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追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶/李時雨

2011年09月27日 | NPO三千里鐵道ニュース
二世紀の歴史を見つめた眼差し

追慕文ーパク・ヨンギル長老様に対する追憶

2011年09月26日(月)ckkimtongilnews.com


イ・シウ専門記者(写真家、平和運動家)




少女パク・ヨンギルは京幾女学校を経て日本、横浜女子神学校に通っていた時期、関東朝鮮神学生会の集会で青年文益換に会って、結婚を決心する。
しかし文益換が肺結核を病んでいたのでご両親は結婚を反対した。
だがパク・ヨンギルは
“半年だけ生きても良い。 この男と結婚できないならば一生独身で生きる”
と家を説得した。
パク・ヨンギルはこのかわいそうな青年と結婚して6ヶ月後に死ねば、残りは一生伝道に捧げる決心であった。


二人の熱愛は実を結び、1944年6月17日安東教会で結婚式を挙げることになった。 時は植民時代最後の頂点ー戦争の中で咲いた夢のような愛の結実であった。


解放後の46年満州避難民収容所から、家族と難民を連れ歩いて歩いて鴨緑江を越え新義州に着き、また38度線を越えてソウルに達する大長征を決行した。

パク長老が満州で生活した時間は、2年ほど。
パク長老が満州を離れた後、祖国の解放は分断になった。分断は戦争になり、戦争は独裁を産んだ。


しばらくして私たちは文益換という巨木を発見する。 当時1989年ムン牧師が平壌訪問を決めた後躊躇すると、すぐにパク長老は“私の夫がこのように優柔不断だとは思わなかった”として決断を促したそうだ。

夫の遺志を継ぎパク長老は、 1995年6月金日成主席死亡1周忌に平壌訪問を決行。

2011年9月25日パク・ヨンギル長老様の訃告が伝えられた。
パク長老様の逝去とともに、その目に宿した時代も共に消えた。
あなたは誰のため、弔鐘を打ちますか?



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