本当に久々にこのカテゴリーで記事を書いています。
昨年一年は、日曜の夜のために週を過ごしていたと言っても良いぐらいでした。
もともと普段からテレビドラマを観ることがそんなにない自分にとって、吉高由里子さんはCMの人という印象しかなく、あの紫式部をどのように描き演じるのかと様子見的な心持ちで観始めた『光る君へ』でした。
最終話を観終わってみれば、テレビドラマとして可能な限り史実や風俗を織り交ぜ、音楽や漢詩、文学、花鳥風月などを幾重にも幾重にもエピソードの中に包み込み、その構成のレベルの高さに感嘆するばかりでした。
第一話でリムスキーコルサコフのシェヘラザードの曲をイメージする曲が流れ、最終話ではまひろ(藤式部/紫式部)が千夜一夜物語のごとく道長のためだけの物語を語る…。
シェヘラザードは自分の命を長らえるために毎晩王に物語を語って聞かせた。
まひろは道長の消えゆく命を長らえようと、あくる日もあくる日も物語を語りました。
ラストの場面でも流れていた曲は、ベートーベンのテンペストをイメージした曲。
そして、まひろの「嵐が来るわ」の言葉。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だ!と思う曲もありましたね。
私個人としてはエリック・カルメンのオールバイマイセルフが先に頭に浮かびましたが(笑)
心に残る場面は沢山あります。
そしてそこには必ず素晴らしい音楽がありました。
清少納言が定子のために枕草子を綴り始める場面。
夏は夜…を書く場面も本当に感動的で美しかったです。
ビオラの旋律もことのほか美しかった。
また、個人的には石山寺での逢瀬、道長の望月の歌の場面で流れた曲は一番心に染み入りました。
メインテーマのスローバージョンで、弦楽器の織りなす旋律が哀しいほどに美しく、開催されたドラマ楽曲のコンサートの東京シンフォニー交響楽団の演奏を録画で聴くと、望月の歌を詠んだ後に振り向く道長の寂寥とした笑顔が思い浮かばれて、胸が苦しくなるほどでした。
源氏物語とリンクした場面や、清少納言が枕草子を、まひろが源氏物語の冒頭を書き始めるシーンなども、実に感慨深いものでした。
ああ!日本史も漢詩も古文も、もっとちゃんと学んでおけばよかった…。
『光る君へ』は今までの大河で二番目に古い時代のもので、一番古いものは(私の大好きな)『風と雲と虹と』だとか。
あとには『炎立つ』『平清盛』『義経』『鎌倉殿の13人』と、時代は重なりつつ時代が続きます。
何度か言ったことがあるかも知れませんが、『平清盛』はもっと評価されるべき作品。
でも再評価されつつあるようですね。
平安時代の物語である『光る君へ』のお陰で、引き合いに出されることも再考される機会も増えたようです。
嬉しいことです。
『義経』の時にも書きましたが…。
実在しない創作の人物、史実と異なる人間像・人生であっても、私はそこには魂が宿るように感じています。
藤原道長と紫式部がどういう関係性であったのか。
妾であったのか召人だったのか、ただのスポンサーと作家の関係だったのか。
本当のところは誰にも分かりませんが、この物語での哀しいまでの二人が、登場した人物たちの魂がどうぞ安らかにと、光り輝くところへと昇華して欲しいと願わずにはいられないのです。
道長が命を終えようとしている時に、まひろは道長のためだけの物語を語りました。
三郎のアナザーストーリーは、身分も状況も現実とは異なるもの。
まひろは道長の心にあった直秀たちへの後悔と自責の念を慮り、彼らを生かした物語にして、あの頃と同じ少女(まひろ)との出会いを盛り込み、飛び立った鳥(失っていったもの)がその手に戻ってくるという、死にゆく三郎(道長)のために違う人生を物語にし語り聞かせ、心を癒してあげていました。
脚本家の方はインタビューで「来世で一緒になって欲しいと願い、お線香を焚きながら二人の別れを書きました」と仰っておられましたが、何か心が救われた気持ちになりました。
本当に良いドラマでした。
また、『光る君へ』は源氏の物語を創作した紫式部(藤原為時の娘)やその家族、藤原道長・内裏の人々を描いた大石静氏による『藤原の物語』でもあったなと思います。
大勢の藤原の人々がおかげさまで随分判別できるようになりました(笑)
百人一首も今読むと、これはあの人だ!と演者さんたちの顔が浮かんできます。
私の心にひとひらの感動を残してくれた、素敵な物語でした。
■追記■
冒頭の画像は撮影で使用されたまひろの草履です。
次の大河も楽しみです!
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