【其教記祖名記板文日巡畏多。綴穴摩損。茲紙面書写、又不誤様秘聞書加紙、言正伝為相似区分、後世戒為。】
神文の教えや、ユマニ代々の先祖の名前を記してある板文を傍らに置いて、毎日直接触って熟読するのは畏れ多い。また、板を綴じている穴も摩耗してきた。
そこで新たに紙面に書き写し、また今後誤って伝わらないように、秘聞を紙面に書き加え委細心得とタイトルを付けた。さらに神言葉の音声を正しく伝えるために似ている発音を区分して、後の世に正しく伝わるようにした。
※大先祖コヤネが頂いたタカミムツ大神(タチカラの珠)の教え。木の板に書かれた九百八十文字を紙面に移し替え、藤原内実は神文(かみぶみ)と表題をつけた。
※藤原内実は板に書かれていた神文を紙に書き写し、タイトルを「神文(かみふみ)」とつけた。口頭で伝えられて来た値成の秘聞やその後の主要な出来事を紙面に書き出した。更に、神文九百八十文字の正しい発声のテキストとして八十字の漢字・特殊文字を付け加えた。最後に神文を代々語り継いできた弓前値成までの先祖の名を書き写し、更に値成から四十代の内実まで伝えて来た代々の名も書き写した。
【茲今和諭。十八日月例祭於、板文衣包神前供、御祖教値成迄相伝祖名宣奉。今和継今和其分限不正伝神罰家滅。】
後の世のユマニに注意しておく。十八日の月例の祭りにおいては、板文を衣に包んで神前に供え、大先祖コヤネの教えと神文と値成まで伝わっている代々の神々のなを神前で唱えなさい。ユマニたるもの、次なるユマニの為にそのすべきこをを正しく伝えることができなければ神罰が下って我がユマニ一族は滅びてしまうだろう。
【今和長旅際神文写、社左若常木葉供、麻緒包之帯則、垂力諸々御名身包、魔物恐近不能。帰則無事謝、晦神文灰流失。】
ユマニが長旅することがあるならば、神文を写して、神社の左にある常盤の若木のはを添えて依り代として、更に麻布と紐で包み懐中すれば、タチカラの珠の様々なお名前はユマニの身体を包み、魔物は恐れて近寄ることができない。
長旅から帰って来たならその無事を感謝し月末に燃やして灰にして流しなさい。
【世々今和日々神文巡、正音声御祖意自真伝。夫努。】
代々のユマニ達、日々神文を熟読し、正しい発音で唱えれば先祖の思いは自然と分かってくる。さあ、励みなさい。
【親緒巌移晴゜和穂゜火゜子放゜保充 雷゜育微少座沼゜活覆 渡威狩母因垂舞虚 背積鋭根成躍醸 美浮囲延大崇奇哈゛因゛真増 異食震゜堅凝屠愛重与 天会爽陜岐貴刻結芽現実静 辺日霊゜飯基萌瀬澄 津乃奈唵集゛】
※いろは順に並んでいる。
※次のぺージには上下の区別なく、神文本文と同じ大きさの漢字が一ページ三行に、二ページにわたって書き込まれ、少し間をあけて「弓前値成」の四字がぎりぎりいっぱいでぺージを埋め終わっていた。
※次のぺージ頭書は「以上神代より世々神の言葉を言い伝えし代々の尊名なれば、神文ともにすべて諳んずべきものなり」と書かれであった。続いて二ページにわたり、最初は「弓前値成」、右肩に「初代」と記され、以下十名ずつ四行にわたって名前が記載されてあったが、一行目の最後は、今尾の某、今人の某、二行目の冒頭は藤原の某、以下は名前のみ。四行目は九名、全部で三十九名の名前が記載され、余白には「以上は三十九代までの受継者の尊名、遺漏なく板文より書き換え候也天授○年○月○日今藤原内実」。(天授は南朝の年号(1375~1381)
※次のぺージは、冒頭「内実」と自署し、右肩に小さく「四十代」と記入し、以下一行十名、各々名前を自署したもののごとく、書体はすべて変わっていた。代々のユマニが自署したものだろう。二行目も同様であるが八名のみで余白を残していた。以下空白のぺージは数ページあったようである。
※第67代ユマニの池田秀穂は「弥生の言葉と思想が伝承された家」で次のように語っている。
私はいま、まず神文を公開し、さらに「ユマニは他言すべからず」の秘聞まで公開してしまった。ユマニの守るべき掟はすべて破ってしまった。当然神罰あるだろう。わが家滅ぶべし。すでに代々伝えて来た品々は先の大戦で地上から消えてしまった。近いうちに私も地上から消えてしまう。すべて覚悟の上。これも御祖コヤネの大御心と理解している。
※池田秀穂の覚悟を受け取りたいと思う。
弓前文書(ゆまもんじょ)とは、倭人の神官 が口伝で伝えてきたものを七世紀初頭(610年頃)、弓前値成(ゆま あてな)が変形体も使った漢字で書き表した「神文(かみふみ)」、及び、神文を秘文にすることや歴史を書いた漢文の「委細心得(いさいこころえ)」の二つの文書を指す。
弓前文書原文の神文は、縦四十五センチ×横十八センチ×厚さ三ミリ~五ミリの木板七枚に、それぞれ一行十字、上下二段十四行にわたって、隙間なく書き込まれた漢字(変体形を含む)九八〇字である。
代々の神官のみが受け継ぐ秘文とされ、第67代弓前和(ゆまに)池田秀穂により、解読、公開された。また、神文に書かれた文字を「弓前仮名漢字」と名付けた。
本書で使う文字は、「弓前仮名漢字の特殊文字をパソコン等で簡単に書けるように簡易化した文字」、ユマ仮名(簡易型の弓前漢字仮名)を使用します。私も含め誰もが研究を容易に行えるようにと願って作成しました。
神文の内容は、四章に分かれ、各章はさらに四つの節に分かれます。
行番号は、千の位は章を、百の位は節を表し、最後の二けたは行数を表し、行数が00の場合は、章題または節題を表すようにしました。
弓前文書全文の訳があるのは、「弥生の言葉と思想が伝承された家」池田秀穂口述のみですが、手に入れるのは困難です。販売していません。一般の人が読むことが出来るとしたら、大阪大学や神戸大学の図書館から借りることです。
そこで、解説にあたって、①には「弥生の言葉と思想が伝承された家」の現代語訳を、出来るだけそのまま記載することにしました。
神文と言う以上、神道の基ですが、あくまで倭人語の研究として臨んでいます。また、古事記と対応する神々の名も書いておきました。
弓前文書神文の全文です。ローマ字もカタカナも無くても読めるようになったら読んでください。ユマ仮名(簡易型弓前漢字仮名)で書いてあります。
1000天真津威醸移現育晴゜積延
1001天真津厳真澄晴゜活沼゜
1002天真延真成威沼゜雷゜
1100大天真晴゜積芽
1101威実醸積霊゜
1102垂威実醸積霊゜
1103美萌増育晴゜積威日凝火゜雷゛
1104天真津垂結奇基震゜活延
1105天真延陜積゛育
1106天真延保堅垂゛雷゜
1107天真乃奇延陜゛育゛
1108天真乃充凝雷゛
1200大日芽会威醸
1201天真延陜貴座
1202天真乃延積゛雷゜
1203天真津大保延辺゛
1204天真乃覆凝垂゛雷゜
1205天真津震゜積沼゜
1206天真乃日凝根
1207天真津日成威垂
1208天真乃火゜会威座
1300大成積凝充醸
1301大保乃辺
1302火゜充延雷゛
1303澄日雷゛凝
1304浮日雷゛凝
1305日奇哈囲
1306積沼゜哈囲
1307因゛増積集゛現
1308渡垂積浮現
1400大萌延日奇醸
1401会晴゜成現
1402会晴゜芽貴微
1403会穂゜微増
1404霊゜活子
1405会因゛奇育凝根
1406穂゜基垂゛活子
1407親陜因現
1408親陜成岐実
2000天真津威醸移現育美積延
2001天大日活芽醸雷゜育
2002天大成積醸育゛
2100天真積虚躍充因奇基因゛重活
2101天大与活成雷゜
2102会威与活成雷゜
2103日威活醸雷゜
2104震゜垂威活雷゜
2105霊゜凝雷
2106火゜威雷゜
2107霊゜凝
2108火゜微
2200天大芽積育醸成因゛凝充垂活
2201虚躍日威
2202震゜積津延
2203日成鋭
2204威哈゛育
2205澄成育
2206澄゛実育
2207萌延積育
2208厳渡積育
2300充因美積母萌延成垂増育活
2301延霊゜舞
2302晴゜萌狩
2303澄゛霊゜舞
2304澄哈成
2305垂霊゜舞
2306穂゜飯集゛
2307増霊゜舞
2308充実子
2400美醸積因成凝充萌延日奇活
2401奇育霊゜現
2402成穂゜真霊゜
2403爽育震゜現
2404垂活基霊゜
2405和貴実現
2406実醸津霊゜
2407会躍因現
2408日奇津霊゜
3000天真津威醸移現育保堅延
3001威醸移現
3002威醸移岐
3100現岐真晴゜活保堅因
3101会晴゜成現
3102会晴゜成因
3103会穂゜成現
3104会穂゜成岐
3105親陜成現
3106親陜成岐
3107親陜覆現
3108親陜成因゛
3200霊゜実増放゜活保堅集゛
3201結霊゜震゜実
3202因積醸成
3203因゛凝充垂
3204重萌増育
3205因集゛実放゜
3300晴゜積美積活保堅覆
3301垂威真晴゜活
3302厳基保穂゜津
3303緒沼゜延成澄
3304雷゜岐現日活
3305結霊゜震゜実虚
3306芽貴育因移
3307積醸奇凝充爽
3308因゛垂火゜萌増躍
3309重与根芽和静
3310異集゛放゜哈゛浮座
3311沼゜囲渡覆厳乃
3312保堅覆
3400充凝因゛醸美積因現哈゛放゜晴゜活
3401垂威真晴゜活因゛重爽霊゜
3402会晴゜成因現基保積因
3403垂増育震゜活美積成実
3404会穂゜成岐現美積移因
3405垂増育放゜活美積充実
3406親陜成岐現美積育因
3407垂増育爽活日奇津霊゜
3408親陜覆因゛現狩哈移因
4000天真津威醸移現育延座醸
4100晴゜積親陜成威醸移震゜延座醸
4101威醸会穂゜成
4102霊゜舞震゜因因゛
4103因゛垂因゛増垂
4104充因美積母
4105因゛萌因゛増重
4106親陜成震゜活
4107真晴゜舞霊゜舞
4108威醸移会晴゜
4200美積集゛哈゛狩威醸移晴゜延座醸
4201垂威真晴゜活
4202威醸移岐現結
4203親陜成岐因
4204美積集゛異哈゛真狩
4205震゜活奇育実虚結岐
4206晴゜躍放゜保乃覆
4207会穂゜岐晴゜活
4208岐因芽垂萌躍醸
4300充凝成穂゜日威醸移澄延座醸
4301威醸会晴゜成穂゜
4302霊゜充震゜垂実現
4303因美積醸成活
4304因゛奇凝充垂活
4305重萌増育因移
4306集゛震゜活放゜因移
4307充震゜活放゜結躍
4308澄震゜活放゜結躍
4309虚結岐真晴゜舞
4310爽霊゜会晴゜霊゜舞
4311静厳真澄晴゜活
4312霊゜醸移成穂゜醸
4400日奇津垂増威醸移真延座醸
4401垂威真晴゜活
4402威醸移現育結
4403親陜成現因
4404育爽垂増結震゜
4405親陜覆因゛現
4406威醸移澄延座醸
4407充凝因゛美醸積
4408因現哈゛放゜晴゜躍醸
4409日奇津晴゜活
4410延座醸威醸移澄
4411垂真厳成穂゜座
4412会貴芽垂威躍醸
4413垂威真晴゜活
4414基保津威醸移澄
4415垂真緒基充座
4416爽霊゜真晴゜津躍醸
いろは
親緒厳移晴゜和穂゜火゜子放゜保充
雷゜育微少座沼゜活覆
渡威狩母因垂舞虚
背積鋭根成躍醸
美浮囲延大崇奇哈因゛真増
異食震゜堅凝屠愛重与
天会爽陜岐貴刻結芽現実静
辺日霊゜飯基萌瀬澄
津乃奈御集゛
たまたま地形図を見て気が付いた。
邪馬壹国の各国はここにあるに違いない!
女王国が博多とすると、その南にあり詳細を記載しないとされた各国は、築紫平野にあるのではないか。
女王国が博多とすると、その南にあり詳細を記載しないとされた各国は、築紫平野にあるのではないか。

