先代 ◆ SANPO な ブ・ロ・グ

村田 青朔 が 一所懸命 書き綴る
「踊り」 だとか 「アート」 だとか
その 周辺の事
「小説」も 載せたい

【アート】 石田徹也 遺作集

2008-05-25 |  アートって、なにさ?
こちらは 2007年、 僕にとっては 2度目の 「福住ゼミ」 にて。
画集を見て、一点の絵を 批評 (?) する。

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※ 当然ですが、これは原画ではありません。


「 石田徹也 遺作集 」 に 載せられていた 1点の絵を 検証した際、
村田青朔が 頭の中に描いたイメージです。

下に続ける文章も、同じです。


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石田徹也遺作集より
「墓の前に座る少年」の図(タイトル不詳)を読む


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vol.1 「箱庭」 :  こんな絵、嫌だ。あまりにもナマナマしい。

画面中央に、白いティーシャツ姿の少年がいる。
2つの壁が床と交わる、部屋の片隅。
窓際のベッドの上で、少年は体育座りしている。
背中をこちらに向け、ベッドの左端に置かれたテレビを見ている。
顔は、ほとんど見えない。耳にはヘッドホン。

と思っていたら、テレビではなかった。背の低い、黒い墓石だ。
ベッドも、違う・・・ベッドサイズの墓地だった!
部屋の中に墓があるのか? 墓の周囲に部屋があるのか?

もう一人いる。板張りの床と、墓を囲う石積みの隙間。
そこに潜り込んでいる奴がいる。
見えているのは、大きな左手と2つの足裏。
男のようだ。少年より年上だろう。
たぶん、生きている。

墓には緑の植え込み、雑草も生えている。
草は板の間に広がり、木まで生えている。

2つの大きな窓。外に電車が1台。
左方向に走っている、ように見える。誰も乗っていない。
線路がない。電車以外には景色もない、白い世界。
ここは宙に浮いた、箱庭のような空間。

墓地の奥行きが描く、左上に向う直線。少年の身体の向きである。
これを延長すると、画面外の消失点に鋭角的に収束する。
床板の向きが、この方向性を強調している。
電車のラインも、これと平行だ。遠くへ行く感じ。
無機的で機械的。墓が暗示する、暗い方向性。
でも墓のむこう側、電車の前方は明るい。

右側の消失点も画面の外にある。
左のそれと比べると、かなり画面に近い。
手前に広がる放射状の直線が、窓から射し込む光を感じさせる。
曲線を描く植物。有機的な若々しい生命感。
だが生は病を、死を孕む。電車が行く手をさえぎる。

窓の縦枠を見ると、下にも消失点がある。
3点透視法で描かれている。なのに高さの描写は、鮮明でない。
木が上に伸びている。天井は高いはず。
しかし、絵の枠で断ち切られている。
ここは絵画という、檻の中。

縦・横・高さの直線が、見えない枠を形作っている。
遠近法の牢獄に封じ込められた、内的世界。
抜け出す事の出来ない箱庭、ソコニハビコル命。

図式的な構図・対比・象徴は、石田徹也のこだわりだろう。
絵の中に内向し、檻の中に閉じこもる。
そして、突き抜けようとする。

登場する2人は、同一人物に違いない。
石の重みに押しつぶされたような肉体。
そこから抜け出した、少年。

希望がある。だけど塞がれている。「飛びたい」とは、そういう事だ。
脱出したいのだ。だから、よけい苦しいのだ。
その感覚が、ナマナマしい。

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vol.2 「離陸」 :  こんな絵、嫌だ。でも、気にかかる。

石田徹也の描く世界は、どこか歪んでいる。
そのあたり、滑稽でもある。
画家の一人遊びだろうか? 少し違う。
彼は牢獄のような社会を、描き切ろうとしている。
そして自ら、檻に閉じこもる。なぜだ?

