飛鉄(HITETSU)

飛行機、鉄道などの撮影のあれこれを綴っています。

叶うことのかった全容

2024-03-03 07:00:00 | アーカイブDF50
この記事がアップされる頃には跡形もなくなっているだろう。
2/8頃には、上物は完全に撤去が終えたようだ。
23年末頃に車体を覆っていたカバーの撤去がSNSなどにあがっており、その去就が
噂されていた。もうここに鎮座していて、40数年が経過する。前回の訪問は2018年の暮れだった。
その時点で、台風の影響で、屋根の破損があり、その後青いビニールシートで覆われ
ほぼぼぼ見ることができなくなった。
そして6年の時間が経過、カバーが撤去され、先日ついに解体の告知が張り出され、一瞬
囲いがなくなった姿を拝むことが可能になった。
地元民は一斉に駆け付けたようであるが、私は仕事の都合でそれは叶わず、飛行機のチケットを
とった1/31夕方に、車体の周囲には足場とシートが養生されてしまった。
万事休す、、、もうチケットも払い戻せないので、まずは行ってみることに。
SNSの通りの姿でした。解体1日目だったらしく、屋根の取り外しを開始するところでした。
その後、内部機器が次々と吊り上げられ、そんなことをみていたら、結局ここで終日
過ごすことに。周囲から撮影できる、らしき機器類を撮影した。
4号機は1号機と並んで、初期型のおでこ形状が丸いタイプで、DF50の中でも数機しか存在しなかった
タイプで貴重だ。この手のカマとしては、すでに2機保存されている。
現地で聞いたところでは、どうもここの場所は大阪市の所有で、DF50保存は国鉄時代に区画整理で
行われてたようで、屋根が破損してからは、雨水の侵入などで傷みが進行して、結局
屋根補修と傷み補修の選択はとられず、西日本でも永久無償貸与の事実上の保有権放棄で
大阪市に処遇がゆだねられたようだ。結果解体の道をたどることになったようだ。
SLなどは認知度がどの世代にも高いが、見る人が見ないとわからないディーゼル機関車に
割くお金はないという事務的な判断だったのだろう。ただただ、残念としかいいようがない。
この手のことは今後、他でも起きそうだ。もう時代も考え方も変わってきている。
博物館のような場所にないものは、そういう事情をもろに受ける時代になった。
近くにいるEH10や宇都宮のEF57などが気になる・・・・・・

全容が見える公園から、かろうじて上物のオレンジが見える。屋根カバーは撤去された。

保存機に4のつくカマはいない、DF50最後の4の文字だ。後世に残っていることを期待したい。

1エンドおでこと、ホイッスルもうこれが限界の可視化できる絵。

2エンド側

DF50の特徴の窓がたくさんあるカバーの撤去が始まった。元ダメ管、初めてみた。51-6 TTの文字、鷹取だろう。

前照灯

送風機

灰色の尾灯、カバーの隙間からかろうじてみえた。

作業員入口から辛うじてみえた2エンドの顔の一部

車体の腐食が始まっていたとは言え、40年ノーメンテとは思えない色だった。

足回りは非常に綺麗、錆もほぼなく1号機と変わらないぐらいだった。

すべて2024/02/01


津山まなびの鉄道館 その2

2020-02-29 07:00:00 | アーカイブDF50
本命DF5018、2013年に弁天町で再会してからもう7年の月日が
流れていた。京都にはいけずにこの津山の地に引き取られた。廃車にならくて
本当によかった。移動にはルートの途中で一回四国の道を通ったとの記事があって
18号機には懐かしい空気だっただろう。このDF5018も回転できるようで
あるが、その日を是非狙ってみたいがいつかは未定だ。残念ながら正面を見る限り
色褪せ感が否めなかったが、隙間からサイドを撮影した限りでは、庫内部分は
どうも褪せ感が少ない様子であった。正面の連結器は手で動かせる状態で、今後
また回転が予想できるのではないかと思った。
内部様子は伺いしれなかったが、ぼろぼろになっていなことを祈りたい。
1600までの開館時間故、他の建物にはいけずに終わった。
今度はゆっくり訪問してみたい。
DF50との再会という目的は一応これで達成した。

2020年2月22日

DF50 4

2018-12-31 07:00:00 | アーカイブDF50
今日で平成最後の大晦日が終わる。
天皇陛下もおっしゃていたが、災害の多い年代だった。
戦争がなくても、何の罪もなく自然の猛威は人々の平穏な生活を奪ってゆく。
ある意味戦争と同じぐらいの悲劇ではないか。
日本に住む以上、地震、大雨、などの災害は1年中繰り返される。
陛下のお言葉に、国民がこのリスクの対応意識が芽生えたことは
嬉しいと。そう、一番大事なのは、他人事でなく、自分も例外でないという
意識を持ち、このリスクにどう対応してゆくかを常に考え行動するかだと思う。
来る新年が、年代が災害のない穏やかに暮らせる時代であって欲しいと
心から祈願したい。

