羚英的随想日記

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■大河は流れる…光明の中に■

2005-12-12 17:12:39 | 大河は流れる



新しき国へ…

死して八百十余年、源義経は人々の心に幾度もよみがえってはまた繰り返し生を終えてゆく…、その終焉を知っている我々は、尚もまたその悲運の最期をこれでもかと繰り返し思い知らされるのです。

光明の中から生まれたアフラマズダ、その光明の神の名をもらった遮那王・義経は光の魂(たま)となり、新しき国へと天駆けていきましたね。
義経主従の魂(たましい)も、平家の魂も、そしてこの物語に新たに宿っていった魂も、あの光の珠のように昇華していったのでしょうか…。


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■大河は流れる…敦盛の最期■

2005-07-10 09:42:58 | 大河は流れる
『義経』 では残念ながら登場しませんが、平清盛の弟・経盛(つねもり)の三男、敦盛(あつもり)のお話が 『平家物語』 に登場します。
平敦盛は“無官の太夫”と称された美しい若武者で、祖父が鳥羽院より下賜された名器・小枝を譲り受け、錦の袋に入れ出陣していた笛の名手でもありました。

元暦元年(1184)二月七日未明、一の谷に本陣を置いた平家の軍を背後の険しい断崖から坂落としの急襲をかけた義経軍。
世に言う“鵯越え(ひよどりごえ)”の奇襲戦法です。
平家軍は潰乱され、あわてて舟で沖へと敗走しようと大混乱に陥ります。

源氏の武将・熊谷次郎直実(くまがえのじろうなおざね)は平家の名のある武将の首を取らんと波打ちに馬を走らせていると、平家の公達と思われる美しく立派に武装した者が一騎、海の中に分け入り舟に向かおうとしているのが見えました。

『あれはいかに よき大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ』

大将軍と思われるお方がよもや敵に後ろを見せるとは!戻られよ、熊谷は扇を掲げて招きます。
平家の武将は馬首を返し熊谷と一戦を交えますが、猛将の熊谷相手に抗うことも出来ず、組み伏されてしまいます。
熊谷は敵の首を取ろうと兜を脱がすと、薄化粧をしてお歯黒をしている、まだ自分の息子と年も変わらない美しく若い武将ではありませんか。 
熊谷はこの若武者を助けようと思い名を尋ねますが、

『さては汝がためにはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取って人に問へ。見知らうずるぞ』

お前には良い敵だ。首を取って人に問え。見知る者もいるはずだ。といい、名乗ろうとはしません。

熊谷はこの武将らしい潔い姿に心を打たれ、この若武者一人を助けたところでこの戦に負ける事もあるまいと思い、振り向いて後方を見ると、すぐそこまで味方の土肥・梶原五十騎ほどが向かっているのが見えます。
熊谷は涙をおさえて申し上げました。

お助け申したいとは存じますが、味方の軍兵は雲か霞のごとく大勢おります。とてもお逃げになれますまい。他の者の手に掛けさせ申すよりも、同じことならばこの直実の手で討ち申し上げ、後の供養をもいたしましょう。
そう申し上げたところ

『ただ何様にも、とくとく首を取れ』

ただ早く首を取れ、とこの若武者は言われるだけでした。

熊谷はあまりに可愛そうで、どこに刀を突いたらよいとも分からず、目の前が暗くなり心も消え果てて前後不覚になりそうになりましたが、このままでいることも出来ずに、泣く泣く首を落としてしまいました。

『あはれ、弓矢取る身ほどくちをしかりけることはなし。武芸の家に生まれずは、何しにただ今かかる憂き目をばみるべき。なさけなうも討ちたてまつたるものかな』

ああ、武士の身分ほど情けないものはない。武芸の家に生まれなければ、どうしてこのようなつらい目をみることがあろうか。情けなくも討ち申したものよ。
熊谷はそういうとくどくどと嘆き悲しみ、袖に顔を押したてて、さめざめと泣きました。

