17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

食べる紙

2025-02-17 10:58:53 | 思い出
と言っても、紙を食べるヤギの話ではない。
食べるのは人間だ(笑)。

今年は昭和100年になるのか。
テレビで言ってった。

昔、明治100年ってのがあって、記念切手も出てた。
昭和100年の記念切手も出るのだろうか(大正100年って、いつだった?)。

その明治100年の少し前、昭和30年代終わりから、40年代はじめ、私の幼少期にあったもので、今、ネットで検索しても出てこない物、出来ればもう一度見てみたいものが3つある。

その一つが、駄菓子屋で売ってた、「食べる紙」。

白い紙の上に、赤だか黄色だかの食紅(?)で絵が描かれていて、その紙を小さくちぎって口に入れる。

すると、ニッキだかハッカだかの少しつ~んとした、辛いような甘い味がほんのり口に中に広がる・・・幼かった純真無垢の思い出が・・・

な~んていうほどの情緒ゆかしき上品なものではない。塗ってあったものは何かあやしいどぎつい色をした食材だ。味もしかり。子供はそれを口のなかでさんざんくちゃくちゃやって、その高級とは言い難い味がなくなるまでしゃぶり尽くす。そして、もうなんの味もしなくなったら、そのくちゃくちゃになった紙片を、ぺっと地面に吐き出すのだ。絵は消えている。

昔の広場(というより空き地、公園なんてない)は、こんなんだからさぞ汚かったろう。

でも、あちこちでやっていた道路工事、無造作に置きっぱなしされたドラム缶、マンガに出てくるコンクリートの大きな土管(土じゃないけど)、使われなくなった木の電柱とか、雑草と土とあい混ざって許されて光景だったのだろう。

その食べる紙なんだが、意外と知っている人がいない。大人、40代後半になってから、同世代の人に聞いてみたが知っている人がいない。ばあちゃんが死んだとき、何十年ぶりかにうちに来てくれた同い年の従弟に、そのことを聞いてみたが覚えていない。いつも一緒に遊んでいたのに。また、ばあちゃんのところに来てくれていたヘルパーさんのお母さんが、その方が小学生のとき駄菓子屋をやっていたというので、聞いてみたが、知らないとのことだった。

教育的・環境的によくない(それはないか)とか、チクロ・サッカリンの時代だ、塗られていたものに健康被害をもたらすようなものが含まれていたとか衛生面での問題で、すぐ発売禁止になったのかもしれない。

多分、大人になった私が思っていたより、売られていた期間はずっと短かったのだろう。

どんな絵が描かれていたのだろうか? まったく記憶にない。
駄菓子屋も小学校の中高学年になると足が遠のいていたし、食べる紙も口することはもうなかった。

あとの2つは、いずれまた。

写真は、1958年(昭和33年)の5月にじいさんが撮った裏の空き地(他で既出だが)。大正時代の絵葉書か?(笑 持ってないけど)

上の話の少し前で、まだ牧歌的で、高度経済成長の波にうす汚れる前のものか。ここに一時期、街の工事現場に集まった人たちが出入りするプレハブなんかが建ったりもしたが、それも上に書いたような次の時代の1つの風景だったのか。でも、この時の子供も、きっと”ぺっ”ってしていただろ(笑)。



2 119番

2025-02-14 12:34:47 | 介護
2006年4月21日(金)、授業を終えて早々に職場を出て、また自転車をこぐこと30分、家に着いた。

もしかしたら、という私のかすかな希望とは逆に、ばあちゃん(母親)は、家を出たときより、さらにぐったりしていた。前回書いたように、帰ってくる時どうするか考えていて、よくなっていなかったら119番しようと私の中では決めていた。じいさん(父親)は、相変わらずリクライニングの椅子でぐったりしていた。じいさんに、119番することを告げると、病院に連れて行くにも方法がないので、それでいいと。

119番。

「火事ですか救急ですか」と言われたかどうか、覚えていない。私にとって、その後、何度もお世話になる初めての119番だった。

母が具合が悪くなったので、とだけ言ったら、すぐ救急車をよこすと言ってくれた。理由は聞かれなかった。

すぐに電話があり、救急車からで、サイレンの音がものものしく受話器から聞えてきた。病人の容態をきかれる。足が痛くて歩けないと伝えた。年齢など聞かれたかもしれないが、その時、ばあちゃんの歳とか生年月日、知らなかったかも。

