議論されています。天皇が自ら行う宮中祭祀のうち、その観念から女性天皇は祭祀を遠慮されていたのでしょう。江戸時代の女性天皇である明正天皇も、後桜町天皇も、宮中祭祀を遠慮されています。恐らく次代の男性天皇の即位までは、天皇が自ら行う祀(まつり)を中止されていた、ということではないでしょうか」(同・松浦教授)
何としても次代の天皇に“繋ぐ”ため、できる範囲で天皇としての職務を全うする──日常の仕事にも困難を感じていた女性天皇の姿が浮かんでくる。
最後の女性天皇である後桜町天皇は、和歌に秀でていたことでも知られる。約1600首とも言われる作品の中に、次のようなものがある。
「まもれなお 伊勢の内外(うちと)の 宮ばしら 天津日嗣(あまつひつぎ)の 末永き世を」
「この御製は、皇位継承が正しく続くよう、伊勢神宮の神に祈りを捧げられた和歌です。正しい皇位継承がどれほど難しいか、誰よりも実感したのは女性天皇かもしれません。ただし1点、注意が必要です。現代人が今日的な観点から、『女性天皇は政治的に利用されていた』とか、『大きな歴史の流れに翻弄された』と論評することは可能です。しかしながら、8方の女性天皇は、天皇であることの負担は感じていらっしゃったでしょうが、それよりも、悠久の皇統を守るという御自身の使命のほうをより強く感じ、その重責を誇りをもって遂行されていらっしゃったのではないでしょうか」(同・松浦教授)
道鏡の“隠し子”
皇族には、皇位継承の重要性が骨の髄までしみ込んでいる。そのため、歴代の女性天皇は即位にあたり、苦渋の決断や悲壮感という感覚は存在しなかったのではないか、と松浦教授は指摘する。
「ある意味、それをご自身の運命として受け止められ、ごく自然な気持ちで即位された可能性もあると思うのです。今の言葉を借りれば、皇位継承という“公”のほうが、“私”よりも重要だと考えていらっしゃったはずです。正しい皇位継承のため、できることなら何でもする、それは皇族としては当たり前のことである、という意識は、当然お持ちになっていらっしゃったのではないでしょうか」
女性天皇の歴史を辿ると、男系天皇を継続させようという天皇家の“強い意思”が浮かび上がってくるという。
「埼玉県行田市から出土した『稲荷山古墳出土鉄剣』の銘文を見ると、系図に記されている先祖の名前は全て男性です。古墳時代から男系継承の意識があったことが分かります。興味深いのは孝謙(称徳)天皇でしょう。寵愛されていた道鏡と男女の関係があったという推測は絶えませんが、2人の間に子供は生まれていません。他国の王室なら、子供が生まれて、その子供を巡る騒動が勃発していたでしょう。ですから孝謙(称徳)天皇にも、皇統の保持者は男系しかありえないという意識がおありだったのでしょう。やはり“公”と“私”は、きちんと区別されていたわけです。」(同・松浦教授)
デイリー新潮編集部
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