熊谷はこの若武者の首級を包み申上げようと思い、鎧や直垂を解いてみると、若武者は錦の袋に入った笛を腰に携えていました。

『あないとほし。この暁城の内にて、管弦したまひつるは、この人々にておはしけり。』

ああ、なんと哀れな。この夜明けに一の谷の敵陣にて管弦を奏でられていたのは、この方たちだったのか。味方の東軍は何万の軍勢がいるが、戦の陣に笛を携えるものなどよもや居はしない。高貴な方々はやはり情趣があるものだ、と涙しました。

その笛を義経のもとに持参しことの次第を話したところ、その場にいた源氏の武将達も皆涙を流しました。
熊谷は後に、その若武者が修理の太夫・平経盛の子、平敦盛だという事を聞き及びます。
それにより、出家を決意するのです。


『平家物語』 は特定の人が創作したものではなく、記録や見聞談に基づく語りが、多くの人によって増補されたものだと考えられています。
ですから、この 『敦盛の最期』 も後の脚色によるものだと言われているのです。
熊谷の出家も一の谷の戦いの後ではなくその何年か後のことで、別の理由によるものだといいます。

熊谷直実が平敦盛を討ったことが事実であるならば、後の人々の無常を哀れむ心が、この物語を創らせたのでしょう。


宝暦元年(一七五一)に初演された 『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』 は平家物語の熊谷直実と平敦盛の話しに題材を得た狂言で、この中では、熊谷は泣く泣く自分の息子の首を取り、敦盛の身代わりとして差し出すという内容になっています。
敦盛が無官だったのは、実は後白河法皇が藤の方との間にもうけたお子であるためで、よもや天皇となられる事もあるかも知れないお方を手にかけるような所業は出来ぬと。
義経は 『一枝を切らば、一指を切るべし』 という謎かけをして、それを熊谷が自分なりの解釈をした結果がこれであった、というお話です。
今でも歌舞伎の名作として伝えられています。

兵庫県神戸市にある一ノ谷町の近く、須磨浦公園の付近には“平敦盛塚”があるそうです。
また須磨寺には義経・弁慶、敦盛のゆかりの品や伝承が残り、またこの庭には 『敦盛の最期』 を現した“源平の庭”があり、いにしえの武士たちを偲ぶことが出来るそうです。

“アツモリソウ(敦盛草)”、“クマガイソウ(熊谷草)”と名づけられた可憐な花々もあります。その姿が武士が羽織った母衣(ほろ)に似ているので、この名がつけられたと言われています。 


平家の家紋・揚羽蝶の壁紙はこちらからお借りしました→



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■大河は流れる…那須与一■

2005-07-03 10:27:05 | 大河は流れる
『義経』 の屋島の戦いで、那須与一宗高(宗隆)を今井翼さんが演じるのだそうですよ。
タッキー&翼の大河での競演は、『元禄繚乱』 で敵味方を演じて以来だそうで、NHKも(ジャニーズも)いろいろと頑張ってますね。

『平家物語』 から抄出すると…

讃岐屋島(高松市)に拠っていた平家軍を義経軍は襲いましたが、勝敗はつかず夕暮れになりました。すると沖のほうから一艘の小船が漕ぎ寄り、竿の先に扇を立てて、若い美しい女性が陸の源氏軍に向かって手招きをします。
源氏軍はこの扇を射落とせということだろうと見て、弓の名手として名を馳せている那須与一宗高を差し向けます。

一一八五年の二月十八日の夕刻、馬上の那須与一は波の中に分け入りいざ射止めんと臨みますが、激しい北風で波も高く、小船は波に揺れて竿の先の扇もひらひらと揺れ動きなかなか定まりません。沖では一面に舟を浮かべて平家が、陸では馬のくつわを並べて源氏がじっとその様子を窺います。

与一はそっと目を瞑り
『南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮・那須の湯泉大明神、願はくはあの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(ふたたびおもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外(はづ)させたまふな』
と心の中で祈念して、目を開いてみると、風も少し弱まり、扇も射やすそうになりました。

与一は鏑矢(かぷらや)を取り弓に番え、射放ちます。
小柄な体にも関わらず、その矢は十二束三伏(※じゅうにそくみつぶせ)で、弓は強く、浦に響き渡るほど長く弓が鳴り、ぴたりと扇の要(かなめ)ぎわ一寸ほどのところに命中しました。
鏑矢は海に沈み、扇は空へ舞い上がります。
しばしの間、宙を待っていましたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散りました。