“せいぶ”救急です、と言ったので、西武でやっている民間の救急車かと思った。有料? 来てみて“西部救急”で消防署の救急車だとわかった(この後知るようになるのだが、救急車っていろんなところから来てくれるんだね)。

救急隊員の方が3名ほど家の中に入り、いろいろばあちゃんの容態をみたり、こちらも、ここ2~3日の出来事を話したのだが、どうも病気じゃないのではないか、という言い方をする。

一番偉そうな人が、脚をさわって痛いかどうか確かめたり(ばあちゃんもこういう時は、そう答えるからなあ(苦笑)、本当に痛くなかったかもしれないが)、腕に力が入るかどうか確かめたが、異常はないという。力が全体的に弱そうなので、栄養がたりてないのではないか、ちゃんと食事させているか、のようなことを言う。栄養失調だろう、はては老人虐待とてでも言いたげな感じだ。

こちらとしては、ここ2~3日の異状な状態からそうは思えないので、このときの救急隊員の方の応対にはちょっと不愉快な印象をもった。また、朝、便所で倒れていた時なぜ、119番しなかったのか、どうして、仕事から帰ってきから電話したのかなどきかれ、何とも返答しようがなかった。こんなのに救急車を呼ぶな、自分で病院に連れていけ、という印象を受けた。

これは病院に連れて行ってくれない? 自分でやるしかないのか? という不安も私の中で少しかすめていた。

それでも、救急車をだしてくれるこになった。隊員の一人の方が、じいさんに、「お父さんも、具合悪そうだし、大変だね。」と声掛けしてくれる。ばあちゃんの身の回りのものを簡単にまとめて、救急車に乗り込む(初めての体験、狭い)。この時は、わが家の玄関までの通路が狭く、ばあちゃんは担架に乗せられ庭からで出たんだったか?

サイレンの音に気付いた近所の人たちが何人かこちらを見ていた。

これで案外すぐ出るのではなくて、行く先の病院とやり取りしているらしい。個室しかあいていない、それでもいいか、と聞かれた。いいですとしか言いようがない。この時は、目の前に横になっているばあちゃんのことを思うより、自分がどうなっていくのか、不安は不安なんだが、ちょっと何かが違うという、先が見えない、ぼーっとした感じだった。


19年たって、今思うことだが、なぜすぐ119番しなかったのか。脳梗塞だったら 何時間以内に適切な処置をすれば助かる、逆にそれを超えると危ないとかいうが、そんなことは知らなかったと思う。知らなくてもすぐ通報しなけりゃダメだろう。

実は、この3年後、脳梗塞と思われる事例に2度遭遇するのだが、その時は、脳梗塞じゃないのかと思いすぐ救急車を呼んだ。それぐらいのことは私もしている。

でも、それでも、後で書くことだが、この少し前にいろいろあったことも関係して、緊急は緊急だが、脳梗塞のような緊急性を要する病気でもないかなあ、という迷いがあった。でも、なんかおかしい。それで当時すでに言われていたであろう、安易に救急を利用するな、という思いもあって、119番に躊躇していた。全くの素人考えだが・・・要するに大事(119番)は少しでも後回し(どん が起こるまでは)に、ってことだね。

また、動けない年寄りを病院に連れいくということが、どういうことなのか、わからなかった。全く初めてのことだ。

どやって? うちにはクルマがない。後で知ったが介護タクシーなんてあることも知らなかった。7119も知らない。

また、病院に救急外来と一般外来があることも知らなかった。これも後で、知ることになるのだが、動けなくなったじいさんを介護タクシーで病院に連れ行ったら、救急では受け付けてもらえず、一般外来扱いで、えらい大変なことになった。


どこに連れていかれるのかわからなっかたが、進行方向を見ているとすぐに近所の病院だとわかった。着くと救急隊員の方が、まず受付で手続きをしてくれという。これがわからない。私がこの病院に入るのは子供時以来何十年ぶりだ。当然建物も違う、とこが入り口なのか、警備員の人にきかないとわからなかった。ようやく受付で聞いてみると、救急の場合、受付はしなくていいとのこと。う~~、といった感じ。