国土地理院の陰影図
弥生時代の特徴は稲作だ。
稲作は平らな土地を必要とする。水を大量に必要とする。
私には猫に見えたが、博多から細い首部分、筑紫野市を通って、筑後川が流れる築紫平野に出る。
弥生時代に馬は無かった。移動は、徒歩だろう。
いろいろな物資を運ぶにも、都合のよい場所だ。
更に証拠となるものは無いだろうか。
遺跡は証拠になるのではないか。
いろいろな遺跡の資料を探す中で見つけたの甕棺の分布を見つけた。
「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還- 藤尾 慎一郎」というレポートがインターネットに掲載されてた。
甕棺が弥生時代どのように拡がっていったのか、その分布を年代別に調査した結果だ。
詳しい文章は、ネットに出ていると思うので、それを読んで欲しいが、私の注目したのは甕棺がある土地の年代別の地図だ。
弥生時代を5期に分けて時代ごとの甕棺の分布をまとめ上げたものだ。
特に注目したのはⅡ期Ⅲ期。

九州北部の築紫平野に甕棺が広がっていったのがはっきりわかる。
山のすそ野に集中している。
稲作にはあまり影響のないところに甕棺墓を作ったのだろう。
また、開発の手始めには木材などの材料を確保しやすい山際が良かったのだろう。
この甕棺墓が筑紫平野に分布していく様を見て、私は更に各国がここに存在していたことに確信を持った。
次に考えるべきは国のサイズだ。
郡名等を根拠に各国を探したことがある。伊都郡とか那珂郡とか、郡の境が接している、山の上まで境界線が接している。これは地図が書けるようになってからのものだ。大きすぎる。
弥生時代の国のサイズはどのようなものか。
当時馬はいない。陸上の移動は徒歩。
一戸当たりの土地の面積はどのくらいか。
一反あれば現代でも自給自足が出来るという。
米作りをするにしても、用具が充実してたとは言えない弥生時代。
一反一戸と仮定してもいいのではないかと思う。
一反一戸と仮定すると、一反(300坪)は約1000㎡である。
1キロ四方だと1000m×1000m÷1000㎡で千戸となる。
2キロ四方で4千戸。
4キロ四方で1万6千戸。
8キロ四方で6万4千戸。
倭人伝に出て来る各国の戸数は千戸・三千戸・四千戸・二万戸、最大は投馬國の5万戸。
数キロメートル四方、これが弥生時代の国の大きさとみてよいのではないか。
イメージとしては、集落が飛び飛びに存在する。境界は接していない。
郡名と各国を突き合わせても、郡の範囲は広すぎて、ぴったり来ない。
また、稲作には平地と水が必要で、山地は除外してよい。
もっと小さな地域名を付け合わせて各国を探すと、飛び飛びになってしまう。しかも、語呂合わせ的な根拠の薄いものになる。
日本の都道府県を説明するときに、北海道・福岡・愛知・愛媛・・・などと、でたらめに説明することはない。ある程度の順番で、順序良く説明するはずだ。倭人伝だってそのはずだ。
地名だけに頼るのは無理。
それでは、何を根拠に各国を探すか。
まずは弥生時代の遺跡。
そして、関連する地名があるか。
国の現れる順番が合理的か。
これらの基準で探すにしても、問題なのは、各国の読み方。
倭人語として使用されている漢字は60個以上ある。
現代の50音では足りない。
当時の弥生語・倭人語はもっと音がたくさんあったのだ。倭人伝各国の読み方を再検討する必要がある。
更に、中国の南北朝以前は現代音とは違う発音、上古音である、
上古音は周代・漢代、中古音は南北朝(439~589)後期から隋・唐・五代・宋初。
ということは、魏志倭人伝の倭人語はは全て上古音で発音すべきということになる。
上古音などの発音は「蒲生新田」という人や、ウィキペディアなどに一覧表などが載っていて、それらを加工して私が独自にまとめたのだが、今ネットで調べても、「蒲生新田」というのはヒットしない。ウィキペディアでも一覧表は存在しない。
私は、上古音につけられた発音記号を基に読み方、発音の仕方を耳で聞き取り、カタカナで表した。
これはなかなか難しいことだ。例えば、ヘボン式ローマ字のヘボンと、オードリー・ヘップバーンのヘップバーンは同じHepburnだ。翻訳ソフトで聞けばヘッバーンと聞こえる。人によっても表記は様々になる。あくまでも私流に全ての語を聞こえたようにカタカナ化した。
上古音に続いて検討すべきは弥生語、倭人語だ。
魏志倭人伝には62個の倭人語が残されている。これは、魏志倭人伝が当時の倭人語を収集するのが一つテーマであったと考えられる。だから、30か国の国の名を列記し、沢山の官名や人名を記したのだろう。
62個あれば現代の五十音を超える。つまり、弥生時代はもっと多くの音があったと考えられる。
ここでひらめいたのは弓前文書だ。
弓前文書とは、鹿島神宮の神官であった弓前値成(ゆまあてな)という人が、弥生時代以来口誦で伝えられて来たものを、漢字を使い、漢字を応用した特殊文字も使用し、文字化したものだ。610年頃だという。
弓前文書はこれら弥生語を文字化した「神文」とその由来等を漢文で記した「委細心得」の二つからなる。これらは、弓前値成によって、秘文とされ、一般に公開されることは無かった。代々の神官である弓前和(ゆまに)に引き継がれて、研究されて来た。
これらの文書を引き継いだのが池田秀穂。
平成5年10月に「弥生の言葉と思想と伝承された家」および平成9年6月には「日本曙史話―弥生の言葉と思想」を発行し、弓前文書を公開した。この二つとも絶版であるが、全国の図書館を探せば数冊見つけることができる。
また、弓前文書の原本は板文に書かれたものや、紙に書き写したものであったが、第2次世界大戦で全て灰になってしまったということだ。
すべては、池田秀穂の記憶の中から取り出したもので書かれたものだ。
これを信じるか。信じない方が楽な人生が送れる。なぜなら、一切、弓前文書を研究する必要が無いのだから。
弓前値成なんて歴史で習ったこともない。なんで、今頃になってそんな文章が出現するのだ。何度も否定しようと思った。何度否定しようと思っても、弓前文書は存在した、偽物ではない、作り物ではない。そう感じた。なら、偽物と証明できるなら証明しよう。偽物と言えるまでは本物だと信じようと覚悟を決めた。いまだに本物だと思う気持ちは揺らいでいない。
弥生時代の言葉を漢字や特殊文字を使って弓前値成が書いた文字を、池田秀穂は「弓前漢字仮名」と命名した。
弓前漢字仮名は特殊文字、例えば「晴」の上に弓前冠、雨に似た冠で、天の下にうごめく力を表した冠等を使っている。また、複数形は「垂垂」のように、文字を並べたり、偏を二重にしたりして表している。
しかし、ワープロで書くには、外字作成の必要がある。さらに、別のパソコンでそのデータを開こうとしても、同じよう外字データが備わっていなくてはならない。汎用性いに欠ける。
そこで私は、弓前冠は「゜」、複数形は「゛」を使うことにした。また、旧字体は新字体に改め、画数が多い漢字はもっと簡単な漢字に置き換えた。これら「弓前漢字仮名」の簡易版を私は「ユマ仮名」と称することにした。
ユマ仮名の母音は8個。a,o,u,iと二重母音ai,au,ou,iu。
母音の関係は三角形を使うと理解しやすい。

