7月17日に盛岡を出て、奥州市水沢から釜石、山田、宮古を周り宮古国民休暇村に宿泊、翌日18日は田老、普代村、田野畑、久慈を廻って帰ってきました。
奥州市では注文していた鉄器を受取り、山田町の幼稚園におもちゃを持参、久慈では久しぶりに小久慈焼を訪問し少し買い付けました。半分仕事、半分息抜きのような1泊2日のドライブでした。心配していた台風の影響もほとんどなく、かえって涼しく快適なドライブになりました。
今回のドライブでは東日本大震災後、先見の明があったと話題になった普代村の防潮堤と水門をゆっくり見ることができましたので報告します。
太田名部防潮堤
海側の眺め、防潮堤は50cmほどかさ上げされていました。
防潮堤の内側、民家が密集しています。
太田名部防潮堤からすこし離れたところに普代水門があります。巨大な水門なので目につきます。
手前左隅に普代水門建立時に作られた記念碑が見えます。
記念碑の裏側の説明文 津波災害記録
(イ)明治29年6月15日(陰暦5月5日)に発生した津波はわが国史上に於ける最大の津波であった。本村の被害は死亡行方不明者1010人流失倒壊家屋258戸船舶の流失破損等被害甚大であった (岩手県土木課資料災害土木誌表現)
(ロ)昭和8年3月3日午前2時30分頃釜石市の東方約140kmの地点で発生した大地震により約40分後襲来した津波による被害は言語に絶するものであった本村の死亡行方不明者137人(中央気象台発行津波報告による)家屋の流失倒壊は201戸(三陸津波被害復興計画報告書による)其他船舶の流失破損被害甚大
昭和59年5月普代水門竣工を記念して建立
以前の記念碑に加え普代水門によって救われた村民が元村長和村幸得の先見性に感謝して建立した顕彰碑が建っています。
普代水門 太田名部防潮堤 「二度あったことは、三度あってはならない」
和村幸得元村長は、戦後の民選で村長に初当選し、10期40年という長きにわたり普代村のトップとして村の発展に尽力しました。昭和8年の津波を経験した元村長は、明治29年の津波で記録された15.2メートルの高さにこだわりました。財源や土地の活用に国からも村民からも反対の声が上がりましたが、「二度あったことは三度あってはならない」と反対の声を説得し,高さ15.5メートルの普代水門と太田名部防潮堤を実現させました。2011年3月11日の東北地方太平洋地震では、津波による浸水を最小限に食い止め、村内の人的被害を死者0、行方不明者1名に抑え、「奇跡の水門」と呼ばれ注目を集めました。ただし実際には到達した津波は高さ約20mで水門を越えており、県道にかかる水門の陸甲(扉)が余震で緊急停止し、間一髪手動で閉めた経緯もあり、より素早く高台に避難することこそが重要であることを忘れてはなりません。
普代水門と大田名部防潮堤の効果が図示されていました。
和村幸得元村長、家族が我が家の近所に住んでいらっしゃるので近親感が湧いてきます。
新しく建立された顕彰碑
顕彰碑の裏にあった説明板
二度あったことは、三度あってはならない 元普代村長 和村 幸得
平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災は、東北の沿岸市町村で、未曾有の大惨事となりました。そのような中、本村では、漁業施設等は壊滅的であったものの、死者、流失家屋はゼロ、行方不明者一人という最小限の被害でありました。これは明治、昭和の津波で多くの犠牲者を出した教訓を忘れず、十五・五メートルの高さを誇る大田名部防潮堤と普代水門の建設を成し遂げた元普代村長和村幸得氏の偉業の賜物であります。
その先見の明に村民一同心から感謝の意を表し、この教訓を風化させず、後世まで受け継ぐことを誓い、ここに顕彰碑を建立します。
平成二十五年三月十一日 (東日本大震災から二年目の日) 普代村長 柾屋伸夫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/73/a2543bb8ec3924d6e286a066bc7f2d09.jpg)
水門の銘板、完成まで11年かかっているのですね。
和村さんも偉いが県や国の担当者も偉かったと思います。担当者は決定権者である上司を説得しなければならなかった、その苦労は想像できます。このような津波対策の歴史を活かしていくことを忘れてはならないと思います。
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