ちなみに、この病院で母方の祖父(ばあちゃんの父親)が死んでいるんだが、私は入院中一度も見舞いに行かなったというじいさん不幸者だった(苦笑)。

救急の入り口の所で待っていてくれというので、そこの長椅子に座り、ちょっと待たされる。この長椅子もこの後、何度もお世話になる。

少し呼ばれて、医者に容態をきかれるが、印象は救急隊員と同じ。脳梗塞などの簡単な検査はしたのだろう。どこも悪くないようだ、あとはCTかと、と言う。一通りのことを話し終わると、また、外で待っていろと。もしかして何でもないのかも、ここでダメならと少し不安になる。

外でまた待っていると中から聞えてくる。どうやら立たせた状態を見ているらしい。それで、ようやく、どうも様子がおかしいと、流れが変わったのが外に居ても分かった。

ばあちゃんがトレイに載せられて検査に連れて行かれた後だっと思うが、さっきの偉いさんではない救急隊員の方が帰ると言いに来たので、外に出て礼をいう。救急隊の方にも伝わっていたのか、その時はもうぞんざい態度ではなかった。

実は、この後、検査で病名がわかるんだが、救急隊員でも一応症状など知っていなきゃいけない病気なんじゃないかと思う(医者でも即断はしなかったが)。年寄り(とは限らないが)には、ありがちな病気のようだ。急性じゃいが、ほっておいたら命にかかわる病気だ。栄養失調はわかっても、素人じゃわかんないと思う。最近、たまに耳にするが、私は、その時が初めて聞く病名だった。しかも一度で何を言っているのかわからず紙に書いてもらった(笑)。

まあ、この後、17年間、ええ!? そんなこと素人には無理でしょう、ということが結構あった。まあ、十数年も前の事だから、その辺の素人への対応は今とは違うだろうが。広い意味での教育、情報伝達の問題だね。


救急車というと、昔、赤痢が流行ったことを思い出す。小学校でも、どこのクラスでも何人かかかり、入院した。その子たちにお見舞いに絵描いて送ろうと言うことになった。なかなか何を描いたらいいか浮かばない。病気ということで、私たちのグループは救急車の絵を描くことした。上手く画けたと思った。ところが担任の岩本先生に大目玉をくらった(笑)。病気で大変な思いをしている人たちに対して何だ、という事だったらしい。今だったら、どうなのか? 今でもそうか? ほかのグループの描いた絵を見て、子供心にもうまいこと描くもんだなあと思ったが。

写真は、この3週間前の3月30日。下から雑草が生えてきたのが面白く、撮ってみた。この時は、全く分からなかったが、すでに兆候はあったんだなあ。






秩父の武甲山、東京から見えんの?

2025-02-10 17:39:15 | 古い写真
フェイスブックへの投稿は無期限休業中なのだが、たまに覗いてみる。

今日見たら、昔の武甲山、まだ頂上付近はもちろん、上の方が全く削られていない写真がアップされていた。

びっくり!

初めてみた。撮っている人は撮ってるもんだ。半世紀以上は前のものらしい。

山になんか全く興味がなかった子供のころ、じいさんから、「あれ、武甲山っていうんだよ」ってきいて、武甲山という名前だけは知っていた。それはうちのすぐ前の原っぱから見える山並みの一番北側に見える最後の山の出っ張りだった。

ああ、あれが武甲山なんだな、と疑ってみたこともなかった。

でも、今思うと武甲山、秩父の山がうちから見えるんだろうか?

例えば、東京から筑波山が見えると言われたら、そうだと思うだろう。だった広い関東平野、北東の方には高い所は筑波山しかないのだから。ちょっと小高いところからそっちに見えるのはみんな筑波山だ(笑)。

でも、武甲山までは、手前に奥武蔵の山々が結構あるぞ。武川岳、伊豆ケ岳、根ノ権現、飯能まできて天覧山(ここだけ登ったことがない)とか。それらが邪魔して見えないのでは。

真西に、大岳を中心に、奥多摩の山並みが左右に滑らかに連なっている。ほとんど、知っている山、登ったことがある山ばかりだ。 でも、ここ、東京都の北側の真ん中から武甲山が本当に見えるんだろうか?