さて、2018年最後はこのネタをUPする。
兼ねてから行きたかったが、保存状態から中々足が向かなったが、
ようやく実現した。しかし、行ってみると衝撃の光景が。
なんとビニールシートで覆われてしまっていた。
その対応は、周囲をかこっているドーム屋根の一部が、破損
雨水が入る状態であった。おそらく、本体への雨水浸水防止なんだろう
と思われた。道路に面したサイドの面は見えなく、かろうじて
家屋側が申し訳程度にその姿を閲覧できる状態であった。
以前はドームから全体像がみえていたようであるが、今はその姿を
拝むことはできない。残念だ。
かろうじて見えてる側だけ携帯で撮影した。
1981年頃から保存されているようで、もう30年以上も
経過している。費用がかかるので、なんとも言えないが
もう少し見える状態であってほしいと思う。
私個人はこのDF504は未撮影である。四国にわたっていなく紀勢本線で最後を迎えたようです。
何故ここに保存されているのかはわからないが、DF50という釜は全部で
3両の保存車があるので、或る意味、同一型式で3両というのはSLを除けば
EF58に続き、凄い数字だ。是非綺麗になった姿を見てみたいものだ。
そしていつの日か復活とはならないもかとも思う。
来年は、京都に保管されなかった18号機を追って津山に行ってみたいと思う。

皆さまによって来る年が良い年でありますことを祈願します。
また、来年もどうぞよろしくお願い致します。

2018年12月23日 DF504 菅原天満宮公園

14年後の再会と別れ

2016-11-28 07:00:00 | アーカイブDF50
1983年の現役引退後DF50は1号機と18号機を除き 四国で活躍していたカマは順次解体されていった。 18号機は大阪へもらわれていった。1号機だけが多度津工場にて 大切に保管されていた。 毎年行われるイベントにはその姿を見せていたが、ついに展示も 最後になるというので、1997年3月のイベントに行った。 現役引退後初めて見るDF50だった。 14年という時間経過を忘れるぐらいに綺麗に保管されていて とても感動したのを覚えている。 またこの日は構内運転があり添乗できるというので、わずかな区間 運転台に乗車もした。 現役時代には叶うはずもない運転台の乗車だった。 よく覚えていないが、とにかくエンジン室からの音が煩い 部屋だなあぐらいの印象だった。 構内なのでせいぜいノッチは少ししか入れないので 加速時のポンポンが殆ど出ていなく残念に思えた。 そして6X7で撮影した最初で最後のDF50だった。 このイベントを境にDF50の展示はなくなり、伊予西条の 記念館送りになるまでその姿を見せることはなくなったと 記憶している。 オリジナルのポジも6X7ゆえ非常に綺麗である。 6X7で撮影していてよかったと今思う次第だ。 これ以降DF50に出会うのは、16年後の2013年に 交通科学館でのDF5018号機までなかった。    1997年3月30日 多度津工場

DF50運用表 

2016-10-02 07:00:00 | アーカイブDF50
撮影関連付帯物です。
どこでどうやって入手したかも今や記憶にないです。
当時を知る貴重な資料です。
昭和57年11月改正版となっている。
東北上越新幹線暫定開業の時期だ。
すでにDE10も運用されていたのですべてがDF50では
なかったと思う。
これがあったとて今様にリアルタイムにカマ番号がわかる
わけでもなかった時代、とはいえ貴重な資料には
間違いなかった。
黒の太線でなぞっている運用が多分DF50の
運用だったと思われる。
この時点ですでに客車運用はDE10に置き換わって
いたような気がする。
もう一つは、手製のDF50秘境号の運転時刻。
これは人から聞きかじったものを自分で作成したものだ。
公式な資料ではないが、当時を知る貴重なものには
間違いない。