脱出するため、かもしれない。
奴はナゾナゾを仕掛け、社会と繋がろうとしている。
一緒に遊ぼうよ、と誘っている。
ならば付き合ってみよう。

墓の下にいるのは、画家の分身だろう。
彼が描く多くの絵に登場する、いつもの人物と思われる。
だが、おどけた顔も、悲しい演技も、こちらに向けない。
積まれた石の下、しかもうつ伏せ。
下に広がる世界を見ているのかもしれない。

男の肉体を脱ぎ捨てた少年は、分身の分身。
やはり、正面を向かない。視線も落としている。

顔はあちらを向き、身体はここにある。遠くへ行きたいのだ。
目を下に向ける時、意識は身体よりも上にある。飛びたいのだ。

奴等は、脱走を企てている。

その脱走計画を、構図から探りたい。
きっちりとした遠近法のように見える。
だが、どこか歪んでいる。

まず電車。明らかに小さい。おれの計算では、高さが1mもない。
この電車は、実在しない。雲の上を飛ぶ、空想のオブジェである。
少年は、その運転席にいるのかもしれない。
奴は、電車になりたかったのかもしれない。

逃走手段は、電車だけでない。
水平線が左上がりだ。左の消失点が、右の消失点より上にある。
左上方向に、昇っていく感覚が与えられている。
そう見えるように、描かれている。

この絵自体が、左上に向う方向性を持っている。
観る者を引き込む、加速度を持っている。
この部屋は、宙に浮いているのではない。上昇中なのだ。
この墓地はコクピットである。
石の下の男は、Gを背負ったジェット機である。

脱走経路は、他にも用意されている。
画面をつらぬく、死を見詰める眼差し。それが隠し扉だ。
この絵の水平線の高さは、少年の頭より上にある。
画家の視線は、彼を見下ろしている。
それとほぼ同じ角度で、少年の顔は墓石を向いている。
彼の目に映っているのは、この絵。このシーンではないだろうか?
とすると、世界が入れ子になっている。

少年は、左肩をこちらに向けている。
やばい、おれは彼の背後霊の位置にいる。

ふと後ろから、誰かに覗かれている気配。
奴が絵から脱け出して、おれを見詰めている。
3番目の登場人物は、おれだったのか?
くそ、睨み返してやる!

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vol.3 「家族」 :  こんな絵、嫌だ。・・・なぜだろう??

続きを書くとしたら、テーマはそんな感じ に、したい。
だが・・・、この先の事は彼も嫌がっている。

睨めっこを強制終了する。

2007.09.



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詳細不明 たぶん 2008-05-23頃 up

【アート】 クリスチャン・ボルタンスキー

2008-05-25 |  アートって、なにさ?
2007

福住簾ゼミ
アート評

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既視の岸辺で・・・
[展評]クリスチャン・ボルタンスキー
Entre Temps + L’horologe palante


目の前に川がある。静かな風景である。
だが、水は流れている。川は昨日の川ではない。
だけど何故、おれは川の事を書き始めたのだろう?

バンカートからメールが届いた。
「1929ホールでのボルタンスキー本人による
新作インスタレーションは楽しみです」

1929ホールなら、知っている。
・・・以前、銀行だったという石造りの建物。
高い天井を8本の円柱が支えている・・・
でも、ボルタンスキーの事は何も知らない。

7月15日、バンカートに行ってみた。

ドアを押し開け、中へ進む。薄暗い。
ホール中央に青白い映像が浮んでいる。
見覚えのない、男の大きな顔写真。
と、その顔が歪んでいく。

ポーーン。女性の声が闇に響く。
「ただいまから午後3時16分20秒を、お知らせします」
10秒ごとに、ポーーン。

映像は刻々と輪郭を変え、別人になる。
世代の異なる4つの顔を映し出し、元に戻る。
その間を埋める曖昧な顔。名前も知らない、無数の人々。

映像が、アナウンスが流れている。・・・時間が流れている。
何を伝えたいんだ? どこにアートがあるんだ?
だがこの時、もっと別の、何かが流れ始めていた。

ふと思う。この人達は死んでいるのかもしれない。
無限に連なる、死者の鎖?
白壁に張り付いた、丸いランプが淡くオレンジ色に灯っている。

部屋を出る。楽しくは、なかった。
外は明るかったが、どこまでも明るいわけではない。

前日からの台風。翌日の地震。
テレビに映し出された、被害者の顔。
2日後。なぜか、川のイメージが湧き上がる。
思考回路に、水が溢れている。

ボルタンスキーの事をインターネットで調べてみた。
どうやらこいつは、そういう作家らしい。

また一歩、死に近付いた気がする。
そこに行けば、会った事のないアナタガタが待っている。
アイツと一緒に待っている・・・その日がとても楽しみです。
けれどまだ、おれは行きませんよ。