夕日の輝く中で、前面が紅(くれない)色で黄金の日輪を描いている扇が、白波の上に漂い浮き沈みして揺られているのを見て、沖の平家は船端をたたいて感嘆し、陸の源氏は箙(※えびら)をたたいてどよめきはやしたてたのです。

十二束三伏の矢とは、が12個分と指3本分の長さのある矢のことです。
普通は十二束、が12個なのだそうです。
箙(えびら)とは矢を入れて背に負う武具のことです。

それにしても、先刻まで互いに命を賭して戦っていたもの同士が、暇にこのように余興に興ずるその余裕というか、遊び心というか、なかなか粋ではありませんか。

『義経』 では、その小船に乗り扇を射よと手招きする女性の役は、義経との関わりのとても深い人物になっています。
“美しく着飾っている十八、九の女性”と 『平家物語』 では語っています。
さて、どの女人なのでしょうか?
“大河ドラマ・ストーリー【後編】”を購入済みの方はモチロンご存知のはず♪

三浦の海岸でロケに挑んだ今井翼さん演じる那須与一、どんな射手ぶりを見せてくれますか。
8月14日放送予定の第32話に登場します。
この名場面が今から楽しみです。

源氏の家紋・笹竜胆の壁紙はこちらからお借りしました→



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■大河は流れる…会津戦争■

2005-05-31 18:15:09 | 大河は流れる
新年の特別番組として、NHKが大河 『新選組!』 の続編を製作するというニュースはすでにご存知のことと思います。
私もそれほど大河に詳しいわけではありませんが、このような形で特番(続編)を組むなど今までにはなかったのではないでしょうか。

会津を始め東北・北海道など、戊辰戦争の真実を描いて欲しいと切に求む人々、全国におられる新選組ファンなどの熱烈な思いに答えてくれて実現したのか、それに昨今のNHKの現状を考慮して講じる策の一環としてでしょうか…。
いずれにしても明治というまったく新しい時代に変わるその時に、日本で、北の地でどのようなことが繰り広げられてきたのか、いかに多くの犠牲を払ってその巨大なうねりの中から出でたものなのか、新選組を通して伝えてくれたらなと思います。

近藤勇の死後、その大義と信念を貫かんと北上し戦い続けた新選組のその後をどのように描くのかも勿論のこと、今からとてもとても楽しみです。

出来る限りオリジナルの出演者でということですが、すでに亡くなっている役の方々も追想という形で出演されたりするのかな?




会津戦争のことは少なからず描かれることと思います。

土方歳三ら新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)公に迎い入れられ、会津若松の天寧寺の、城下を見下ろせる高台に近藤勇の墓を建立していますし、共に西軍(新政府軍)と戦っています。
後に、容保公の恩に報いようと会津残留を決意する斉藤一ら隊士と別れ、土方歳三らは北上することになります。
戦況はもはや予断を許さない状況になり、滝沢本陣から出陣する兵の中には新選組も、そしてあの白虎隊もいました。

しかし新年の特番で、この白虎隊のことまでは描く時間が無いかも知れません。

飯盛山にて自刃した、後に生還した飯沼貞雄(貞吉)を含む20名の白虎隊士のお話は多くの人々の知るところです。
ここでいう白虎隊とは 「白虎隊士中二番隊」 です。
士中、寄合、足軽と身分によって分けられそれぞれ二中隊づつ、16から17歳の少年ばかりの隊で、白虎隊は合計六中隊ありました。

旧暦八月二十三日(九月十八日)、彼ら19名が若い命を散らしたその日より前、旧暦四月四日(五月四日)、ある士中白虎隊士の壮絶な最期がありました。
長岡藩の応援に越後口を守っていた隊士・町野久吉の話で、西軍の長州藩士の実話として伝えられているものです。




