定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

シルクロードの旅(7)

2008年01月28日 | 思い出の旅行

10月30日(土)
 トルファン観光(高昌故城、火焔山、アスターナ古墳群、ベゼクリク千仏洞、カレーズ、)オプション(葡萄栽培農家、交河故城)

 9時40分、ホテルを出発、高昌故城を目指し東に向かう。市内を出ると砂漠が広がっている、トルファンがタクラマカン砂漠の端に位置し天山山脈に降る雪によって潤っているオアシス都市であることがわかる。タクラマカンとは一度入ったら出られないと言う意味だそうだ。
 道の左手に石油基地と数多くの石油採掘用のやぐらが見えた。ガイドの説明ではこの地域は中国の代表的な石油生産地とのこと。また、砂漠に小さな盛り土が点々と連なっている、これはカレーズ(地下水脈)を掘った時に出た土でその下には天山山脈から引いた水が流れているとのことであった。現代の人間に欠かせない石油と水がこの不毛の地下に流れていると言うことか。
 バスは右折してウイグル人の集落に入る、道路際には灌漑用の堀が掘られきれいな水が流れている、カレーズから引いた水であろう。左右に葡萄畑が広がり、干しぶどうを作るための日干しレンガの蔵が見える。
 自動車の修理工場のような殺風景な高昌故城の駐車場に到着。バスから降りると鈴を持ったウイグル人の子供達が押し寄せてくる、3個1000円とのこと。
 入場料を払い中に入ると見学するには馬車(馬ではなくロバがひく)に乗らねば行けないとのこと、往復30元を払い馬車に乗る。馬車は砂塵をあげながらトコトコ走る、人間の急ぎ足と同じ位。
 高昌故城は漢民族の麹文泰が491年に建てた高昌国の城の跡、最盛期は人口3万人、僧侶1000人が暮らした。高昌国は漢時代に武帝が置いた郡が独立した国で玄奘三蔵も立ち寄って講義をしたと言う。その後,唐によって滅ぼされ、歴史から消え1500年経った。


 崩れて原型を留めていない日干しレンガの塊が連なる故城の中を馬車は走る。かって多くの人々が暮らした建物は今では崩れ砂に戻り舞い上がっている、まさに強者どもが夢の跡であった。
 史跡の中心部に着いたらどういう訳か先ほどの土産売りの子供達が待ち構えていた。歩いては行けないとの説明は馬車に乗らせる方便であった。ここに建物の構造部だけ復元したと思われる球形の寺院があった。ここで玄奘三蔵が講義したと言う。忘れられていたこの故城は近代になってロシア、イギリス、日本等の略奪にあって貴重な文物は持ち去られたと言う。仏像が納められていたと思われる壁の壁面に仏像の光背が僅かに残っていた。


 帰りの馬車に土産売りのウイグル人の女の子が2人乗ってきた。日本語な上手なので話しかけると二人は中学1年生と小学5年生で、今日は学校が休み(土曜日だった)でアルバイトをしていると言う。将来の夢はと聞いたら中1の子は学校の先生、小5の子は日本語ガイド、日本語は日本人観光客から教わったと言う。日本人に鈴を売るだけこれほどの日本語を話せるようなったことにびっくり。アルバイトで得たお金で学用品を買うとの返事に乗り合わせたツアーの一行は感激して小遣いをあげる。お礼にと言って日本語で「さくらさくら」とウイグルの歌を歌ってくれた。妻も感動してお小遣いを渡す。見学を終えバスに乗ったところその2人がきて「お礼です。」と言って妻に鈴を1個渡した。利発で気持ちのよい子供達だった。たとえだまされても良いと思った。
 高昌故城からわずか5分程でアスターナ古墳群に到着、ここは高昌国の貴族の墓地、その数は数百にも及ぶ、その内解放されている2つの墓を見る。階段を降りると10畳程の広さの空間があり壁には壁画が描かれ、副葬品は無くミイラだけが取り残されたように安置されている。
 次に火焔山を目指し北に向かう。火焔山は赤い地肌で中腹には浸食された様なしわ模様がついていてなるほど炎のように見えないこともない。山には樹木も草もないまったくの禿げ山である。「西遊記」では玄奘三蔵がここを通った時、孫悟空が鉄扇公主と戦ったことになっている。真夏には気温40度を超え,地面は60度以上になり陽炎が炎のように揺らめくと言う、まさに地獄のような風景、孫悟空が妖怪と戦う場所としてふさわしい舞台である。
 バスを停めて見物をする。道路の下は崖になっており、意外にも谷底には川が流れている。その周囲にはわずかではあるが木も生えていた。かっては豊かな水をたたえた川が流れ、山を削り谷を造ったのであろう。
 更にバスはベゼクリク千仏洞に向かうために北に向かう。砂漠の道を進むと土産屋が現れる、その土産屋の軒先を通り抜けると下に降りる階段が見える。ベゼクリク千仏洞は川際の崖を掘って造られている、ベゼクリクとはウイグル語で「美しく飾られた家」と言う意味で莫高窟と同じ造り。6世紀、随時代から14世紀まで800年にわたり壁画や仏像が造られた。しかし、イスラム教に改宗したウイグル人に破壊され,更に外国の探検家によって略奪され当時の栄華をしのぶことはできない。大谷探検隊もこの地に来ており、その話題となった時ガイドは探検隊ではない、泥棒だと言う、日本人としてちょっと切ない気持ちになった。ドイツの探検隊が壁画の一部を剥ぎ取った箇所がそのまま残されており略奪の事実を如実に物語っていた。
 崖の下のは川が流れ小さな畑も見える。かってはここで修行した僧侶も畑を耕し自給自足していたのではないかと思った。

 


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