17年間のボッチ自宅介護を振り返る

1人で自宅で認知症の母親を介護、その間、父親も6年間の介護のすえ、どちらも家で看取る。その17年間はなんだったのか? 

1 どん から始まる

2025-02-07 09:20:15 | 介護
2006.04.21(金)
明け方、目が覚めてしまったので、教材作りを始める。すると、下で(私はその時、2階の自室にいた)ばあちゃん(母親)が起き出したてきたのが音でわかった。

ちょっとたって、どん、という少し大きな音が。

う・うん(?)と思ったが、それがすぐには自分の次の行動にはつながらなかった。5分ぐらいたってから、何かあったかとようやく気になり階段の上から下の様子を覗き込んでみてみた。上からはわからい。

下に降りるとトイレのドアが開いていて、便器の前に、ばあちゃんが倒れていた。

不思議と、大変なことが起こったとは思わなかった。また、足が痛くて(このころ足が痛くなることが多かった)て立てなくなったか。顔を近づけて、気分はどうかと、聞いてみると、気分は大丈夫だという。でも、寝言でも言うように、おしっこがしたい、おしっこがしたい、と。

寝たままされたら・・・

とにかく、小便をさせなければと、起すことを考えた。確か右肩を下にしてくの字に横になっていた。1回試してみた。どうやってやればいいんだ? 1人では出来そうにない。

もうかなり前、雪でスリップしたのか、転倒したスクーターを運転手ごと起こしたことがあった。若い人だったが、私のやり方が強引だったせいか、痛い痛いと言っていた(苦笑)。自分もまだ若く、力があったんだなあ。今、あんなことしたら、確実に腰を痛める。ぎっくり腰も経験しているし。その場所が、後に、じいさんでお世話になる訪問看護ステーションの前だった。なにかの縁だったのか?

それで、じいさん(父親)に助けをかりよと、じいさんが寝ている和室に行く。この時はじいさんも具合がわるく肩が痛くて、リクライニング椅子を持ち込んでその上に寝ていた。そのじいさんをおこそうとすると、さらに具合が悪くなっていてとても手伝えないと言う。確かに。

これは1人でやるしかないと覚悟して、母のところに戻った。狭いトイレでじいさん呼んで2人になってもやりようがなかった訳だが。

小さい母だと思っていたが、起すのは大変だった。狭いところに足を入れて、なんとか背中から抱えて起す。それから向きを私の方に変えて、取り敢えず便器に座らせた。しかし、ズボンがぬげない。尻が便座にはまっているからだ。

ばあちゃん自身が自分では何もできない。後から思えばだが、その時は、完全に全身の力が抜けている状態だった。

また、抱えて直して少し身体をもちあげ、片手でなんとかズボンをぬがせた。こんどはパンツで、そのつど腰をおろしてしまうので、なかなか小便ができない。同じ要領で、なんとかパンツがおりて、やっと小便をすます。次はパンツとズボンを上げなければならない。それも大変だったが、なんとかやって、和室に連れて行き、じいさんの椅子の脇にまだ引いてあった布団に寝かせた。

大変は、大変だったが、そんなに疲れたという印象はない。

母親にこんなことするのは、初めてだ。やらなければいけなことを、やった、というだけで時間が過ぎた。その時は、十何年か後、これが日常的になるなんてまったく思いもよらなかった。

この時、ばあちゃんがどう思ったかなんて、その時も、今もわからない。

この時は、不思議とすぐにでも、救急車をよんで、医者にみせなければ、とは思わなかった。自分も少し寝たくなったので、何かあったときのために明かりをつけながら横になった。

7時ちょっとすぎに起きて下に降りていく。じいさんも起きていたが具合がひどくわそうだった。ここで、どうしたものかと思う。とにかく仕事(そのころ私は、隣の市にある専門学校で非常勤講師をしていた)に行って、きょうは2限までなので、昼までには帰れる、それからまた様子をみてもいいのではと。それで、まずは朝食をとることにした。

ばあちゃんは、きのうあたりからまた足が痛いと言い出し、その他、ちょっとふらふらしていたので、軽い脳梗塞でも起きているのかもと、じいさんと話していたことを思い出していた。このときすぐに119番してもよかったのだが、でも何日か前みたいに休めば足の具合いはよくなるのではないか、希望的なことが頭に浮かんできていた。

正直、仕事を休むのも、代わりの教師(そのころ、その学校である教科を1人で担当していた)がいない今は休みにくいな、授業が終わってからでも、なんとかなる。

面倒なことは、少しでも後回しにしたい。

じいさんにはばあちゃんをトイレに連れていくことが出来ない(この時は、もちろんパッドもリハビリパンツもうちでは誰も知らなかった)ので、私が出るまえにもう一度ばあちゃんをトイレに連れていった。倒れていたときと同じように、便座に座らせ、ズボンやパンツをおろし、用をさせて、また、布団にもどすのはとても大変(一度目より大変だった)で、時間ぎりぎりになってしまった。

職場までは、自転車で、30分ほど。往きは、何を考えていたか全く覚えていない。

学校では生徒を背にして黒板に書いているとき、どうすっか、と思ったことを覚えている。

授業が終わると早々に学校を出て家へ向かった。この時、他の方にこの有り様を話すこともなかった。

自転車をこぎながら、よくなっていなかったら119番しようと決めた。

これが本編の始まり、1回目。もう19年前のことなので細かいことはほとんど忘れている。でも、この日のことは、数日あとににメモ帳とは別にワープロで文書にしてあった。ただそれだと起こったことを淡々と書いてあるだけなので、ちょっと臨場感を持たせるために、盛っているところもある。

今思えば、あの「どん」という音がすべての始まりだった。

じいさん(84歳)、ばあちゃん(81歳)、まあ、歳なりにあっちが痛い、こっちが痛い、物忘れがひどい、となってはきていたが、この時まで、私が2人の生活に口を出すことは全くなかったし、手を貸すこともほとんどなかった。3人だけの家族でそこそこやれていた(じいさんの正体が知れて、その優柔不断性、決断力のなさにようやく気付いづいてあきれてはいたが(笑))。

でも、それがここで途切れた。
これがこの家のことで私が決めていく初めてのことだった(まだすべてじゃないけど)。

写真は、この約2か月前の2月。カメラ雑誌の写真コンテストではじめて予選通過で名前だけ載ったときのもの。思えばあの頃あったカメラ雑誌はみんな休刊、廃刊で、今、書店の棚に見ることはなくなってしまった。

ばあちゃん、気持ちよさそうに寝ているなあ~。