ボルタンスキー氏から受け取った、謎のプレゼント。
今は開けずにおく。

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クリスチャン・ボルタンスキー プレゼンツ
La Chaine - 日仏現代美術交流展 より
会期:2007年7月6日(金)~8月26日(日)
会場:BankART 1929 Yokohama+BankART Studio NYK



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詳細不明 たぶん 2008-05-23頃 up

【アート】 日本サッカー界と アート界に 捧げる

2008-05-25 |  アートって、なにさ?
2006.
福住簾ゼミ
アート評
岩崎タクジ
七夕

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「限界-球技」


いったい何がゴールを成立させるのか? 何がアートを成立させるのか? 決定力不足の日本に提案したい。最終ラインを押し上げるために、有効かもしれない。

ボールが、プレーヤーが、相手ディフェンスを切り裂く。だが華麗なドリブルも、見事なキラーパスも、ゴールでない。決定的瞬間に放たれた豪快なシュートも、入らなければ得点でない。

ボールはゴールを割ったか? 体ごと押し込んでも、相手に当たってチョコンと入ってもゴールはゴール。必要なのは、ゴールへの執念? いや、根性論ではない。問題はゴールを生む文化! 一国的には縄文と弥生の相克である。ゴールという枠組みを身体的に文化的に構築する、解体する、必要がある。

一神教的な狩猟社会では、天の神に祈って一直線に獲物を射る。ゴールは標的なのだ。この世界ではオンタイムでボールがゴールを割ったと主審が判定すれば、ゴ~~ル! そのようにルールが、神が、存在する。

ところが八百万の神が偏在する農耕社会では、笹の葉さぁらさらと、軒端で願い事が揺れている。方向性のない祈り=文法のない言語が世界を形作っている。

我が国は、いまだに弥生式文化から抜け出していない。なので、ゴールゲットという身体的な幻想が制度として成立しない。八百万種類の神が存在すると言う事は、神が存在しないのと同じ事。バチだとか、ハジだとかは蔓延しているが、正確な意味でルールが成立しない。正確に言えば、正確な意味という概念すら成立しない。

立場を失った八百万の神は、とりあえず借り物の神を、ルールを設定した。八百万の神である弥生の神は、あたかも唯一の神であるかのように振る舞い、あちら側のオフサイドラインを押し上げてくる。実体のない幻想。そのようにして、長い時間をかけて、この国はワールドカップ=グローバル化への道を突き進むに到った。だが幸か不幸か、身体が付いていかない!

弥生時代も、そろそろ末期の様相を呈し始めている。歩み始めたグローバル化への道。行ったり来たりする事はあっても、大局的に見れば逆行できないだろう。とすれば、フォワ―ド=経済だけを前線に孤立させず、身体・文化ラインを押し上げなければならない。

文法を持たない八百万の神は、あちら側の神であると同時に、こちら側の神でもある。神も人も、ゴールとゴールの間を右往左往するだけ。


ならばいったい、どうすれば身体が付いて行くのか? 縄文へのルネサンス? それは無茶だ! ユニフォームを小細工しても手遅れである。

ここで話が飛ぶ。やけくそだ! 待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへウサギが飛んで出て、コロリ転げた木の根っこ。得点は、ありがたき拾い物である。これでは、勝てるわけがない!? って、はたして言い切れるだろうか?

あちらの神に、こちらの神に、収穫物を捧げる。いっそのこと、そんなサッカーに徹してみてはどうだろうか。ゴールが犯すことの出来ない祭壇ならば、シュートを捨てよう。身体がラインに付いて行くのではなく、ラインを身体に合わせよう。

ひたすら神々に感謝し、フィールドを耕そう。汗と涙を、お供えしよう! 事あるごとに愛を込め、あちらに向け、こちらへ向け、手当たり次第にパスして差し上げるのだ! 勝てないかもしれない。それ以前に、勝ち負けが成立しないかもしれない。だが現状も似たり寄ったりじゃないか。検討して欲しい。

神さまは見ていてくれる。いつの日かきっと、感謝の気持ちが通じ、ゴールという幻想の果実が実体として成立するだろう。いや違う。これは農本主義の提唱ではない。新興宗教でもない。待っていても、ゴールは成立しない。ゴールは今、ここにある。そう決めてしまおう。すでに、ここがゴ~~ル! なのだ。

雨ニモマケズ、神ニモマケズ・・・。そこにある。ここにある。そんなサッカー! そんなアート。想像力、創造力、それこそが決定力。資本が定義付ける前に、世界をゲットしよう。やばい。けっこう論理的かも??・・・んなわきゃ、ねえよな!

