さて、前回の続きです。
今回は、悪い方、つまりマイナス方向の煩悩に狂わされた世界のお話です。
怖いですねえ。
4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」
これを、またまた二つに分けます。
5「阿修羅、餓鬼、畜生」
6「地獄」
5は、それぞれに特徴を持つ、マイナス感情に支配された世界だとお考え下さい。
6は、5の世界をひっくるめた総称だと思ってください。
「地獄」には地獄の恐ろしい特性があるのですが、それは後回しとして、まずは、5を解説します。
「阿修羅」
怒りや憎悪に我を失った状態。
つまりは、争いの世界ですね。
怒ってますか?
はい。
争ってますか?
はい。
自分で応えてしまいましたが、かなり頻繁に、この世界に落っこちています。
駄目ですよ。
怒っても、争っても、良いことなんて一つもないんですから。
それは、誰でもわかってることなのです。
平和が一番。
でも、無理なんです。
カーッと頭に血が上ると、頭の中では「ドラゴン怒りの鉄拳」のテーマ「Fist Of Fury」が怪鳥音入りで鳴り始めます。
それが、「男たちの挽歌最終章・狼」のテーマ「淺醉一生」に変われば、いよいよ静かに戦闘モード突入です。
なんてのは、私だけだと思いますが、意味不明で申し訳ありません。
あ、リンク貼っといた方がいいですか?
それはさておき、みなさんも、小さく大きく、順調に落っこちてらっしゃいますよね?
怒りに我を忘れた阿修羅の世界は、よーくご存じのはずです。
我を忘れる自覚は無くとも、右に左に、揺さぶられまくってますね。
そう、それですよ。
次行きます。
「餓鬼」
欲のために我を失った状態。
いわゆる、欲に目が眩んだというやつです。
阿修羅よりは状況が複雑かもしれませんね。
欲には様々な種類がありますから。
「嫉妬」や「向上心」「独占欲」などもこの世界の種でしょうからね。
餓えた鬼ですから、常に飢餓状態です。
欲しい、欲しい、ああなりたい、こうなりたい、あれがしたい、これがしたい、ああして欲しい、こうして欲しい。
薬物欲しいなら警察が止めてくれるかもしれませんが、誰も止めてはくれません。
「欲しい」は常に暴走します。
しまいに我を失います。
餓えた鬼「餓鬼」の完成です。
ちょっと、鏡の前に立ってみてください。
はい、それが餓鬼の顔です。
欲に支配された、卑しい顔になってませんか?
ま、皆さんに限っては、そのようなことは無いかとも思いますが、この世界、餓鬼の世界にも、けっこう頻繁に落っこちております、私。
これ、なかなか気付けないのが辛い所なんですが、この餓えた世界がベースで生きてるような気すらしますね。
はい、欲に目が眩んで、我を忘れているのが、餓鬼の世界でした。
じゃあ、次。
「畜生」
理性を失った状態。
特徴は、言葉を失っていることです。
一般的には、人間でない動物が「畜生」だ、などと失礼なことを思われていて、
「悪いことすると、来世は人間に生まれられないぞ、畜生堕ちだ。」
などと言われているわけですが、動物さんたち、ごめんなさい。
人間の方が、よっぽど「畜生」なんだと思います。
動物には生存本能が備わっていますから、当然、煩悩はあると考えられます。
ところが、そうとも言えないのではないかと思うのです。
確かに、「煩悩」は生存本能から発達します。
しかし、生存本能を「煩悩」にまで、際限が無いかの如く膨らませることができるのは、人間だけではないかという気がするのです。
だから、人間以外の動物には「煩悩」が無いとまでは言えないものの、人よりはマシ?というか、仏様に近いんじゃないかと思うのです。
菩薩の位で言うなら、人間よりも、かなり上位ランクにいらっしゃるんじゃないですか?
正直、私、動物を「畜生」と呼ぶことに抵抗があるんですよ。
まあ、私、犬猫馬鹿なだけじゃなく、小鳥だとか、魚だとか、カタツムリだとか、色々馬鹿なので、「うちの子は、俺の気持ちを理解してる」だとか、「俺の言うことがわかってる」だとか、思い込んでますからねえ。
それで、そう思うのかもしれませんが、いずれ、論理的に解明してみたいと思います。
なので、ここでは、従前からの動物観に基づいてお話しします。
動物(畜生)と人間との違いは、動物(畜生)が言葉を持たないことですね?
それと同時に、動物(畜生)には言語で組み立つ論理的思考によって成り立つ「理性」というものがない。
と、こんな風に考えられてきたわけです。
いろんな動物がいるけれど、人間は違う!人間だけは違うんだ!
