60号機といえば、お召し予備として61の予備的存在だった。
しかしお召しとしての活躍の場も少なく、通常は浜松区の運用で普通に稼働していたに過ぎなかった。
1、5などとともに早期に廃車組になり。あろうことか、当時でも信じがたい
解体となってしまった。今思えば、稼働していなくとも、保管しておけば
157号機などを保存せずに済んだものだとファンは思ったに違いない。
雑誌でもこの60号機の解体シーンは数十年経った今記事になっている。
当時のどんないきさつか知る由はないが、ほかの一般機同様になってしまったのは
悔やまれる。
さて、私の撮影歴では60号機は走行シーンが1枚もない。大昔に撮影
をしたもの、末期の鉄道友の会の公開イベントでのカットのみで、
唯一、廃車回送の途中に新鶴見区での撮影があるだけだ。
これは当時偶然情報が入り慌てて撮影に行き得た貴重な1枚にだった。
この新鶴見での撮影が最後になりこの約1週間後には大宮で解体されてしまった。
当時の浜松区で5号機にならんで走行シーンが未撮影で終わったカマだった。






上2枚 撮影日時不明 品川
中2枚 新鶴見機関区 1983年5月28日
下2枚 浜松機関区 1983年3月30日
しかしお召しとしての活躍の場も少なく、通常は浜松区の運用で普通に稼働していたに過ぎなかった。
1、5などとともに早期に廃車組になり。あろうことか、当時でも信じがたい
解体となってしまった。今思えば、稼働していなくとも、保管しておけば
157号機などを保存せずに済んだものだとファンは思ったに違いない。
雑誌でもこの60号機の解体シーンは数十年経った今記事になっている。
当時のどんないきさつか知る由はないが、ほかの一般機同様になってしまったのは
悔やまれる。
さて、私の撮影歴では60号機は走行シーンが1枚もない。大昔に撮影
をしたもの、末期の鉄道友の会の公開イベントでのカットのみで、
唯一、廃車回送の途中に新鶴見区での撮影があるだけだ。
これは当時偶然情報が入り慌てて撮影に行き得た貴重な1枚にだった。
この新鶴見での撮影が最後になりこの約1週間後には大宮で解体されてしまった。
当時の浜松区で5号機にならんで走行シーンが未撮影で終わったカマだった。






上2枚 撮影日時不明 品川
中2枚 新鶴見機関区 1983年5月28日
下2枚 浜松機関区 1983年3月30日
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