我家の庭。野村モミジ、おとめ、ドウダンが綺麗です。
今読んでいる本を読み終えたので、新しいのを、図書館へ行って借りてきました。
イザベラ・バード著 金坂清則訳 『中国奥地紀行1』 東洋文庫
イザベラさんは、朝鮮を旅行した後、1896年頃、中国を旅行したようです。。
英国婦人の見た、19世紀末の中国は如何だったのでしょうか? 記述が細かすぎて読み辛かった。例によって読み飛ばし。作者には申し訳ないです(トホホ)
上海から揚子江を溯って、四川省保寧府まで行くのが第一巻。私は、中国の事はほとんど知らないので、そこが何処なのか、分りません(悲しい)
この時期の中国は、アヘン戦争・清仏戦争・日清戦争に負け、揚子江河畔の主要な港は、不平等条約によって開港させられ、西洋列強の租界が作られていました。イザベラさんが、旅行の基地としたのは、そんな上海のイギリス租界です。
上海の租界は、小さなヨーロッパで、イザベラさんにとっては快適な所だったようです。これとは別に中国人の住む、繁栄する商業都市・上海があって、此処は西洋人にとっては汚い所、忌まわしい所と嫌われていた。
イザベラさんは、運河を通って古都杭州へ行きます。そこには医療伝道病院がありました。外国人達は、医療とキリスト教を伝道することにより中国の西洋化を狙っていたのでしょうか。
上海から漢口(今の武漢)へ汽船に乗って旅を開始します。漢口から宜昌へ。
宜昌までは、どの港も租界があり、彼女にとっては安全な場所だったようです。
でもここから先、揚子江の上流地へ、屋形船で旅を続けます。
マストが付き、追い風の時は帆を張ればそれで走れるが、そうでない時は櫂を漕ぎ、流れが強くってそれもダメな時は、ロープで曳いて溯った。
下品な船長と船員。溯るに困難な急灘。停泊地となる村や街の住人からの軋轢。非常に苦労したようです。そうです、西洋人は洋鬼子(西洋の悪魔)と蔑視され嫌われていました。
景色は美しいと書いています。揚子江河畔の山の頂には寺院が建ち、山水画の様な景色なんでしょうね。五千年の歴史を持つ中国です。都市は城壁に囲まれ、寺院は美しいと書いています。
万県まで船で行き、そこからは轎に乗って旅をします。保寧府まで。
従者が一人、轎かきが二人、後は荷物持ちが数人、それから差人と呼ばれる官吏の使い走りが二人付いたようです。外国人には、差人が付いて歩かなければいけない規則になっていたようです。イザベラさんはイギリス領事なみのパスポート(旅券)を持っていました。それでも一般の人から見れば、妙な格好をした洋鬼子だから、見物の対象にもなるし迫害の対象にもなるんですね。見物の対象になるのは我慢しても、襲われるのはかないません。実際数度襲われます。官吏は対応して追う払ってくれるが・・。差人が前を行き、見物人やらが集まってくると「下にい?」等といって歩いたそうです。こうまでして旅行したいのだろうか?
西洋人が嫌われる理由は、時々中国の風習や禁じ手を無視して、あるいは気づかず行動してしまう事に有るようです。西洋人は野蛮な悪魔という事になるようです。それでも、人の少ない村では現地の婦人と話が出来、中国人の風習や教育などを知る事が出来たようです。
中国の官吏は、朝鮮などと比べれば余程勤勉に仕事をしていたようです。中国人の風習、都市や村の事、詳しく描かれていました。
いよいよ第二巻は、更に奥地に足を延ばします。
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