と、されてきたのです。
ま、そうですね。
言葉があるから、それで、お互いにコミュニケートすることで、理性的に、無益な争いを避けることができる。
まあ、こんな理屈が成り立つわけですよ。
数多存在する動物たちの中で、唯一、人間だけは、理性に基く「話し合い」によって、問題を解決し、争いを避ける能力を持っている、と。
じゃあ、人間が言葉を失ってしまったら、話し合うことができなくなってしまったら、どうなってしまうのか?
「畜生」に堕ちてしまいますよ、と、いうことですね。
それを言うなら、家の猫たちだって、
「ニャーウ!」
「ニャニャッ!」
「ナーーーー!」
「キュッ!」
とか言って、話し合ってますから、畜生以下・・・、くどいですね。
ごめんなさい。
話を戻しますが、言葉を失うったって、言葉は知ってるし、耳も聞こえるし、そこは大丈夫だろうなんて、安心しないでくださいね。
私、皆さんにお伺いしたいと思います。
話し合えてますか?
口から音は出てるでしょうが、ちゃんと言葉を話せてますか?
耳は聞こえるでしょうが、ちゃんと言葉として聴こえていますか?
意外と難しいんですよ、これ。
ちゃんと話せていないし、聞けていないのでは?
何年もの間、某所での会議の席にいる私は、耳を閉じ、言葉を忘れ、自ら畜生以下に身を落とし、終了時間が来るのを待ちわびていたものでした、って、そういうことではありません。
相手の言葉を、理解しようという意思を持って聞くことができているか?
自分の思いを、相手に理解してもらおうという意思を持って話すことができているのか?
ということですよ。
できてますか?
割と、できていませんよね?
自分の思いをぶつけるだけだったり、聴いてもいないのに頷いてみたり、そんな自分に気付いてますか?
まあ、どちらかと言えば、「聞く」ことの方が難しいかもしれませんね。
親鸞聖人も仰っておられます。
ちゃんと聴くことができれば、ちゃんと話すこともできるようになります。
それが、「話す」が先に来ると、「聞く」ことが疎かになりがちです。
まずもって、「聞く」ことを心がけたいですよね。
実は、この「聞くことが難しい」という話は、私、看護学校の生命倫理の講義で、毎年、必ず話すことにしてるんですよ。
宗教的掟と言えるような、はっきりとした倫理観を持たない日本人は、多くの人と「話し合う」ことでしか、倫理観を育てられないんだと思ってるもんですから。
ついでに、「話し合い」の実習も、二コマ分くらい時間を取って、してもらっています。
学生が話し合っている間は、看護師さんの卵たちを眺めながら休憩できますからねえ。
それはそうと、「話し合う」って、実習が必要なくらい難しいことだと思うんですよ。
同じ日本語を話す者同士なのに、言葉の通じない外国人との方が、むしろ通じ合える。
なんて、気分にさせられたことはないですか?
私、度々あります。
どっちに責任があるのかは、わかりませんけどね。
「話せばわかる」
「問答無用!」
ての、どっかにありましたよね?
それでも、「問答無用」だと、きちんと答えてくれてるだけ、随分マシですけど。
話し合えるはずの人間なのに、話し合えなくなるのが「畜生」なんだと、ご理解ください。
(見真塾サルブツ通信Vol.0026より)
今回は、悪い方、つまりマイナス方向の煩悩に狂わされた世界のお話です。
怖いですねえ。
4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」
これを、またまた二つに分けます。
5「阿修羅、餓鬼、畜生」
6「地獄」
5は、それぞれに特徴を持つ、マイナス感情に支配された世界だとお考え下さい。
6は、5の世界をひっくるめた総称だと思ってください。
「地獄」には地獄の恐ろしい特性があるのですが、それは後回しとして、まずは、5を解説します。
「阿修羅」
怒りや憎悪に我を失った状態。
つまりは、争いの世界ですね。
怒ってますか?
はい。
争ってますか?
はい。
自分で応えてしまいましたが、かなり頻繁に、この世界に落っこちています。
駄目ですよ。
怒っても、争っても、良いことなんて一つもないんですから。
それは、誰でもわかってることなのです。
平和が一番。
でも、無理なんです。
カーッと頭に血が上ると、頭の中では「ドラゴン怒りの鉄拳」のテーマ「Fist Of Fury」が怪鳥音入りで鳴り始めます。
それが、「男たちの挽歌最終章・狼」のテーマ「淺醉一生」に変われば、いよいよ静かに戦闘モード突入です。
なんてのは、私だけだと思いますが、意味不明で申し訳ありません。
あ、リンク貼っといた方がいいですか?
それはさておき、みなさんも、小さく大きく、順調に落っこちてらっしゃいますよね?