eは渡来人からもたらされた。倭人の発音には無い。ただ、aiと近い。
発声エネルギーの大きい順にa,o,u,iとなっている。
母音がエネルギー順であるのを端的に示すのが日本数詞だ。
yi,yu,yo,ya ⇒1.2,4,8
mi,mu,mo,ma ⇒3,6,もっと、まったく
ti,tu,to,ta ⇒小さい、5(いつつ)、10、たくさん
きれいに小さい順からi,u,o,aと並んでいる。
八岐大蛇(やまたのおろち)は、最高の値、ya ma ta。
これらを整理して作られたのがひふみ数詞の原形だ。
ピプミヨツムナヤコト
「霊゜震゜実因積醸成因゛凝充」
弓前文書神文第3節第2章に書かれている。
子音は、k,x,s,t,ts,n,p,m,y,r,wの11個。
その他に、複数形や合成音がある。
詳しいことは、別の機会に譲るとして、ユマ仮名を魏志倭人伝の倭人語と付け合わせてみることにする。
索引カナ[ユマ仮名・ローマ字発音・カタカナ発音]⇒【倭人伝の倭人語】(発音記号)(聴取発音)の順で書いた。索引カナは二重母音を無視したり、aiをエと読んだり、単純化した読み方。辞書を引きやすいように考えた発音だ。通常発音するにはこれで充分なのだが、ユマ仮名とその発音を意識しなくてはいけない。カタカナ発音はローマ字発音の補助として使う。聴取発音とは、中古音の発音を聴き取りカタカナ化したもの。
ア〔天aア]⇒該当なし
ア〔会auアゥ]⇒【烏】(・ag)(アーグ)
イ〔親iuイゥ]⇒【伊】(・Iər)(イア)
ウ〔美uウ]⇒該当なし
エ〔愛aiエ]⇒該当なし
オ〔大oオ]⇒該当なし
オ〔崇ouオゥ]⇒該当なし
カ〔威kaカ]⇒【古】(kag)(カグ)
キ〔岐kiキ]⇒【支】(kieg)(キエグ)
キ〔貴kiuキゥ]⇒【鬼】(kIuər)(キウア)
ク〔奇kuク]⇒【狗】(kug)(クグ)
ケ〔異kaiケ]⇒【佳】(keg)(ケグ)
コ〔堅koコ]⇒【觚】(kuag)(クアグ)
コ〔凝kouコゥ]⇒該当なし
ガ〔狩xaクァ]⇒【渠】(gIag)(ギアグ)
ガ〔母xauクァゥ]⇒【耆】(gier)(ギア)
ギ〔刻xiクィ]⇒【躬】(kIoŋ)(キオング)
ギ〔飯xiuクィゥ]⇒【掖】(diak)(ディアク)
グ〔哈xuクゥ]⇒【惟】(diuər)(ディウア)
ゲ〔食xaiクェ]⇒【臣】(ghien)(ギエン)
ゴ〔屠xoクォ]⇒【弓】(kIoŋ)(キオン)
ゴ〔子xouクォゥ]⇒【呼】(hag)(ハグ)
サ〔爽saサ]⇒【蘇】(sag)(サグ)
シ〔静siシ]⇒【斯】(sieg)(シエグ)
ス〔澄suス]⇒該当なし
ソ〔虚soソ]⇒該当なし
ザ〔陜tsauツァ]⇒【載】(tsəg)(サグ)
チ〔少tsiツィ]⇒【姐】(tsiag)(チアグ、)
チ〔微tsiuツィゥ]⇒【市】(dhiəg)(ディアグ)
ツ〔鋭tsuツゥ]⇒【兕】(-(不明))(ジイ)
ゼ〔瀬tsaiツェ]⇒【升】(thiəŋ)(ティエン)
ゾ〔背tsouツォ]⇒【泄】(siat)(シアート)
タ〔垂taタ]⇒【都】(tag)(タグ)
チ〔雷゜tiチ]⇒【聲】(thieŋ)(チエン、)
チ〔育tiuチゥ]⇒【智】(tIeg)(チアーグ)
ツ〔積tuツ]⇒【對】(tuəd)(トゥアド)
テ〔与taiテ]⇒【多】(tar)(タア、)
ト〔保toト]⇒【投】(dug)(ドゥグ)
ト〔充touトゥ]⇒【鞮】(?)(テイ)
ナ〔成naナ]⇒【奴】(nag)(ナグ)
ニ〔和niuニゥ]⇒【爾】(nier...)(ニア)
ヌ〔沼゜nuヌ]⇒該当なし
ネ〔根naiネ]⇒【吾】(ŋag)(ナーグ)
ノ〔延nouノゥ]⇒【那】(nar)(ナ)
パ〔晴゜paパ]⇒【巴】(pag)(パグ)
ピ〔日piピ]⇒【柄】(pIaŋ)(ピアン)
ピ〔霊゜piuピゥ]⇒【卑】(pieg)(ピエグ)
プ〔震゜puプ]⇒【不】(pIuəg)(ピウッグ)
ペ〔放゜paiペ]⇒該当なし
ポ〔穂゜poポ]⇒【好】(hog)(ホグ)
ポ〔火゜pouポゥ]⇒【牛】(ŋIog)(ヒオーグ)
マ〔真maマ]⇒【母】(muəg)(マグ)
マ〔増mauマゥ]⇒【馬】(mag)(マーグ)
ミ〔現miミ]⇒【(彌)】(mier)(ミア)
ミ〔実miuミゥ]⇒【彌】(mier)(ミアー)
ム〔醸muム]⇒【末】(muat)(ムア)
メ〔芽maiメ]⇒【米】(mer)(メア)
モ〔基moモ]⇒【模】(mag)(マグ)
モ〔萌mouモゥ]⇒【謨】(mag)(マーグ)
ヤ〔因゛yauヤ]⇒【邪】(ŋiag)(ニヤグ)
イ〔厳yiイ]⇒【已】(diəg)(ディグ)
イ〔緒yiuイゥ]⇒【一】(・iet)(イエット)
ユ〔結yuユ]⇒該当なし
エ〔重yaiイェ]⇒【邑】(・Iəp)(イアプ)
ヨ〔因youヨゥ]⇒【與】(ɦiag)(ヒアーグ)
ラ〔躍raラ]⇒【盧】(hlag)(ラグ)
リ〔座riリ]⇒【利】(lIar)(リア)
ル〔活ruル]⇒該当なし
レ〔舞raiレ]⇒【離】(lIed)(リアド)
ロ〔移roロ]⇒該当なし
ワ〔渡waウァ]⇒【華】(ɦuag)(フアグ)
イ〔囲wiウィ]⇒【爲】(ɦiuar)(ヒワー)
ウ〔浮wuウゥ]⇒【越】(ɦuIat)(フヤット)
エ〔辺waiウェ]⇒【獲】(ɦuak)(フアーク)
オ〔覆woウォ]⇒【百】(pak)(パク)
ツム〔津tiumuツム]⇒該当なし
ノイ〔乃noiノィ]⇒該当なし
ナム〔奈namuナム]⇒【難】(nan)(ナン)
オム〔唵omuオム]⇒該当なし
ヂュ〔集゛jiuヂュ]⇒該当なし
