私の戦争体験「3月10日の東京大空襲」
軍需工場に勤めていた父と私(20年4月12日生)をみごもっていた母と長男(1歳半)の一家3人は向島に住んでいた。戦局悪化の不安はあっても可愛い盛りの元気な男の子(健康優良児だった)、そして母は出産を控え、ささやかな希望で包まれていたと想像する。
3月10日、そんな平和な家族の暮らしをアメリカの爆撃機B29が襲った。中小の工場が集積していた向島の空襲は激しく、父は幼い長男と臨月の母を連れて避難したが迫ってくる猛火と逃げ惑う人々に翻弄されていた。そんな時、「身重の奥さんと小さな子供連れでは逃げられないだろうからこのリヤカーを使いなさい。」と親切にも声をかけられ長男と母を乗せて無事避難することが出来た。
その後、父の故郷、茨城県に疎開し私は生まれた。焼け出されて、どのように父の実家にたどり着いたのか父母に聞いていない、リヤカーを貸してくれた人が無事だったかも分からない。
母は「川は丸太のような死体で一杯だった。猛火から逃れるために川に入った人は皆亡くなった。」と話していた。多分、火災が収まり疎開先に向かう途中で見た光景だったと思う。*猛火は川を越え対岸へ飛び火する、川に避難した人の多くは酸欠で亡ったと聞いている。
私が生まれ親子4人の疎開先での生活で昭和22年9月21日、健康優良児だった兄が疫痢で亡くなった。長男を亡くし、幼い私を抱え、大家族の夫の実家で肩身の狭い生活を強いられた母はの心労は大変だったと思う。父の実家では兄(長男)が昭和20年4月フイリピンで戦死し、次男であった父が後継になるように言われたが弟(三男)に譲り再び上京した。もしかしたら母の心労を思いやってのことだったかも知れない。
私は兄の記憶が全く無い。一緒に過ごした従兄弟(4歳年上)からは優しかったと、また、私が兄と卵の取りあいをして卵を持ったまま兄を叩いたので卵が割れ顔にかかったことがあったと聞いている。幼い弟を心配していたのか親から面倒を見るように言われていたのか「やすひこ!」とよく呼んでいたとのこと、これが唯一の兄の思い出である。戦争が無ければ、空襲がなければ疎開もしなければ兄は生きていただろうし、人生の良い相談相手にもなってくれていただろう。
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