蝦夷犬(エゾイヌ)

奥羽越列藩同盟の東北北海道さらに新潟県をテーマとして、地域の新聞から記事を選び、勝手なことを書きたいと思う。

栗駒山頂の社 36年振りに再建

2023-11-09 18:05:00 | 日記
河北新報電子版 朝刊
令和5年11月9日 15/24

栗原・駒形根神社奥宮の老朽化によって御影石の社を再建した。
東北地方のほとんどは山岳信仰で、駒形根神社も同様ではあるのだけれど、元々の由来を紐解くと、上毛野(かみつけの)、現在の群馬県地方の上野(こうづけ)の古語で、国造りと言われ都から地方の豪族として遣わされた人々の中で、上野の地方を任せられた人の守り神であった駒形大神を勧請、地方の平定のために山頂に祀った。
延喜式と言う平安時代中期に定められた格式の細則。
その中で記録された中に駒形または駒ヶ岳などの名で示された祭神。
当時に残っていた岩手県奥州市水沢の陸中一ノ宮と宮城県栗原市栗駒山の駒形根神社の二社が延喜式にある。

坂上田村麻呂などによって奥州征伐が行われた時代以前から、東北地方に住んでいた蝦夷(エミシ)と奈良京都の都に住んでいた倭人との戦いはあって、それぞれの時代で解釈もある。
浅学の身が軽々しく説明するよりも、お調べいただいたほうが、誤解が無いだろう。
その都から征伐に来て、形の良い山の山頂に、神を祀って平安を祈ったのが、いまに残っていると考えられる。

蝦夷の守り神である、アラハバキ神の痕跡は、栗原市や奥州市に残っていると思われるので、都の神を征服者側が祀ることで、アラハバキ神に対抗させたとも言えるのだろう。

東北の古代史は奥羽軍記なども群雄割拠の様相を活写して面白いが、地方の神社の由来を見ると、特に延喜式に記されている式内社と、古来からあったはずなのに、時の権力に素知らぬように、延喜式には無記載の神社などもあるので、何か他人が知らないちょっとした宝を掘り当てたような嬉しさを感じるような話題がある。

徳川の世になってからも、栗原市や奥州市などでは時々一揆などが起こっていた。
なぜだろう?
江戸時代の伊達藩は強大な権力があったのにと考えれば、これらの地域で起きていた一揆をさらに遡ることで、蝦夷の残党が反抗をしていたと捉えると、頷ける部分はある。
反抗する農民には過酷な税を課しただろうし、どこの時代まで遡るなら納得できるのかは、東北の縄文人と九州や近畿地方の弥生人の戦いが、明治時代直前の戊辰戦争まで続いて、常に東北地方が虐げられた負け戦の連続が、今日まで続いて、国会議員の横暴を考える材料になってしまう。
本来の日本の民であった、北関東から以北、北海道までが縄文人の子孫(当然だが、途中から多く日本に入って来たアイヌまで含めて)と、中国や朝鮮半島を経由して日本に入ってきた弥生人との若干の方々との覇権争いが、無意識に行われていると言えるのかもしれない。
奥州征伐時に捉えられた蝦夷が、九州地方の守りに遣わされたなど、非常にダイナミックに人種混交が行われたので、日本人の由来を深く探るなら、ほぼほぼ単一民族と言えるほどに、沖縄から北海道までの日本人は、同種の民族と言えるのではあるのだけれど。栗駒山頂の社 36年振りに再建

河北新報電子版 朝刊
令和5年11月9日 15/24

栗原・駒形根神社奥宮の老朽化によって御影石の社を再建した。
東北地方のほとんどは山岳信仰で、駒形根神社も同様ではあるのだけれど、元々の由来を紐解くと、上毛野(かみつけの)、現在の群馬県地方の上野(こうづけ)の古語で、国造りと言われ都から地方の豪族として遣わされた人々の中で、上野の地方を任せられた人の守り神であった駒形大神を勧請、地方の平定のために山頂に祀った。
延喜式と言う平安時代中期に定められた格式の細則。
その中で記録された中に駒形または駒ヶ岳などの名で示された祭神。
当時に残っていた岩手県奥州市水沢の陸中一ノ宮と宮城県栗原市栗駒山の駒形根神社の二社が延喜式にある。

坂上田村麻呂などによって奥州征伐が行われた時代以前から、東北地方に住んでいた蝦夷(エミシ)と奈良京都の都に住んでいた倭人との戦いはあって、それぞれの時代で解釈もある。
浅学の身が軽々しく説明するよりも、お調べいただいたほうが、誤解が無いだろう。
その都から征伐に来て、形の良い山の山頂に、神を祀って平安を祈ったのが、いまに残っていると考えられる。

蝦夷の守り神である、アラハバキ神の痕跡は、栗原市や奥州市に残っていると思われるので、都の神を征服者側が祀ることで、アラハバキ神に対抗させたとも言えるのだろう。

東北の古代史は奥羽軍記なども群雄割拠の様相を活写して面白いが、地方の神社の由来を見ると、特に延喜式に記されている式内社と、古来からあったはずなのに、時の権力に素知らぬように、延喜式には無記載の神社などもあるので、何か他人が知らないちょっとした宝を掘り当てたような嬉しさを感じるような話題がある。

徳川の世になってからも、栗原市や奥州市などでは時々一揆などが起こっていた。
なぜだろう?
江戸時代の伊達藩は強大な権力があったのにと考えれば、これらの地域で起きていた一揆をさらに遡ることで、蝦夷の残党が反抗をしていたと捉えると、頷ける部分はある。
反抗する農民には過酷な税を課しただろうし、どこの時代まで遡るなら納得できるのかは、東北の縄文人と九州や近畿地方の弥生人の戦いが、明治時代直前の戊辰戦争まで続いて、常に東北地方が虐げられた負け戦の連続が、今日まで続いて、国会議員の横暴を考える材料になってしまう。
本来の日本の民であった、北関東から以北、北海道までが縄文人の子孫(当然だが、途中から多く日本に入って来たアイヌまで含めて)と、中国や朝鮮半島を経由して日本に入ってきた弥生人との若干の方々との覇権争いが、無意識に行われていると言えるのかもしれない。
奥州征伐時に捉えられた蝦夷が、九州地方の守りに遣わされたなど、非常にダイナミックに人種混交が行われたので、日本人の由来を深く探るなら、ほぼほぼ単一民族と言えるほどに、沖縄から北海道までの日本人は、同種の民族と言えるのではあるのだけれど。