激戦数刻 遂に会津兵破れて 権現堂ごんげんどうに引き上げ 
我兵わがへい これを追い 隊をして進む
時に突如として藪影やぶかげより現れたる一人の会津兵あり
齢尚よわいなお若き紅顔の少年なり
たちま我兵わがへいに接しぬ
 槍は電光の如くひらめ
身は飛鳥ひちょうの如く
猛然もうぜん当たるべからず 
さながら阿修羅王の狂えるに似たり
手練てだれ早業はやわざに 我長州兵の突かれる者四人
我隊やむを得ずこれを遠巻きにし銃丸じゅうがんを発射し
辛うじてこれたおす 
我兵すなわち走りて首をかかんとするや
たちまち身を起こし
怒号どごうって我兵を睥睨へいげい
猛姿もうし当たるべからず
しかれど 身には銃丸じゅうがんを受くるや 
全身ためあか
流石さすがの勇猛の士も 
また如何いかんとすることあたはず
ついに我兵の手に首をまか
 



徳川の二百五十年の永い泰平の世が続いた中で、諸藩の武士たちの武士としての軍事能力が低下する中、会津藩は最も戦国的な気質が色濃く残る精鋭といわれていました。
会津では上級藩士のどの子弟も十歳になると、日本屈指の藩校として名を馳せた 『日新館』 に入校し、二十八にも及ぶ科目のある中、厳しい文武両道の教えを施されました。
幼少の頃には 『什』 と呼ばれる特殊な制度の中で日々を暮らし、『ならぬことはならぬ』 という厳しい掟に培われた気質が会津武士の根幹にあったわけです。

藩祖・保科正之公(三代将軍・徳川家光公の異母弟)の定めた 『家訓(かきん)』 を代々遵守してきた会津藩。
『大君の儀一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず』
徳川幕府に絶対的な忠義を尽くし、他の藩の真似をして藩政をするな…すなわち藩意はいかなる時も常に幕府とともにあるようにと定めたのでした。


徳川幕府の斜陽の兆しが見える頃、不穏分子から朝廷を守り京都の街の警備を強化するため、幕府は新たに京都守護職を置くことを決め、この藩祖の遺訓をもって半ば強制的に、会津藩主・松平容保公にその職につかせることとなります。


幕府の意に沿い朝廷を守り、京の治安を守る事に尽力し、孝明天皇の厚い信頼を受けていたにも拘らず、また大政奉還後は謹んで新政府に恭順の意を表したにも拘らず、松平容保公と会津藩は朝敵の汚名を着せられ、日本の東西を二分した、会津戦争をはじめとする戊辰戦争へと引きずり込まれて行くのです。

振り上げた恨みを晴らす拳が大政奉還で行き場がなくなり、収まりが付かなくなった長州をはじめ西軍の鉾先は徳川慶喜公(旧幕府)から松平容保公に向かったのでした。


飯盛山での白虎隊士中二番隊の自刃の一ヵ月後、藩主・容保公の命を保障するという西軍の条件を受け、会津藩は降伏、少年らが炎々と燃え上がっていると思い込み絶望したその鶴ヶ城は開城しました。
一昼夜、二千七百発の砲弾を受けたその城は、名実共に難攻不落の名城だったのでした。


降伏後、城下に累々と横たわる会津兵の屍や、飯盛山の白虎隊の亡骸も逆賊とされ新政府軍によって埋葬を禁止され放置されたそうです。
または、雪の季節が来て深雪に覆われてしまったために埋葬が困難になったためともいわれているようです。

後に造ることを許された会津兵の合葬墓の墓標も、単に“戦死者”と刻まれただけでした。
上野の彰義隊の墓も同様でした。

敵味方なく、亡骸を手厚く葬るという武士としての礼節を残念な事に忘れてしまっていたようです。

白虎隊の少年達の母や姉たちは、人目をしのんで飯盛山にのぼり、涙ながらに亡骸から遺品を持ち帰ったといいます。
飯盛山に彼らの墓が建てられたのは、明治も半ばになってのことでした。



幾人(いくたり)の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽ちじとぞ思う


源 容保(松平容保)


…白虎隊に捧ぐ歌…



過ぎし世は 夢かうつつか白雲の
空に浮かべる心地こそすれ


飯沼貞雄(貞吉)