グ〔哈゛xguグ]⇒該当なし
ズ〔澄゛zuズ]⇒該当なし
ダ〔垂゛daダ]⇒該当なし
ヂ〔雷゛diヂ]⇒該当なし
ヂ〔育゛diuヂゥ]⇒該当なし
ヅ〔積゛duヅ]⇒該当なし
ザ〔陜゛dzauザ]⇒該当なし
ベ〔辺゛vaiベ]⇒該当なし
イット〔親充iutou]⇒【壹】(・iet)(イエット)
これを基に、倭人伝の倭人語に当てはめた。
狗邪(くや)⇒クヤ[奇因゛ku yau ](kug ŋiag クグ ニヤグ )
對馬(つしま)⇒ツマ[積増tu mau ](tuəd mag トゥアド マーグ )
一支(いき)⇒イキ[緒岐yiu ki ](・iet kieg イエット キエグ )
末盧(まつろ)⇒ムラ[醸躍mu ra ](muat hlag ムア ラグ )
伊都(いと)⇒イタ[親垂iu ta ](・Iər tag イア タグ )
奴(な)⇒ナ[成na ](nag ナグ )
不彌(ふみ)⇒プミ[震゜実pu miu ](pIuəg mier ピウッグ ミアー )
投馬(とうま)⇒トマ[保増to mau ](dug mag ドゥグ マーグ )
斯馬(しま)⇒シマ[静増si mau ](sieg mag シエグ マーグ )
已百支(しおき)⇒イオキ[厳覆岐yi wo ki ](diəg pak kieg ディグ パク キエグ )
伊邪(いや)⇒イヤ[親因゛iu yau ](・Iər ŋiag イア ニヤグ )
都支(とき)⇒タキ[垂岐ta ki ](tag kieg タグ キエグ )
彌奴(みな)⇒ミナ[実成miu na ](mier nag ミアー ナグ )
好古都(こうこと)⇒ポカタ[穂゜威垂po ka ta ](hog kag tag ホグ カグ タグ )
不呼(ふこ)⇒プゴ[震゜子pu xou ](pIuəg hag ピウッグ ハグ )
姐奴(そな)⇒チナ[少成tsi na ](tsiag nag チアグ、 ナグ )
對蘇(つそ)⇒ツサ[積爽tu sa ](tuəd sag トゥアド サグ )
蘇奴(そな)⇒サナ[爽成sa na ](sag nag サグ ナグ )
呼邑(こお)⇒ゴエ[子重xou yai ](hag ・Iəp ハグ イアプ )
華奴蘇奴(かなそな)⇒ワナサナ[渡成爽成wa na sa na ](ɦuag nag sag nag フアグ ナグ サグ ナグ )
鬼(き)⇒キ[貴kiu ](kIuər キウア )
爲吾(いご)⇒イネ[囲根wi nai ](ɦiuar ŋag ヒワー ナーグ )
鬼奴(きな)⇒キナ[貴成kiu na ](kIuər nag キウア ナグ )
邪馬(やま)⇒ヤマ[因゛増yau mau ](ŋiag mag ニヤグ マーグ )
躬臣(くし)⇒ギゲ[刻食xi xai ](kIoŋ ghien キオング ギエン )
巴利(はり)⇒パリ[晴゜座pa ri ](pag lIar パグ リア )
支惟(きい)⇒キグ[岐哈ki xu ](kieg diuər キエグ ディウア )
烏奴(うな)⇒アナ[会成au na ](・ag nag アーグ ナグ )
奴(な)⇒ナ[成na ](nag ナグ )
狗奴(くな)⇒クナ[奇成ku na ](kug nag クグ ナグ )
卑彌呼(ひみこ)⇒ピミゴ[霊゜実子piu miu xou ]
卑彌弓呼(ひみきゅうこ)⇒ピミゴゴ[霊゜実屠子piu miu xo xou ]
掖邪狗(えきやく)⇒ギヤク[飯因゛奇xiu yau ku ]
伊聲耆(いせいき)⇒イチガ[親雷゜母iu ti xau ]
載斯烏越(さしうえつ)⇒ザシアウ[陜静会浮tsau si au wu ]
難升米(なんしょうまい)⇒ナムゼメ[奈瀬芽namu tsai mai ]
都市牛利(としぎゅうり)⇒タチポリ[垂微火゜座ta tsiu pou ri ]
卑狗(ひこ)⇒ピク[霊゜奇piu ku ]
卑奴母離(ひなもり)⇒ピナマレ[霊゜成真舞piu na ma rai ]
爾支(にき)⇒ニキ[和岐niu ki ]
泄謨觚(せもこ)⇒ゾモコ[背萌堅tsou mou ko ]
柄渠觚(へくこ)⇒ピガコ[日狩堅pi xa ko ]
兕馬觚(しまこ)⇒ツマコ[鋭増堅tsu mau ko ]
多模(たも)⇒テモ[与基tai mo ]
彌彌(みみ)⇒ミミ[現実mi miu ]
彌彌那利(みみなり)⇒ミミノリ[現実延座mi miu nou ri ]
伊支馬(いきま)⇒イキマ[親岐増iu ki mau ]
彌馬升(みましょう)⇒ミマゼ[実増瀬miu mau tsai ]
彌馬獲支(みまかくき)⇒ミマエキ[実増辺岐miu mau wai ki ]
奴佳鞮(なかてい)⇒ナケト[成異充na kai tou ]
狗古智卑狗(くこちひこ)⇒クカチピク[奇威育霊゜奇ku ka tiu piu ku]
邪馬壹(やまたい)⇒ヤマイット[因゛増親充yau mau iutou ]
壹與(いよ・とよ)⇒イットヨ[親充因iutou you ]
各国を探す方針としては次のように考えた。
①弥生時代の遺跡がある所を探す。
②国の大きさは数キロメートル四方。
③ある程度順番通りに並んでいること。
④ユマ仮名を当てはめた国名に何らか符合すること。
⑤築紫平野・福岡平野に絞って探すこと。
⑥倭人伝の記述に反しないこと。理屈に合っていること。
次へ
Ⅰ邪馬壹国の地図
私は遺跡地図や地形図を使って弥生時代の集落や墓、散布地などをマッピングすることにより、邪馬壹国各国の場所を特定した。特定の根拠を順次説明することにしたい。
地図は國土地理院のものを使用した。
図1