地図を見ると、武甲山は標高が結構高く(1304m)、案外奥武蔵の他の山々は低い。それに丁度、武甲山から谷沿いに南東方向がうちの当たりなので、邪魔しているものがあまりない。ひょっとしたら見えるのかもと・・・

それでじいさんが撮った写真で探してみたのだが、1枚だけそれらしきものがあった。かなりわかりずらいが真正面の出っ張り、だと思う。1961年9月に撮られたもの。はたして、これは武甲山だったのだろうか? 形は南東から見てもそれらしいが(形が変わっていってるとか言っていたが、こちら側は削られていないので同じだろう)・・・


今、ここは住宅地になり、その先も団地やらマンションやらで、ここから見える山々はもうない。



1 どん から始まる

2025-02-07 09:20:15 | 介護
2006.04.21(金)
明け方、目が覚めてしまったので、教材作りを始める。すると、下で(私はその時、2階の自室にいた)ばあちゃん(母親)が起き出したてきたのが音でわかった。

ちょっとたって、どん、という少し大きな音が。

う・うん(?)と思ったが、それがすぐには自分の次の行動にはつながらなかった。5分ぐらいたってから、何かあったかとようやく気になり階段の上から下の様子を覗き込んでみてみた。上からはわからい。

下に降りるとトイレのドアが開いていて、便器の前に、ばあちゃんが倒れていた。

不思議と、大変なことが起こったとは思わなかった。また、足が痛くて(このころ足が痛くなることが多かった)て立てなくなったか。顔を近づけて、気分はどうかと、聞いてみると、気分は大丈夫だという。でも、寝言でも言うように、おしっこがしたい、おしっこがしたい、と。

寝たままされたら・・・

とにかく、小便をさせなければと、起すことを考えた。確か右肩を下にしてくの字に横になっていた。1回試してみた。どうやってやればいいんだ? 1人では出来そうにない。

もうかなり前、雪でスリップしたのか、転倒したスクーターを運転手ごと起こしたことがあった。若い人だったが、私のやり方が強引だったせいか、痛い痛いと言っていた(苦笑)。自分もまだ若く、力があったんだなあ。今、あんなことしたら、確実に腰を痛める。ぎっくり腰も経験しているし。その場所が、後に、じいさんでお世話になる訪問看護ステーションの前だった。なにかの縁だったのか?

それで、じいさん(父親)に助けをかりよと、じいさんが寝ている和室に行く。この時はじいさんも具合がわるく肩が痛くて、リクライニング椅子を持ち込んでその上に寝ていた。そのじいさんをおこそうとすると、さらに具合が悪くなっていてとても手伝えないと言う。確かに。

これは1人でやるしかないと覚悟して、母のところに戻った。狭いトイレでじいさん呼んで2人になってもやりようがなかった訳だが。

小さい母だと思っていたが、起すのは大変だった。狭いところに足を入れて、なんとか背中から抱えて起す。それから向きを私の方に変えて、取り敢えず便器に座らせた。しかし、ズボンがぬげない。尻が便座にはまっているからだ。

ばあちゃん自身が自分では何もできない。後から思えばだが、その時は、完全に全身の力が抜けている状態だった。

また、抱えて直して少し身体をもちあげ、片手でなんとかズボンをぬがせた。こんどはパンツで、そのつど腰をおろしてしまうので、なかなか小便ができない。同じ要領で、なんとかパンツがおりて、やっと小便をすます。次はパンツとズボンを上げなければならない。それも大変だったが、なんとかやって、和室に連れて行き、じいさんの椅子の脇にまだ引いてあった布団に寝かせた。

大変は、大変だったが、そんなに疲れたという印象はない。

母親にこんなことするのは、初めてだ。やらなければいけなことを、やった、というだけで時間が過ぎた。その時は、十何年か後、これが日常的になるなんてまったく思いもよらなかった。

この時、ばあちゃんがどう思ったかなんて、その時も、今もわからない。

この時は、不思議とすぐにでも、救急車をよんで、医者にみせなければ、とは思わなかった。自分も少し寝たくなったので、何かあったときのために明かりをつけながら横になった。

7時ちょっとすぎに起きて下に降りていく。じいさんも起きていたが具合がひどくわそうだった。ここで、どうしたものかと思う。とにかく仕事(そのころ私は、隣の市にある専門学校で非常勤講師をしていた)に行って、きょうは2限までなので、昼までには帰れる、それからまた様子をみてもいいのではと。それで、まずは朝食をとることにした。

ばあちゃんは、きのうあたりからまた足が痛いと言い出し、その他、ちょっとふらふらしていたので、軽い脳梗塞でも起きているのかもと、じいさんと話していたことを思い出していた。このときすぐに119番してもよかったのだが、でも何日か前みたいに休めば足の具合いはよくなるのではないか、希望的なことが頭に浮かんできていた。