…自刃から生還した貞吉の晩年の歌…



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■大河は流れる…白拍子■

2005-05-20 17:51:38 | 大河は流れる
花の咲いている木・その2
純白の花びらが凛として清々しいです


白拍子は芸や教養を身につけ、神楽や今様(いまよう)などの即興の唄も歌い舞を披露することを生業とする一流の芸能集団でした。

しかし寝所に侍る遊女の括りにも入ります。
“括りに入る”と表現したのは、白拍子=遊女と簡単にはいかないところにあると思うからです。

白拍子の起源は、傀儡子 (くぐつ:諸国を流浪し,男は操人形や奇術など,女は遊び女としてそれらを生業にし、後の時代に都市や町に定着したものたち)とも、神楽の中で舞を伴う男舞を、代わって女が演じるようになったものだとも言われています。
宴席に侍り、芸を披露し、宴の後に閨(ねや)を供にする(伽の相手をする)こともありました。

水干・立て烏帽子・白鞘巻きの太刀に緋の長袴。
即興の唄を歌いながら舞うには、それなりの知識と教養、そして舞のセンスが要求されるわけです。
容姿も勿論のことです。


白拍子が他の遊女と異なるところは、色を売り物にするのではなく、教養・芸を磨きあくまでも歌と舞を披露することが本来の生業、ということです。

彼女たちの社会的地位は、決して低くはなかったようでもあります。

後鳥羽天皇には白拍子出身の妃が何人かいました。
亀菊という名の白拍子は特に寵愛を受けていたそうですし、白拍子腹の皇子皇女もいました。

平清盛にもお気に入りの白拍子がいましたし、源頼朝にはお抱えの12人の白拍子がいたともいいます。
清盛のもとにいた祇王仏御前の物語や、頼朝の随一の白拍子・千寿平重衝の悲しい恋物語も涙を誘います。  

人々の憧憬を集める存在でもあり、位の高い人たちの寵愛を受けることもある一方で、やはり芸を生業にする身分であるがゆえ、蔑まれることもありました。

両極の狭間に生きる…というと過言でしょうか。

女の性を搾取されるのではなく、芸や教養を磨き、自分の意思で自身を搾取し、時代を生きていったしたたかさ。
受動ではなく能動、白拍子とはその時代にあって、ある意味“自由意志を持った”人間であったのではと思います。


静御前の母も白拍子でしたが、義経の母・常盤御前も雑仕女の出か、もしくは白拍子だったとも云われているようです。


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■大河は流れる…舞■

2005-03-19 20:50:32 | 大河は流れる
陵王

宮内庁式部職楽部 『陵王』
(教育芸術社“中学の音楽1”より)


中学1年の音楽の教科書に“舞楽”についての記述がありました。

 日本の雅楽は、中国大陸や朝鮮半島から伝わった音楽や舞が、日本古来のものと互いに影響を及ぼし合い独自に発展したもので、現在の日本の雅楽は10世紀頃に完成したと言われている。
 雅楽には、舞楽(舞が伴うもの)、管弦(合奏だけのもの)、歌が中心となるものなどがある。


【舞 楽】

 舞楽とは雅楽の中で舞が伴ったものをいい、伴奏に用いられる音楽の種類によって、左舞(さまい)、右舞(うまい)に分けられ、両者の間には、舞の型、舞人(まいびと)の登場・退場の仕方、面の種類や装束の色などに様々な違いがある。
 双方の舞には、一人舞い、二人舞い、四人舞の3種類があり曲ごとに舞い手の人数が決められていて、四人舞の曲目が最も多く時にはこれを6人で舞うこともある。
 面をつけて舞う曲は、左舞・右舞ともに10曲ずつほどあり、曲によって面は決められている。