私は遺跡地図や地形図を使って弥生時代の集落や墓、散布地などをマッピングすることにより、邪馬壹国各国の場所を特定した。特定の根拠を順次説明することにしたい。
地図は國土地理院のものを使用した。
図1

図2

Ⅱ後漢書と魏志倭人伝の検証
魏志倭人伝の前に魏志以前に書かれた後漢書に何と書いてあるか確認しよう。
倭在韓東南大海中
(省略)
其大倭王居邪馬臺國。
樂浪郡徼去其國萬二千里、
去其西北界拘邪韓國七千餘里。
ここから読み取れることは、
倭の王は邪馬臺国に居る。
楽浪郡から邪馬臺国までは1万2千里。
楽浪郡から邪馬臺国の西北の境界である拘邪韓国までは7千里である。
拘邪韓国からの5千里の道筋は記載していないということを指摘したい。
また、楽浪郡の南側が分割されてのちに帯方郡となった。
それでは、魏志倭人伝の内容をここでは距離等に絞って検討する。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。(省略)、方可四百餘里、(省略)。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
東南至奴國百里、(省略)。
東行至不彌國百里、(省略)。
(省略)
自郡至女王國萬二千餘里。
帯方郡から狗邪韓国の北岸まで7千里。(残りは5千里)
對海国まで1千里。4百里四方。
一大国まで1千里。3百里四方。
末盧国まで1千里。
伊都国まで5百里。
奴国まで1百里。
不彌国まで1百里。
足し算をしてみよう。
1千×3+5百+1百=3千6百で奴国に到達。
1千4百足りない。
對海国と一大国の面積の数字を倍にしたら7百×2=1千4百。
丁度5千里となる。
不彌国までの1百里を足す必要はない。
つまり、奴国が第一義的に女王国である。
何故面積の数字を倍にして距離と扱うのか。
それが可能な根拠は何か。
對海国と一大国という記載だ。
いずれも對馬国と一支国とすべきところを字を変えている。
わざと間違えているのだ。
これは、普通に読んではいけないという事。
そしてこの文章は「女王國萬二千餘里」を解説する文章である。
1万2千里が導き出せなければまったく意味が無い。
だから「方」という本来は面積で使うものを距離に換算するような謎かけともいえるものを採用したのだろう。
後漢書には「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里」
一方、魏志では「自郡至女王國萬二千餘里」となっている。
後漢書では邪馬臺国まで1万2千里なのに、何故、魏志では女王国まで1万2千里なのか。
邪馬臺国と女王国は同一なのか。
これは違うと言いたい。
後漢書での楽浪郡(帯方郡)から邪馬臺国までの距離は、邪馬臺国の中心部までの距離というとだ。
例えば、日本国と韓国との距離は何キロ?という問いが出されたら、普通、日本の首都東京と韓国の首都ソウルの距離をもって答えるだろう。まさか釜山港と対馬の距離を答えることは無いだろう。
ところが、例えば日本から船で釜山港に入ったら、もう韓国までの距離は出せない。なぜなら、釜山は既に韓国だから。釜山とソウルの距離なら距離を出すのは可能である。
同じことが「自郡至女王國萬二千餘里」についても言える。
魏誌には狗邪韓国の岸、倭(邪馬壹国)の一番北の岸からの道筋を書いている。
狗邪韓国は邪馬壹国の国内なのだ。だから、女王国までの距離は出せても邪馬壹国までの距離・道筋は示せない。
例えば対馬から日本国の首都、東京までの道筋は言える。しかし、対馬から日本国までの道筋は示すことが不可能だ。なぜなら対馬は日本国内だから。
ここが決定的に今までの邪馬台国論と違うところだ。
邪馬壹国は伊都国などと同列の国ではない。全ての構成国の総称のなのだ。日本国は全ての都道府県で構成されているので混乱は無い。しかし、かつては、駿河国、相模国などが日本国を構成していた。同じ国という字を使っていても、まったく立場は異なる。中国から日本国に来ることは出来るが、駿河国から日本国に来ることはできない。なぜなら、既に駿河国は日本国内なのだから。
ここで、魏志倭人伝の記載を地図化してみよう。
図3

帯方郡から狗邪韓国まではおおよその航路を7等分し、1本を1千里として7本で示した。
倭の北岸から對馬国までの方向は書いていないので、對馬国から1千里の半円を書いた。
半円とほぼ交わる鎮海湾が測り始め即ち「始度」とされた地点であろう。
「度」は度量衡の度で、長さの基準をいう。渡る。超えるという意味をあり、海を渡る意味もかけているのだろう。
對海国は對馬国で対馬、一大国は一支国で壱岐というのは論争は無いだろう。
對馬国から南へ「瀚海」という海を渡ると1千里で一支国に着く
対馬と壱岐に先ほどと同じ1千里の線を引く。
以上で狗邪韓国の岸(倭の北岸)から壱岐までは2千里である。
次に壱岐から海を渡って1千里で末盧国に着くという。
方向が書かれていないので、壱岐を中心に1千里の半円を書いてみた。
さて、末盧国はどこだというのだろう。
末盧国から東南へ陸行で5百里で伊都国に着く。
とりあえず1千里の半円と交わるところから1千里の半分の線を東南の方向で引いてみた。
いったい、伊都国はどこだ言うのだろう。
壱岐から1千里にこだわらず、唐津や松浦から線を引いても、東南へ5百里なので、一般的に伊都国と言われている糸島とか怡土郡には全く着けない。方向が違う。距離も5百里も行かないで九州に上陸できる。
ところが、壱岐から東南へ5百里の線を引っ張ると、ピッタリ糸島あたりとなる。
再度魏志倭人伝の記述を見てみよう。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
魏志ではたくさんの倭人語を収集し、漢字で記載しているが、「瀚海」は倭人語ではない。對海国の「海」、一大国の「大」も倭人語ではない。倭人語ではないものをあえて使っている。
更に末盧国は草木が盛んに茂り、前を歩く人の姿も見えない。そういう状態で、わざわざ舟を下りて、東南へ陸を歩いて5百里も歩くというのだ。
結論として「瀚海」もあり得ない「陸行」もあり得ない
だから壱岐から末盧国までの海を渡って1千里はあり得ないということになるのではないか。
壱岐を中心にした1千里の半円、陸地と交わった地点から東南へ陸行。いずれもあり得ない。末盧国までの距離は架空の距離だと断ずるほかない。
よって、壱岐から一海、東南へ5百里で伊都国に到達する、ということになるだろう。
図4

