新しき国へ…
死して八百十余年、源義経は人々の心に幾度もよみがえってはまた繰り返し生を終えてゆく…、その終焉を知っている我々は、尚もまたその悲運の最期をこれでもかと繰り返し思い知らされるのです。
光明の中から生まれたアフラマズダ、その光明の神の名をもらった遮那王・義経は光の魂(たま)となり、新しき国へと天駆けていきましたね。
義経主従の魂(たましい)も、平家の魂も、そしてこの物語に新たに宿っていった魂も、あの光の珠のように昇華していったのでしょうか…。
『義経』 では残念ながら登場しませんが、平清盛の弟・経盛(つねもり)の三男、敦盛(あつもり)のお話が 『平家物語』 に登場します。 平敦盛は“無官の太夫”と称された美しい若武者で、祖父が鳥羽院より下賜された名器・小枝を譲り受け、錦の袋に入れ出陣していた笛の名手でもありました。 元暦元年(1184)二月七日未明、一の谷に本陣を置いた平家の軍を背後の険しい断崖から坂落としの急襲をかけた義経軍。 世に言う“鵯越え(ひよどりごえ)”の奇襲戦法です。 平家軍は潰乱され、あわてて舟で沖へと敗走しようと大混乱に陥ります。 源氏の武将・熊谷次郎直実(くまがえのじろうなおざね)は平家の名のある武将の首を取らんと波打ちに馬を走らせていると、平家の公達と思われる美しく立派に武装した者が一騎、海の中に分け入り舟に向かおうとしているのが見えました。 『あれはいかに よき大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ』 大将軍と思われるお方がよもや敵に後ろを見せるとは!戻られよ、熊谷は扇を掲げて招きます。 平家の武将は馬首を返し熊谷と一戦を交えますが、猛将の熊谷相手に抗うことも出来ず、組み伏されてしまいます。 熊谷は敵の首を取ろうと兜を脱がすと、薄化粧をしてお歯黒をしている、まだ自分の息子と年も変わらない美しく若い武将ではありませんか。 熊谷はこの若武者を助けようと思い名を尋ねますが、 『さては汝がためにはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取って人に問へ。見知らうずるぞ』 お前には良い敵だ。首を取って人に問え。見知る者もいるはずだ。といい、名乗ろうとはしません。 熊谷はこの武将らしい潔い姿に心を打たれ、この若武者一人を助けたところでこの戦に負ける事もあるまいと思い、振り向いて後方を見ると、すぐそこまで味方の土肥・梶原五十騎ほどが向かっているのが見えます。 熊谷は涙をおさえて申し上げました。 お助け申したいとは存じますが、味方の軍兵は雲か霞のごとく大勢おります。とてもお逃げになれますまい。他の者の手に掛けさせ申すよりも、同じことならばこの直実の手で討ち申し上げ、後の供養をもいたしましょう。 そう申し上げたところ 『ただ何様にも、とくとく首を取れ』 ただ早く首を取れ、とこの若武者は言われるだけでした。 熊谷はあまりに可愛そうで、どこに刀を突いたらよいとも分からず、目の前が暗くなり心も消え果てて前後不覚になりそうになりましたが、このままでいることも出来ずに、泣く泣く首を落としてしまいました。 『あはれ、弓矢取る身ほどくちをしかりけることはなし。武芸の家に生まれずは、何しにただ今かかる憂き目をばみるべき。なさけなうも討ちたてまつたるものかな』 ああ、武士の身分ほど情けないものはない。武芸の家に生まれなければ、どうしてこのようなつらい目をみることがあろうか。情けなくも討ち申したものよ。 熊谷はそういうとくどくどと嘆き悲しみ、袖に顔を押したてて、さめざめと泣きました。 熊谷はこの若武者の首級を包み申上げようと思い、鎧や直垂を解いてみると、若武者は錦の袋に入った笛を腰に携えていました。 『あないとほし。この暁城の内にて、管弦したまひつるは、この人々にておはしけり。』 ああ、なんと哀れな。この夜明けに一の谷の敵陣にて管弦を奏でられていたのは、この方たちだったのか。味方の東軍は何万の軍勢がいるが、戦の陣に笛を携えるものなどよもや居はしない。高貴な方々はやはり情趣があるものだ、と涙しました。 その笛を義経のもとに持参しことの次第を話したところ、その場にいた源氏の武将達も皆涙を流しました。 熊谷は後に、その若武者が修理の太夫・平経盛の子、平敦盛だという事を聞き及びます。 それにより、出家を決意するのです。 『平家物語』 は特定の人が創作したものではなく、記録や見聞談に基づく語りが、多くの人によって増補されたものだと考えられています。 ですから、この 『敦盛の最期』 も後の脚色によるものだと言われているのです。 熊谷の出家も一の谷の戦いの後ではなくその何年か後のことで、別の理由によるものだといいます。 