【左舞と右舞の主な違い】

 《左 舞(左方)》  
     伴奏音楽-----唐楽(中国系の雅楽)
     装束の色-----原則として赤系統

 《右 舞(右方)》
     伴奏音楽-----高麗楽(朝鮮半島系の雅楽)
     装束の色-----原則として緑系統
  

【舞の分類(左舞・右舞ともに)】

 《平舞(ひらまい)》 舞具をもたずにゆるやかな舞

 《武舞(ぶのまい)》 鉾・盾などを持ち勇壮な舞

 《走舞(はしりまい)》 面をつける一人ないし二人の躍動的な舞


『陵王』は左舞の走舞で一人舞です。





明日の大河 『義経』 では、後白河法皇の五十歳を祝う宴で維盛(賀集利規)と資盛(小泉孝太郎)が 『青海波(せいがいは)』 を舞います。
この舞は左舞で二人舞です。左舞には珍しく、緑(玉虫色の禁色)の装束です。

『青海波』 は 『源氏物語』 の中で、源氏の君が頭の中将とともに、父である桐壺帝の行幸の試楽(リハーサル)で、父帝の寵愛する藤壺の宮ら女人たちの前で舞ったことでも有名ですよね。
本来女人は見ることが出来ないところを、桐壺帝は懐妊している藤壺の宮を気遣い、試楽の見学ということで計らってくれたのです。
源氏の君との許されざる愛に身をやつす藤壺の宮が、御簾(みす)の向こうで見つめる前で、紅葉舞散る夕日を浴びて若い二人の公達がこの 『青海波』 を舞うわけです。

 
『青海波』 の画像はこちらでご覧下さい。源氏の君が舞ったときの装束は花纓の冠で、こちらとは少し異なります。

舞の練習に余念がなかったというお二人の、明日の 『青海波』 が楽しみです。

青海波

ちなみに 『青海波』 という文様もあります。
中国の青海地方の民族文様に由来するとも、
舞の 『青海波』 の装束からとも、
元禄時代の漆職人の青海勘七という人が
この文様を描いたとも言われているそうです。

鯉のぼりのウロコと同じですね。



また、義経には 『青海波』 という名の愛馬があったそうです。読みは“せいかいば”というらしいですよ。



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■遮那王のお歯黒■

2005-03-12 09:27:51 | 大河は流れる
閑話です

とある本でみかけたのですが
遮那王鉄漿(おはぐろ)をしていたそうな…

『義経』 に登場するやんごとない人々なども本来お歯黒をしていたわけだから、それもそうなんでしょうけど。

もしもタッキーがお歯黒で登場していたら…
(想像してみてちょ)
…視聴者の反応やいかに

思いっきり引くか、はたまた
大爆笑

いずれにしても、その、爽やかなお歯黒笑顔釘付けになるのは
間違いないっ古っ…?

※でもこれ、“大河は流れる”のカテゴリーでいいのだろうか…。


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■大河は流れる…主なき駿馬■

2005-02-15 23:23:33 | 大河は流れる
『義経』 のタイトルバック映像で白馬が草原を駆け抜けるシーンがありますね。
私はそれを見た時に、大好きだった1976年度の大河 『風と雲と虹と』 のオープニングを思い出し胸が躍りました。

『義経』 は美しい白い裸馬ですが、『風と雲と虹と』 は栗毛(記憶が正しければ)の装束馬で、あるじを背に乗せることなく、その緋色の装束をひるがえしひるがえし坂東の地を疾駆する姿が、故山本直純氏の曲と共に映し出されていた模様が鮮やかに甦ります。

平将門を演じておられた加藤剛さんの柔和な物腰と端正な所作が、非業の武将の生涯にさらに深みを与え、物語に引き込まれていくのを止めることが出来ませんでした。

私の心に思いが入り、将門公の首塚へ冥福を祈りに訪れたいと思ったのです。
が、家族に制止されました。
単なる崇り云々と言うことだけではありませんでした。

私の両親の家系はもとを辿ると同系で、将門公を討った武将の縁であるといわれているのです。
自分の出自を承知しているのであれば、その時の心の高揚だけで、簡単に首塚に踏み入ってはいけないと…。
それをしたいのであれば、きちんと礼を尽くし生の続く限り供養する覚悟で行くようにと。