一支国から東南へ5百里の線を引っ張ると糸島に到達する。
5百里の線を5等分して、伊都国から東南と東に線を引っ張る。
図5

黄色い線は遺跡地図や地形図を基に各国を示す線だが、これは別に説明する。
伊都国から東南及び東に引いた1百里の線。
ほぼ東にあるのが不彌国、その南側にあるのが東南にある奴国である。
赤い線は1百里では足りないので、1百里の5分の3、60里を付け足したものである。
切り捨てれば1百里となる。1万2千里の行程から、許される程度のの誤差ではないか。
私は6奴国は女王国の事で、席田地区、今は福岡県博多区に属していて、福岡空港がある御笠川と高台に囲まれた地域だと考えている。二つ目の29奴国の一部分ともいえる。
7不彌国は宇美町というよりは、専ら糟谷町あたりが不彌国の中心地だと思う。
以上のことから、
狗邪韓国から對馬国まで1千里
對馬国から一支国まで1千里
一支国から伊都国まで5百里
伊都国から女王国まで1百里
狗邪韓国から女王国までの本当の距離は2千6百里ではないかと思う。
對馬国の方4百里、一支国の方3百里、一支国から瀚海を渡って末盧国へ行く1千里。
これらは全て魏志の「自郡至女王國萬二千餘里」を導き出す方便だった。
何故その必要があったのか。
それは、後漢書の「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里。」という歴史的記述を否定しないためだと思う。
後漢書の記述は、楽浪郡から狗邪韓国までの7千里に、当時の倭人が言うままに5千里を足して1万2千里としたのだろう。
この1万2千里のうち、狗邪韓国から5千里の道順距離を出す為に、魏志倭人伝の作者である陳寿が知恵を絞ったのだ。
本来は島の面積であるものを、字を違えて「對海國」「一大國」として面積の一辺を2倍に計算する。存在しない「瀚海」、どこだか確定できない末盧国、しかも前も見えないような草木が茂った道を歩く伊都国への行程を加える。
あたかも舟と陸路の行程で1万2千里を出せるようにしながら、実際にはもっと短いのだということを暗示していたのだろう。
次に投馬国及び詳細を書かれなかった国の検討をしよう。
南至投馬國水行二十日(省略)
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月(省略)
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次(省略)次有邪馬國次有(省略)次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
南に舟で20日で投馬国に着く。
魏志倭人伝は邪馬壹国の紹介をしている。
当然、投馬国は邪馬壹国の構成国である。
陸行と書いていないので、舟でしか行けない飛び地なのだ。
女王に属していない狗奴国を通りぬけることができなかったのもあるだろう。また、山がちな陸路を歩くより舟だけで行った方が効率よく行けたのだろう。
投馬国は南西諸島への玄関口であったと思う。
「南至邪馬壹國女王之所都」
南に行けば邪馬壹国の女王の「都」する所。
この「都」とは何か。
辞書を引くと①天子の居城の有る所。②にぎやかな大きなまち。③みやびやか。美しい。③統べる。まとめる。「都督」④すべて。ことごとく。「都度」「都合」
今までは、①から、天子の居城がある所という意味で「都」は女王卑弥呼が居る所と解釈して、「都」は女王国である、と解釈してきたのではないだろうか。
しかし、「③統べる。」という意味から女王が統治している所という意味にも取れるのではないか。また「④すべて。ことごとく。」という意味から、邪馬壹国の全ての国々という意味にも取れるのではないか。
③と④を合わせて、「女王に属するすべての国々」と訳すのが本当ではないか。
「邪馬壹国の女王に属するすべての国々」は南に舟なら10日、徒歩なら1カ月の所にあるということだ。
「自女王國以北其戸數道里可得略載」
女王国以北の対馬国、一支国、伊都国、不彌国については、距離も戸数とか概略が書いてある。
狗邪韓国については戸数や概略も書いていないが、「始度」とあるように測り始める出発点である。
末盧国に付いては、女王国の北側とは言えないが、架空の距離が記載され、概略も書いてある。
投馬国は女王国の北ではなく、行程は日数であって里数ではないので、女王国以北の国には入らない。
「其餘旁國遠絶不可得詳」
以上の国以外は遠いし、詳細を書けばとんでもなく長くなるので詳細の記述は控えたのだろう。「以下詳細省略」ということだろう。この文章に続き、各国が羅列されている。
「(省略)此女王境界所盡」
各国の羅列のあとに、ここまでが女王の境界なのだ、と言っている。
これら羅列された国々が、舟なら10日、歩きなら1カ月の範囲にあるという事。
「其南有狗奴國(省略)不屬女王」
そして、境界の南側には狗奴国があって、女王に属していない。
ではこれを地図に落としてみよう。
図6

邪馬壹国は、狗邪韓国、対馬国、一支国、投馬国のほかは、福岡平野と築紫平野にある。
①は航路10日
②は陸路1カ月。
旅行で行くわけではない。道具を運んだり、米を運ぶために陸路を行ったはずだ。直線的に進んだとは思えない。しかも、道が整備されているわけでも、旅館があるわけでもない。食事の用意も自前かも知れない。距離にして200キロ前後だと思う。馬も車もない時代、1日10キロ程度でも成り立つのではないか。
③は狗奴国(熊本)と邪馬国(みやま市・大牟田市等)の間の境界。
④は①から続いて投馬国へ向かう航路20日。
以上、全ての国について地図に落とし込み、倭人伝の記述と比較してみた。
矛盾があるだろうか?
ポイントは邪馬壹国は日本国と同じく全体の総称。
狗邪韓国、対馬国・・・奴国は邪馬壹国の構成国
女王国は奴国の一部ともいえる席田。東京都の皇居みたいなことだと思う。
1万2千里を出す為の方便が使われている。実際の距離は狗邪韓国までは7千里だが狗邪韓国の岸から女王国までは5千里もなくて2千6百里。
投馬国は飛び地。
狗奴国との国境までは舟なら10日、徒歩なら1カ月。
国であるならば、近接する位置にあるはずだ。構成国の国々が飛び飛びに存在するはずがない。魏志に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いてあるように、牛も馬もないので車もないだろう。そのような弥生時代に、飛び飛びの地であれば関係性は保てないだろう。
構成国を論ずる場合にはある程度の順序で書かれるだろう。例えば南から順、北から順など。
邪馬壹国各国を論ずるなら、遺跡と地形図を照らし合わせて考えるべきだ。白地図ではイメージが湧かない。山の上は縄文時代石器時代の遺跡はあるが、弥生時代の遺跡はほとんどない。弥生時代は平地で農業、米作りする時代だ。これも遺跡地図をマッピングすることにより気づいた。
米作りには平地が必要だ。手がかかる。集団で行動する必要がある。米は貯蔵できるのでその管理も必要だ。一方縄文時代のように、木の実を食べたり、狩をするには山中のほうが暮らしやすい。少人数の方が効率がよい。
築紫平野や福岡平野にたくさんの遺跡がある。地形や遺跡の存在により地域を分けてみると、もしここに百か国あったら、同じ河川を使うこともあるだろうし、物理的に山や川に隔てられていなければ、争いが起きても不思議じゃないと感じる。倭国大乱があっておかしくない。後30国程度になったのも不思議ではない。
邪馬壹国があまりにスケールが小さくで意外だろうか。
じっくり地図を見ていると、そんなに狭いわけではないと気づく。
弥生文化は九州北部だけじゃなく全国にあった。当然奈良や出雲にもあった。
それらが全部統一王朝のもとで統治されることは可能であろうか。
道も整わず、馬や車もない。通信もない。海や川を渡るに舟があっても上陸したら徒歩。
それぞれの地域で弥生文化が緩くつながっていたのではないか。
ただ、物理的に中国に近い邪馬壹国が国として中国と外交を行い、記録されたということだろう。
図7 弥生時代の遺跡