これまでの事は水に流そう。人に優しく! 自分に優しく! 短冊に願いを込めて、川に流そう・・・おかげさまでなにより。

2006.07.



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2008-05-18 16:00:00 up -about

【アート】 段ボール 肉まん

2008-05-25 |  アートって、なにさ?
2007.
福住簾ゼミ
ハマート!2

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「本物」 の 力

「段ボール肉まん」も、そのヤラセ報道も、なぜ説得力を持っていたんだろう?

普通の段ボールをしっかりと味つけした、古典的な味わいの本格派。
時間をかけて発酵させた風味豊かな皮に包んで、あつあつに蒸しあげました。
・・・なんちゃって。

以下は、あくまで僕の場合です。
平常心を1とすると、ただ肉まんを食べたい気持ちは1.5。
美味しい肉まんを紹介する、グルメ番組を見たとする。
その肉まんを食べたいと思う感動は、2~3だ。

だが、あのヤラセ報道!
「段ボール肉まん」を食べたくない度は10だった。
食べたいと思う気持ちさえ、4ぐらいあった。

この場合、感動の向き(+・―)は問題にしていません。
感動の絶対値、の話です。

肉まんと無関係に、段ボールなんか食べたくないという感覚は3ぐらいかな?
これは通常の場合の感覚値。強制されたら、拒否感は6だろう。

あの報道は、食べることを強制していない。
なのに、「食べたくない感」が増幅されている。
「食べたい感」まで加わっている。
どんな力が働いているんだろう・・・?

「段ボール肉まん」自体が持っている力。
しっとりと醤油で煮込んだ、ジュワッっとした質感。
ふっくらと蒸された、ほかほか感! 本物でないのに、美味しそう!
ウソを本物らしさに包み込む、その堂々力。
それ自体は本物を主張していないにもかかわらず、だ。
煮込んで、刻んで、蒸すあたりが、たまらない。

だから食べたくなっちゃうのだ。
食べたくなっちゃうから、食べたくないのだ。
感動が膨らんじゃうのだ。

「あるかもしれない感」を的確に掴み取った、映像の力も大きい。
本物! と思わせるテクニック。ディテールの描写。
不衛生さのリアリズム。生活感・手作り感の醸し出す、それらしさ。

いかにも怪しい、見世物を覗き込むような雰囲気も一役買っている。
人は皆、騙されたい願望を持っているようだ。
毒と知りつつ手を出したくなる、誘惑。

これぞ虚実皮膜の反転力。・・・表現の世界は、深い!?

で、結論。 「本物」って、そんなもんだと思う。


2007.09.



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詳細不明 たぶん 2008-05-23頃 up

【古い! ニュース】 2008-05-18 ??:??:?? ~

2008-05-22 |  「SANPO」 あれこれ

【ニュース-5月18日版】

次回の「お・ど・る/SANPO」は・・・?

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次は、6月8日(日)。
前回同様、雨でもそれなりに・・・

時間・場所など、詳細未定。
決まり次第、載せたい。

コンセプト、半決まり!
「歩かない散歩」

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今後、毎月第2日曜日は「お・ど・る/SANPO」の日としたい。
もっと増やしていきたいけど、とりあえずそうしたい。

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【速報-5月22日朝】

ワーイワイ、キサカミオさんから着々と写真が届く。

コメントまで貰っちゃった。わがブログ、初です。
だけどまだ、コメントの使い方が良く分かんないので、とりあえずここで

「ミオさん、ありがとう」

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ミオさんの写真。すでに昨日、9枚アップしています。
ここでは新着のものから、とりあえず2つ。

残りは改めて・・・。

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という事で、
2008-05-23 12:05:17に、 無事 ≪お・ど・る/SANPO≫写真展2 をアップ。
2つの写真は、そちらへ移動しました。
     ↑
その後 転々としましたが、 現在は ・・・  【写真館 B】 に、 並んでます。



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