当時まだ中学生だった私が覚悟を決める事など出来るわけもなく、おののいてしまったのはご想像頂けると思います。


止められているわけではありませんが、神田明神にも足を運ぶ事も出来ないでいます。
神田明神には三人の御神体が祀られています。

一ノ宮は大己貴命(おおなむちのみこと)大国主命=だいこく様。
二ノ宮は少彦名命(すくなひこなのみこと)えびす様。
三ノ宮が平将門命(たいらのまさかどのみこと)です。


ここは初め大国主命を祀っていましたが、将門公の首が付近に葬られると天変地異の怪異が続き人々が窮しているのを知り、鎌倉時代になり時宗の真教上人が将門公に“蓮阿弥陀仏”という法号を与えて供養し、祭神として合祀し、神田明神と改称しました。
江戸時代に神田明神は移築され、塚は残されました。“江戸総鎮守”として江戸庶民にも親しまれた神社でしたが、維新後は天皇に反逆した“朝敵”とされ、明治政府の弾圧を受け、将門公は別殿に移され祭神の座を下ろされ、祭殿は大己貴命と少彦名命となりました。

関東大震災の時に大蔵省庁舎が焼失し、発掘調査をしたものの盗掘されていて何もなかった塚を撤去し埋め立て、そこに仮庁舎を建てたものの次々と奇怪な出来事が起こり、巷では将門公の崇りとまことしやかに囁かれるようになるのです。
結局仮庁舎は撤去し、神田神社により慰霊祭が執り行われました。

第二次大戦後、米軍の指示で塚の周辺の地を整地する作業をしていた人が転落事故で死亡、塚は撤去を免れました。
そして1984年に大河の影響を受け、110年ぶりに将門公は祭神の座に復帰したのです。


『風と雲と虹と』 のラストシーンは、まさにあの装束をつけた駿馬が疾駆する場面でした。
慣れ親しんだひづめの音、多分幻の音を聞いた領民たちが“将門様が生きておられた”と歓喜の声をあげます。
彼らは知りません。それは乗せるべきあるじのすでに無い馬が、ただ駆け抜けているだけだという事を…。


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■大河は流れる…陵王の舞■

2005-01-31 11:42:55 | 大河は流れる
舞楽・『陵王の舞』
広島は宮島の厳島神社で奉納される 『陵王の舞』 が随一でしょう。
大河 『義経』 のオープニングにも映像が効果的に使われています。

厳島神社は、平清盛の時代に平家一族が信仰を寄せて大きく発展し、社殿が造営されました。
その後度重なる火災などの災害で、社殿の規模も変化したそうですが、14世紀はじめ頃には現在の姿になったと言います。

平家の象徴としての厳島と 『陵王の舞』
その意味合いのみで、はたして使われているのでしょうか…。



『陵王の舞』 の陵王は実在の人物です。

6世紀の中国の北斉という国に、蘭陵王と称された皇族がいました。
姓は高、名は粛、字は長恭といい、蘭陵(地名)の名を頂いたその人物・蘭陵王長恭は勇猛果敢な将軍でもありました。

伝承によりますと
この蘭陵王は大変美しい面立ちの若者であったがゆえに、それを常に獰猛な仮面で覆い隠し戦いに出陣していました。
当時の中国は南北朝時代で、北朝には2つの王国・周と斉があり、斉は周王朝の支配下の王国でした。周の都は長安で、斉の都はかつて周王朝が首都にしていた洛陽でした。周は洛陽を奪還せんとして大軍をもって洛陽の出城を包囲します。
城壁に囲まれている都に、大軍もすぐには攻め入る事は出来ません。洛陽の東南に位置する芒山の近くに陣を敷いていたと思われます。
蘭陵王は芒山の戦いで、わずか五百騎で十万の周軍包囲陣に突入し、洛陽城を開放しました。


才気・武勇にすぐれた若き将であったのです。

その後、斉の皇帝に蘭陵王のいとこにあたる高緯(後主と呼ばれている)が即位します。高緯は猜疑心が強く、人心を得ている蘭陵王を妬み、ついには鴆酒という毒薬を下賜し蘭陵王を毒殺してしまいます。
大勝利の年から十年後、蘭陵王・三十の齢の時でした。