現役最後のDF50撮影

2016-09-30 07:00:00 | アーカイブDF50
多度津で折り返して、途中の琴平手前の田んぼで秘境号の上りを撮影している。 もう日没も近くて雨も降り出しそうな空模様だった。いまのデジカメように ISO6400とかISOを簡単に変えて撮影できない時代だったし 高感度フィルムもなかなかいいものがなかった時代だ。 結果は証拠程度に近くなってしまった。 実はこの1ヶ月あとに50系客車を牽引したさようなら列車が運転されたが 学生の身分ゆえもう再訪できるわけもなく、私が撮影した 現役最後のDF50のカットになった。 この撮影から10日後にはすべてのDF50の運用は消滅して 四国はDE10の天下になった。 この時代はDF50以外にも多くの誘惑があり、四国という遠い距離が そうそう通えない地であったことで、撮影日数は本当に僅かであった ことが心残りだ。その後瀬戸大橋が開業して、四国にも電化の波が 押し寄せた。貨物列車も拠点間のコンテナ輸送になったことで DFを追いやったDE10も数年ももたず余剰となった。 また瀬戸大橋開業後にイベント列車の撮影で四国を再訪する 機会があった。1990年ごろだっただろうか。 四国でEF65が牽引するイベント列車を見ることになる。 その撮影を最後に私は四国の地を踏むこともなくなってしまった。 DF50撮影は延べ2週間にも満たない短い時間の撮影だった。 臨9204レ 1983年8月21日 DF5065+DF501

終焉間近の光景

2016-09-12 06:57:44 | アーカイブDF50
帰りがけであろうか、多度津の跨線橋からのカット 同じ画面内に4両のDF50が収まっている。 すでにナンバーがはずさされている。 そう廃車待ちのDFたち。 この時点で何両のDFが稼動していたのか不明ですが、 定期運用の最後は1983年9月1日、高松着の178レ DF5034となっている。 私の最後はこの後の秘境号の上りとなっている。 さて写真だが、ルーペでポジをみてみたが、 左からDF5024、18、47の順だった。 24の後ろは不明。 時間が無かったのか、そばまで行って撮影はしていなかった。 18号機はこのあと交通科学館入りとなる。 本当にもうそこまで運用終焉が迫っている日だった。 1983年8月21日 多度津にて

本当の最後の貨物

2016-09-11 03:22:18 | アーカイブDF50
DF50秘境号の前座に撮影した貨物。 残念ながら釜番号がわからない。 これが私の撮影した最後の定期貨物列車になった。 DF50全廃があと10日後に迫っていた日の 貴重な1コマだ。多分もうDE10しか撮影できない だろうと思っていたに違いない。 思わぬ収穫だったに違いない。 列車番号も不明だが、271レか281レのどちらかだろう と推測される。 ご覧のとおり前座の貨物では天気は晴れているのがわかる。 DF50カマ番号不明 列車番号不明 1983年8月21日

DF50秘境号 その2

2016-09-10 07:00:00 | アーカイブDF50
その後、大歩危駅に向かい停車を撮影している。
残念ながらすでに機回しは完了済みで、上りのスタンバイ完了
となっており、先頭は65番となっていた。
四国のHMは中央掲示でなくサイドぶらさがり系で
当時の急行などはこの方法が多かったが、これをカマでやられて
しまうとみっともない極まりなかったが、この列車はきちんと
中央掲示で安心した。
しかし最後尾の箱のマークはお家芸となっていた。
まあ後ろはどうでもよかったのですが。

すべて 大歩危にて 1983年8月21日

DF50秘境号 その1

2016-09-09 07:00:00 | アーカイブDF50
他典の記録によれば、DF50の定期運用の最終は昭和58年9月1日である旨 の記録になっている。つまりそれまでは徐々に運用が減っていったものの DF50は僅かながらにも稼動していた。 私の撮影行は3月でありまさに風前の灯の状態の真っ只中で全廃まで あと半年という時期であった。 多分3月の時点でいつが最終の運用になるかは全くわからずじまいのまま 四国を去ったと思われる。学生故に豊富な資金もなく四国という距離は そう簡単に行けるものではなかった。そして来年に大学受験を控えていたことで 遠出はもう叶わぬ夢状態でもあった。 しかしながら、全廃直前の8月にDF501+65の組み合わせの イベント列車が走る情報を得た。すでに客車運用はすべてDE10に置き換わって いたはずでDF50が牽引する客車はもう二度と見ることはないだろうし、 半分、さようならイベント列車の様相を呈していた。これはどうしても記録して おかねばなるまいということで、親に頼んで資金を出してもらい、もう二度と来ることは ないだろうと心に刻んだ四国への再上陸を果たした。昭和58年8月のことであった。 そして下り列車は迷わずここ大歩危で撮影すべくこの場所にやってきた。 免許もなく車に乗れるわけもなく、上下1回ずつの撮影しか許されなかった。 直前まで日が差していたが、残念ながら本番の列車では曇ってしまった。 二台のカメラで夢中で撮影した。レンズも今のような精度もなくなんか シャープさに欠ける写りになってしまったが、無事下り列車を撮影することが できた。もう二度とDF50は撮影できることはないだろうという思いを いい意味で裏切られた日であった。 9203レ DF501+65 1983年8月21日 小歩危~大歩危