熊谷直実が平敦盛を討ったことが事実であるならば、後の人々の無常を哀れむ心が、この物語を創らせたのでしょう。 宝暦元年(一七五一)に初演された 『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』 は平家物語の熊谷直実と平敦盛の話しに題材を得た狂言で、この中では、熊谷は泣く泣く自分の息子の首を取り、敦盛の身代わりとして差し出すという内容になっています。 敦盛が無官だったのは、実は後白河法皇が藤の方との間にもうけたお子であるためで、よもや天皇となられる事もあるかも知れないお方を手にかけるような所業は出来ぬと。 義経は 『一枝を切らば、一指を切るべし』 という謎かけをして、それを熊谷が自分なりの解釈をした結果がこれであった、というお話です。 今でも歌舞伎の名作として伝えられています。 兵庫県神戸市にある一ノ谷町の近く、須磨浦公園の付近には“平敦盛塚”があるそうです。 また須磨寺には義経・弁慶、敦盛のゆかりの品や伝承が残り、またこの庭には 『敦盛の最期』 を現した“源平の庭”があり、いにしえの武士たちを偲ぶことが出来るそうです。 “アツモリソウ(敦盛草)”、“クマガイソウ(熊谷草)”と名づけられた可憐な花々もあります。その姿が武士が羽織った母衣(ほろ)に似ているので、この名がつけられたと言われています。 |
『義経』 の屋島の戦いで、那須与一宗高(宗隆)を今井翼さんが演じるのだそうですよ。 タッキー&翼の大河での競演は、『元禄繚乱』 で敵味方を演じて以来だそうで、NHKも(ジャニーズも)いろいろと頑張ってますね。 『平家物語』 から抄出すると… 讃岐屋島(高松市)に拠っていた平家軍を義経軍は襲いましたが、勝敗はつかず夕暮れになりました。すると沖のほうから一艘の小船が漕ぎ寄り、竿の先に扇を立てて、若い美しい女性が陸の源氏軍に向かって手招きをします。 源氏軍はこの扇を射落とせということだろうと見て、弓の名手として名を馳せている那須与一宗高を差し向けます。 一一八五年の二月十八日の夕刻、馬上の那須与一は波の中に分け入りいざ射止めんと臨みますが、激しい北風で波も高く、小船は波に揺れて竿の先の扇もひらひらと揺れ動きなかなか定まりません。沖では一面に舟を浮かべて平家が、陸では馬のくつわを並べて源氏がじっとその様子を窺います。 与一はそっと目を瞑り 『南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮・那須の湯泉大明神、願はくはあの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(ふたたびおもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外(はづ)させたまふな』 と心の中で祈念して、目を開いてみると、風も少し弱まり、扇も射やすそうになりました。 与一は鏑矢(かぷらや)を取り弓に番え、射放ちます。 小柄な体にも関わらず、その矢は十二束三伏(※じゅうにそくみつぶせ)で、弓は強く、浦に響き渡るほど長く弓が鳴り、ぴたりと扇の要(かなめ)ぎわ一寸ほどのところに命中しました。 鏑矢は海に沈み、扇は空へ舞い上がります。 しばしの間、宙を待っていましたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散りました。 夕日の輝く中で、前面が紅(くれない)色で黄金の日輪を描いている扇が、白波の上に漂い浮き沈みして揺られているのを見て、沖の平家は船端をたたいて感嘆し、陸の源氏は箙(※えびら)をたたいてどよめきはやしたてたのです。 十二束三伏の矢とは、が12個分と指3本分の長さのある矢のことです。 普通は十二束、が12個なのだそうです。 箙(えびら)とは矢を入れて背に負う武具のことです。 それにしても、先刻まで互いに命を賭して戦っていたもの同士が、暇にこのように余興に興ずるその余裕というか、遊び心というか、なかなか粋ではありませんか。 『義経』 では、その小船に乗り扇を射よと手招きする女性の役は、義経との関わりのとても深い人物になっています。 “美しく着飾っている十八、九の女性”と 『平家物語』 では語っています。 さて、どの女人なのでしょうか? “大河ドラマ・ストーリー【後編】”を購入済みの方はモチロンご存知のはず♪ 三浦の海岸でロケに挑んだ今井翼さん演じる那須与一、どんな射手ぶりを見せてくれますか。 8月14日放送予定の第32話に登場します。 この名場面が今から楽しみです。 |
善神=アフラ 悪神=ダエーワ ◆インド・ヒンドゥー教◆ 善神=デーヴァ 悪神=アシュラ |