その死からわずか三年後、周に攻め入られ斉は滅亡します。
蘭陵王の墓は現存し、厚く祀られているそうです。



洛陽城にて戦勝の宴が繰り広げられ、その勇姿を称え歌謡されたのが 『蘭陵王入陣曲』 で、それが発展して現在の雅楽・『陵王の舞』 になったと言われています。
緋色の裲襠(りょうとう)装束、金色の龍頭面、右手に金色の桴(ばち)、左手で剣印をきって舞う、左方(左舞・唐楽)の走舞(はしりまい・絢爛な装束で一人または二人で演じる動きある勇壮な舞)です。戦勝の祝いの舞として、また頭上に水神の龍を冠している事から雨乞いの舞として舞われるようになりました。
陵王・蘭陵王・羅陵王・羅龍王などとも称されます。


奈良・東大寺、毘虘舎那佛の開眼供養の時にはすでにこの 『陵王の舞』 が舞われていて、開眼供養の遺品の中にその舞の金帯が残っているのだそうです。


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■大河は流れる…遮那王の名■

2005-01-29 11:50:08 | 大河は流れる
前回の 『義経』 で彼の鞍馬寺での名・遮那王が 『毘虘舎那佛または毘虘遮那佛(びるしゃなぶつ)』 が由来であると初めて知り、少し考えさせられるものがありました。

『毘虘舎那佛』 というと一番初めに思い出すのが、奈良・東大寺の大仏ですね。東大寺・華厳経の本尊で、これが発展して後に真言宗の 『大日如来』 となるわけです。

『毘虘舎那如来』 のサンスクリット名:
ヴァイローチャナ Vairocana 意味は“光明遍照(光明をあまねく照らすもの)”
『大日如来』 のサンスクリット名:
マハー・ヴァイローチャナ(摩訶 毘虘舎那・まか びるしゃな)Maha-Vairocana
“マハー”は“大”を意味します。


ここでアーリア系の2つの宗教を見てみると…

◆ペルシャ(イラン)・ゾロアスター教◆ 

善神=アフラ
悪神=ダエーワ

◆インド・ヒンドゥー教◆ 

善神=デーヴァ
悪神=アシュラ


2つの宗教の中で善神・悪神が入れ替わっています。
※諸説ありますのでここでは割愛します。

ペルシャの善神・アフラ族の長の名は、アフラマズダ Ahura Mazda
意味は“すべてを知るもの”、『光明の中に存在する神』 です。
そして、インドの悪神・アシュラ族の長の名は、ヴァイローチャナ

ここでアフラマズダ=ヴァイローチャナの図式が成り立ちます。
『毘虘舎那佛』 はペルシャの 『光明の神』 が仏教的に解釈されこうして復活した形だと考えられます。





一方で…
ヒンドゥーから発展した仏教では、アシュラは阿修羅に相当します。阿修羅の神々という複数形でよりも 『阿修羅』 としての単数として扱われる事が多いです。

ヒンドゥーの神話の中に、アシュラとインドラ(帝釈天)の戦いの物語があります。

『正義の神』 アシュラは、彼の美しい娘・スジャーを力ずくで略奪した 『力の神』 インドラに激憤し、戦いを挑みます。しかし 『力の神』 を相手に苦戦を強いられます。インドラ軍もある戦いで苦戦し敗走を始めたのですが、途中で蟻の軍列を見つけ、殺生をさけたいと“慈悲の心”から軍頭をひるがえし、敗走路を逆走したのです。それを見たアシュラ軍は驚き、最終的には戦いに敗れてしまいます。しかし怒りの収まらないアシュラはその後もたびたび戦いをしかけ、とうとうインドラに天界から追放されてしまうのです。

仏教では、“正義”をふりかざすばかり(と解釈された)のアシュラは、“慈悲の心”を持ったインドラに永く歯向かった後に悔い改め仏教に帰依したものとしての 『阿修羅』 とされました。

『阿修羅』 の由来も、やはりゾロアスター教のアフラマズダだと言われます。


仏教の中で 『毘虘舎那佛』 に発展した 『光明の神』 アフラマズダ
『阿修羅』 という悪の王へとおいやられたアフラマズダ

遮那王・義経とアフラが重なる思いがしました。


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