正直、仕事を休むのも、代わりの教師(そのころ、その学校である教科を1人で担当していた)がいない今は休みにくいな、授業が終わってからでも、なんとかなる。

面倒なことは、少しでも後回しにしたい。

じいさんにはばあちゃんをトイレに連れていくことが出来ない(この時は、もちろんパッドもリハビリパンツもうちでは誰も知らなかった)ので、私が出るまえにもう一度ばあちゃんをトイレに連れていった。倒れていたときと同じように、便座に座らせ、ズボンやパンツをおろし、用をさせて、また、布団にもどすのはとても大変(一度目より大変だった)で、時間ぎりぎりになってしまった。

職場までは、自転車で、30分ほど。往きは、何を考えていたか全く覚えていない。

学校では生徒を背にして黒板に書いているとき、どうすっか、と思ったことを覚えている。

授業が終わると早々に学校を出て家へ向かった。この時、他の方にこの有り様を話すこともなかった。

自転車をこぎながら、よくなっていなかったら119番しようと決めた。

これが本編の始まり、1回目。もう19年前のことなので細かいことはほとんど忘れている。でも、この日のことは、数日あとににメモ帳とは別にワープロで文書にしてあった。ただそれだと起こったことを淡々と書いてあるだけなので、ちょっと臨場感を持たせるために、盛っているところもある。

今思えば、あの「どん」という音がすべての始まりだった。

じいさん(84歳)、ばあちゃん(81歳)、まあ、歳なりにあっちが痛い、こっちが痛い、物忘れがひどい、となってはきていたが、この時まで、私が2人の生活に口を出すことは全くなかったし、手を貸すこともほとんどなかった。3人だけの家族でそこそこやれていた(じいさんの正体が知れて、その優柔不断性、決断力のなさにようやく気付いづいてあきれてはいたが(笑))。

でも、それがここで途切れた。
これがこの家のことで私が決めていく初めてのことだった(まだすべてじゃないけど)。

写真は、この約2か月前の2月。カメラ雑誌の写真コンテストではじめて予選通過で名前だけ載ったときのもの。思えばあの頃あったカメラ雑誌はみんな休刊、廃刊で、今、書店の棚に見ることはなくなってしまった。

ばあちゃん、気持ちよさそうに寝ているなあ~。





八潮市って、あの八潮市?

2025-02-03 10:22:46 | 日記
私はあの八潮とは縁もゆかりもない(多分)東京の片田舎に住んでいる。

共通しているのは、あって欲しくない事件、事故でもないと全国区(死語か?)に名前が出ることが無いことぐらいだ。その事件、事故がたまにあるのだが・・・

出不精で、ほとんど旅行など行ったことのない私がその八潮市に、3度行ったことがある。

人に話したことも何度か。

じいさん(父親)の出身地(出生地は桐生だったか?))なのだ。

去年、叔父夫婦のところに久しぶりにお邪魔したときに、八潮に行ったことを話したら、叔母さんが、「大瀬の半五郎」と口にした。この名前も何十年ぶりに聞いた。八潮ゆかりの侠客とのことだが、よくある「かなり遠い親戚」話だ(笑)。ネットで調べてみると八王子の生まれ説もあり驚いた。この叔父夫婦は八王子にずっと住んでいる。

それに、ここにきていつも読んでいる朝日新聞の「B」に「それぞれの最終楽章」という連載があり、今、書いている記者さんがご両親を入居させた施設が八潮市とのことだ。

ここまでは、まあ、どうでもいいことで、よく「八潮」、目にするなあ、ぐらいのことだった。ところが・・・

そう、道路の陥没事故って!

またしても八潮か。

先月28日。県道が陥没して2トントラックがその穴に落っこちた。

はじめは、穴もそれほどでもないし、トラックの運転手さんも話をしていたとのことなので、すぐ救い出せるだろうと思っていたが、、、

穴がもう一個できて、それがもとの穴とつながってと、どんどん大きくなって、いまだに救出できないとは。

この科学技術の時代に救い出せないなんて、嘘だろう。 ドローンとかないのか?

昔見た、ターザンだかに出てきた底なし沼を思い出す。子供には怖かった。コンバットにもあったか? あれの現代版か。

年末の韓国の飛行機事故といい、またしても国際救助隊がいてくれたらなあ、と。

一刻も早い救出を祈るのみ。


写真は、20年前の八潮の大曾根(じいさんの田舎)。この道をまっすぐ行くと、あの県道にでる。