邪馬台国論が100あったとしよう。
そのうち一つが正しいとしよう。
すると、過去の邪馬台国論は間違っていると指摘するのは99%正しい。
これから出て来る邪馬台国論が間違いだと指摘するのは99%正しい。
そんな中でする邪馬台国論。
過去の自分の思っていた見解とも違っていた。
人は納得しないだろう。邪馬台国論には利害もある。
自分が思っていた疑問は全て解決し、自分を納得させるものが出来た。
満足である。
魏志倭人伝の前に魏志以前に書かれた後漢書に何と書いてあるか確認しよう。
倭在韓東南大海中
(省略)
其大倭王居邪馬臺國。
樂浪郡徼去其國萬二千里、
去其西北界拘邪韓國七千餘里。
ここから読み取れることは、
倭の王は邪馬臺国に居る。
楽浪郡から邪馬臺国までは1万2千里。
楽浪郡から邪馬臺国の西北の境界である拘邪韓国までは7千里である。
拘邪韓国からの5千里の道筋は記載していないということを指摘したい。
また、楽浪郡の南側が分割されてのちに帯方郡となった。
それでは、魏志倭人伝の内容をここでは距離等に絞って検討する。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對海國。(省略)、方可四百餘里、(省略)。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
東南至奴國百里、(省略)。
東行至不彌國百里、(省略)。
(省略)
自郡至女王國萬二千餘里。
帯方郡から狗邪韓国の北岸まで7千里。(残りは5千里)
對海国まで1千里。4百里四方。
一大国まで1千里。3百里四方。
末盧国まで1千里。
伊都国まで5百里。
奴国まで1百里。
不彌国まで1百里。
足し算をしてみよう。
1千×3+5百+1百=3千6百で奴国に到達。
1千4百足りない。
對海国と一大国の面積の数字を倍にしたら7百×2=1千4百。
丁度5千里となる。
不彌国までの1百里を足す必要はない。
つまり、奴国が第一義的に女王国である。
何故面積の数字を倍にして距離と扱うのか。
それが可能な根拠は何か。
對海国と一大国という記載だ。
いずれも對馬国と一支国とすべきところを字を変えている。
わざと間違えているのだ。
これは、普通に読んではいけないという事。
そしてこの文章は「女王國萬二千餘里」を解説する文章である。
1万2千里が導き出せなければまったく意味が無い。
だから「方」という本来は面積で使うものを距離に換算するような謎かけともいえるものを採用したのだろう。
後漢書には「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里」
一方、魏志では「自郡至女王國萬二千餘里」となっている。
後漢書では邪馬臺国まで1万2千里なのに、何故、魏志では女王国まで1万2千里なのか。
邪馬臺国と女王国は同一なのか。
これは違うと言いたい。
後漢書での楽浪郡(帯方郡)から邪馬臺国までの距離は、邪馬臺国の中心部までの距離というとだ。
例えば、日本国と韓国との距離は何キロ?という問いが出されたら、普通、日本の首都東京と韓国の首都ソウルの距離をもって答えるだろう。まさか釜山港と対馬の距離を答えることは無いだろう。
ところが、例えば日本から船で釜山港に入ったら、もう韓国までの距離は出せない。なぜなら、釜山は既に韓国だから。釜山とソウルの距離なら距離を出すのは可能である。
同じことが「自郡至女王國萬二千餘里」についても言える。
魏誌には狗邪韓国の岸、倭(邪馬壹国)の一番北の岸からの道筋を書いている。
狗邪韓国は邪馬壹国の国内なのだ。だから、女王国までの距離は出せても邪馬壹国までの距離・道筋は示せない。
例えば対馬から日本国の首都、東京までの道筋は言える。しかし、対馬から日本国までの道筋は示すことが不可能だ。なぜなら対馬は日本国内だから。
ここが決定的に今までの邪馬台国論と違うところだ。
邪馬壹国は伊都国などと同列の国ではない。全ての構成国の総称のなのだ。日本国は全ての都道府県で構成されているので混乱は無い。しかし、かつては、駿河国、相模国などが日本国を構成していた。同じ国という字を使っていても、まったく立場は異なる。中国から日本国に来ることは出来るが、駿河国から日本国に来ることはできない。なぜなら、既に駿河国は日本国内なのだから。
ここで、魏志倭人伝の記載を地図化してみよう。
図3

帯方郡から狗邪韓国まではおおよその航路を7等分し、1本を1千里として7本で示した。
倭の北岸から對馬国までの方向は書いていないので、對馬国から1千里の半円を書いた。
半円とほぼ交わる鎮海湾が測り始め即ち「始度」とされた地点であろう。
「度」は度量衡の度で、長さの基準をいう。渡る。超えるという意味をあり、海を渡る意味もかけているのだろう。
對海国は對馬国で対馬、一大国は一支国で壱岐というのは論争は無いだろう。
對馬国から南へ「瀚海」という海を渡ると1千里で一支国に着く
対馬と壱岐に先ほどと同じ1千里の線を引く。
以上で狗邪韓国の岸(倭の北岸)から壱岐までは2千里である。
次に壱岐から海を渡って1千里で末盧国に着くという。
方向が書かれていないので、壱岐を中心に1千里の半円を書いてみた。
さて、末盧国はどこだというのだろう。
末盧国から東南へ陸行で5百里で伊都国に着く。
とりあえず1千里の半円と交わるところから1千里の半分の線を東南の方向で引いてみた。
いったい、伊都国はどこだ言うのだろう。
壱岐から1千里にこだわらず、唐津や松浦から線を引いても、東南へ5百里なので、一般的に伊都国と言われている糸島とか怡土郡には全く着けない。方向が違う。距離も5百里も行かないで九州に上陸できる。
ところが、壱岐から東南へ5百里の線を引っ張ると、ピッタリ糸島あたりとなる。
再度魏志倭人伝の記述を見てみよう。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、(省略)。
方可三百里、(省略)。
又渡一海、千餘里至末盧國、(省略)、
草木茂盛、行不見前人。(省略)。
東南陸行五百里、到伊都國、(省略)。
魏志ではたくさんの倭人語を収集し、漢字で記載しているが、「瀚海」は倭人語ではない。對海国の「海」、一大国の「大」も倭人語ではない。倭人語ではないものをあえて使っている。
更に末盧国は草木が盛んに茂り、前を歩く人の姿も見えない。そういう状態で、わざわざ舟を下りて、東南へ陸を歩いて5百里も歩くというのだ。
結論として「瀚海」もあり得ない「陸行」もあり得ない
だから壱岐から末盧国までの海を渡って1千里はあり得ないということになるのではないか。
壱岐を中心にした1千里の半円、陸地と交わった地点から東南へ陸行。いずれもあり得ない。末盧国までの距離は架空の距離だと断ずるほかない。
よって、壱岐から一海、東南へ5百里で伊都国に到達する、ということになるだろう。
図4

一支国から東南へ5百里の線を引っ張ると糸島に到達する。
5百里の線を5等分して、伊都国から東南と東に線を引っ張る。
図5

黄色い線は遺跡地図や地形図を基に各国を示す線だが、これは別に説明する。
伊都国から東南及び東に引いた1百里の線。
ほぼ東にあるのが不彌国、その南側にあるのが東南にある奴国である。
赤い線は1百里では足りないので、1百里の5分の3、60里を付け足したものである。
切り捨てれば1百里となる。1万2千里の行程から、許される程度のの誤差ではないか。
私は6奴国は女王国の事で、席田地区、今は福岡県博多区に属していて、福岡空港がある御笠川と高台に囲まれた地域だと考えている。二つ目の29奴国の一部分ともいえる。
7不彌国は宇美町というよりは、専ら糟谷町あたりが不彌国の中心地だと思う。
以上のことから、
狗邪韓国から對馬国まで1千里
對馬国から一支国まで1千里
一支国から伊都国まで5百里
伊都国から女王国まで1百里
狗邪韓国から女王国までの本当の距離は2千6百里ではないかと思う。
對馬国の方4百里、一支国の方3百里、一支国から瀚海を渡って末盧国へ行く1千里。
これらは全て魏志の「自郡至女王國萬二千餘里」を導き出す方便だった。
何故その必要があったのか。
それは、後漢書の「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里。去其西北界拘邪韓國七千餘里。」という歴史的記述を否定しないためだと思う。
後漢書の記述は、楽浪郡から狗邪韓国までの7千里に、当時の倭人が言うままに5千里を足して1万2千里としたのだろう。
この1万2千里のうち、狗邪韓国から5千里の道順距離を出す為に、魏志倭人伝の作者である陳寿が知恵を絞ったのだ。
本来は島の面積であるものを、字を違えて「對海國」「一大國」として面積の一辺を2倍に計算する。存在しない「瀚海」、どこだか確定できない末盧国、しかも前も見えないような草木が茂った道を歩く伊都国への行程を加える。
あたかも舟と陸路の行程で1万2千里を出せるようにしながら、実際にはもっと短いのだということを暗示していたのだろう。
次に投馬国及び詳細を書かれなかった国の検討をしよう。
南至投馬國水行二十日(省略)
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月(省略)
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次(省略)次有邪馬國次有(省略)次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
南に舟で20日で投馬国に着く。
魏志倭人伝は邪馬壹国の紹介をしている。
当然、投馬国は邪馬壹国の構成国である。
陸行と書いていないので、舟でしか行けない飛び地なのだ。
女王に属していない狗奴国を通りぬけることができなかったのもあるだろう。また、山がちな陸路を歩くより舟だけで行った方が効率よく行けたのだろう。
投馬国は南西諸島への玄関口であったと思う。
「南至邪馬壹國女王之所都」
南に行けば邪馬壹国の女王の「都」する所。
この「都」とは何か。
辞書を引くと①天子の居城の有る所。②にぎやかな大きなまち。③みやびやか。美しい。③統べる。まとめる。「都督」④すべて。ことごとく。「都度」「都合」
今までは、①から、天子の居城がある所という意味で「都」は女王卑弥呼が居る所と解釈して、「都」は女王国である、と解釈してきたのではないだろうか。
しかし、「③統べる。」という意味から女王が統治している所という意味にも取れるのではないか。また「④すべて。ことごとく。」という意味から、邪馬壹国の全ての国々という意味にも取れるのではないか。
③と④を合わせて、「女王に属するすべての国々」と訳すのが本当ではないか。
「邪馬壹国の女王に属するすべての国々」は南に舟なら10日、徒歩なら1カ月の所にあるということだ。
「自女王國以北其戸數道里可得略載」
女王国以北の対馬国、一支国、伊都国、不彌国については、距離も戸数とか概略が書いてある。
狗邪韓国については戸数や概略も書いていないが、「始度」とあるように測り始める出発点である。
末盧国に付いては、女王国の北側とは言えないが、架空の距離が記載され、概略も書いてある。
投馬国は女王国の北ではなく、行程は日数であって里数ではないので、女王国以北の国には入らない。
「其餘旁國遠絶不可得詳」
以上の国以外は遠いし、詳細を書けばとんでもなく長くなるので詳細の記述は控えたのだろう。「以下詳細省略」ということだろう。この文章に続き、各国が羅列されている。
「(省略)此女王境界所盡」
各国の羅列のあとに、ここまでが女王の境界なのだ、と言っている。
これら羅列された国々が、舟なら10日、歩きなら1カ月の範囲にあるという事。
「其南有狗奴國(省略)不屬女王」
そして、境界の南側には狗奴国があって、女王に属していない。
ではこれを地図に落としてみよう。
図6

邪馬壹国は、狗邪韓国、対馬国、一支国、投馬国のほかは、福岡平野と築紫平野にある。
①は航路10日
②は陸路1カ月。
旅行で行くわけではない。道具を運んだり、米を運ぶために陸路を行ったはずだ。直線的に進んだとは思えない。しかも、道が整備されているわけでも、旅館があるわけでもない。食事の用意も自前かも知れない。距離にして200キロ前後だと思う。馬も車もない時代、1日10キロ程度でも成り立つのではないか。
③は狗奴国(熊本)と邪馬国(みやま市・大牟田市等)の間の境界。
④は①から続いて投馬国へ向かう航路20日。
以上、全ての国について地図に落とし込み、倭人伝の記述と比較してみた。
矛盾があるだろうか?
ポイントは邪馬壹国は日本国と同じく全体の総称。
狗邪韓国、対馬国・・・奴国は邪馬壹国の構成国
女王国は奴国の一部ともいえる席田。東京都の皇居みたいなことだと思う。
1万2千里を出す為の方便が使われている。実際の距離は狗邪韓国までは7千里だが狗邪韓国の岸から女王国までは5千里もなくて2千6百里。
投馬国は飛び地。
狗奴国との国境までは舟なら10日、徒歩なら1カ月。
国であるならば、近接する位置にあるはずだ。構成国の国々が飛び飛びに存在するはずがない。魏志に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いてあるように、牛も馬もないので車もないだろう。そのような弥生時代に、飛び飛びの地であれば関係性は保てないだろう。
構成国を論ずる場合にはある程度の順序で書かれるだろう。例えば南から順、北から順など。
邪馬壹国各国を論ずるなら、遺跡と地形図を照らし合わせて考えるべきだ。白地図ではイメージが湧かない。山の上は縄文時代石器時代の遺跡はあるが、弥生時代の遺跡はほとんどない。弥生時代は平地で農業、米作りする時代だ。これも遺跡地図をマッピングすることにより気づいた。
米作りには平地が必要だ。手がかかる。集団で行動する必要がある。米は貯蔵できるのでその管理も必要だ。一方縄文時代のように、木の実を食べたり、狩をするには山中のほうが暮らしやすい。少人数の方が効率がよい。
築紫平野や福岡平野にたくさんの遺跡がある。地形や遺跡の存在により地域を分けてみると、もしここに百か国あったら、同じ河川を使うこともあるだろうし、物理的に山や川に隔てられていなければ、争いが起きても不思議じゃないと感じる。倭国大乱があっておかしくない。後30国程度になったのも不思議ではない。
邪馬壹国があまりにスケールが小さくで意外だろうか。
じっくり地図を見ていると、そんなに狭いわけではないと気づく。
弥生文化は九州北部だけじゃなく全国にあった。当然奈良や出雲にもあった。
それらが全部統一王朝のもとで統治されることは可能であろうか。
道も整わず、馬や車もない。通信もない。海や川を渡るに舟があっても上陸したら徒歩。
それぞれの地域で弥生文化が緩くつながっていたのではないか。
ただ、物理的に中国に近い邪馬壹国が国として中国と外交を行い、記録されたということだろう。
図7 弥生時代の遺跡

邪馬台国論が100あったとしよう。
そのうち一つが正しいとしよう。
すると、過去の邪馬台国論は間違っていると指摘するのは99%正しい。
これから出て来る邪馬台国論が間違いだと指摘するのは99%正しい。
そんな中でする邪馬台国論。
過去の自分の思っていた見解とも違っていた。
人は納得しないだろう。邪馬台国論には利害もある。
自分が思っていた疑問は全て解決し、自分を納得させるものが出来た。
満足である。