怒りに我を忘れた阿修羅の世界は、よーくご存じのはずです。
我を忘れる自覚は無くとも、右に左に、揺さぶられまくってますね。
そう、それですよ。
次行きます。
「餓鬼」
欲のために我を失った状態。
いわゆる、欲に目が眩んだというやつです。
阿修羅よりは状況が複雑かもしれませんね。
欲には様々な種類がありますから。
「嫉妬」や「向上心」「独占欲」などもこの世界の種でしょうからね。
餓えた鬼ですから、常に飢餓状態です。
欲しい、欲しい、ああなりたい、こうなりたい、あれがしたい、これがしたい、ああして欲しい、こうして欲しい。
薬物欲しいなら警察が止めてくれるかもしれませんが、誰も止めてはくれません。
「欲しい」は常に暴走します。
しまいに我を失います。
餓えた鬼「餓鬼」の完成です。
ちょっと、鏡の前に立ってみてください。
はい、それが餓鬼の顔です。
欲に支配された、卑しい顔になってませんか?
ま、皆さんに限っては、そのようなことは無いかとも思いますが、この世界、餓鬼の世界にも、けっこう頻繁に落っこちております、私。
これ、なかなか気付けないのが辛い所なんですが、この餓えた世界がベースで生きてるような気すらしますね。
はい、欲に目が眩んで、我を忘れているのが、餓鬼の世界でした。
じゃあ、次。
「畜生」
理性を失った状態。
特徴は、言葉を失っていることです。
一般的には、人間でない動物が「畜生」だ、などと失礼なことを思われていて、
「悪いことすると、来世は人間に生まれられないぞ、畜生堕ちだ。」
などと言われているわけですが、動物さんたち、ごめんなさい。
人間の方が、よっぽど「畜生」なんだと思います。
動物には生存本能が備わっていますから、当然、煩悩はあると考えられます。
ところが、そうとも言えないのではないかと思うのです。
確かに、「煩悩」は生存本能から発達します。
しかし、生存本能を「煩悩」にまで、際限が無いかの如く膨らませることができるのは、人間だけではないかという気がするのです。
だから、人間以外の動物には「煩悩」が無いとまでは言えないものの、人よりはマシ?というか、仏様に近いんじゃないかと思うのです。
菩薩の位で言うなら、人間よりも、かなり上位ランクにいらっしゃるんじゃないですか?
正直、私、動物を「畜生」と呼ぶことに抵抗があるんですよ。
まあ、私、犬猫馬鹿なだけじゃなく、小鳥だとか、魚だとか、カタツムリだとか、色々馬鹿なので、「うちの子は、俺の気持ちを理解してる」だとか、「俺の言うことがわかってる」だとか、思い込んでますからねえ。
それで、そう思うのかもしれませんが、いずれ、論理的に解明してみたいと思います。
なので、ここでは、従前からの動物観に基づいてお話しします。
動物(畜生)と人間との違いは、動物(畜生)が言葉を持たないことですね?
それと同時に、動物(畜生)には言語で組み立つ論理的思考によって成り立つ「理性」というものがない。
と、こんな風に考えられてきたわけです。
いろんな動物がいるけれど、人間は違う!人間だけは違うんだ!
と、されてきたのです。
ま、そうですね。
言葉があるから、それで、お互いにコミュニケートすることで、理性的に、無益な争いを避けることができる。
まあ、こんな理屈が成り立つわけですよ。
数多存在する動物たちの中で、唯一、人間だけは、理性に基く「話し合い」によって、問題を解決し、争いを避ける能力を持っている、と。
じゃあ、人間が言葉を失ってしまったら、話し合うことができなくなってしまったら、どうなってしまうのか?
「畜生」に堕ちてしまいますよ、と、いうことですね。
それを言うなら、家の猫たちだって、
「ニャーウ!」
「ニャニャッ!」
「ナーーーー!」
「キュッ!」
とか言って、話し合ってますから、畜生以下・・・、くどいですね。
ごめんなさい。
話を戻しますが、言葉を失うったって、言葉は知ってるし、耳も聞こえるし、そこは大丈夫だろうなんて、安心しないでくださいね。
私、皆さんにお伺いしたいと思います。
話し合えてますか?
口から音は出てるでしょうが、ちゃんと言葉を話せてますか?
耳は聞こえるでしょうが、ちゃんと言葉として聴こえていますか?
意外と難しいんですよ、これ。
ちゃんと話せていないし、聞けていないのでは?
何年もの間、某所での会議の席にいる私は、耳を閉じ、言葉を忘れ、自ら畜生以下に身を落とし、終了時間が来るのを待ちわびていたものでした、って、そういうことではありません。
相手の言葉を、理解しようという意思を持って聞くことができているか?
自分の思いを、相手に理解してもらおうという意思を持って話すことができているのか?
ということですよ。
できてますか?
割と、できていませんよね?
自分の思いをぶつけるだけだったり、聴いてもいないのに頷いてみたり、そんな自分に気付いてますか?
まあ、どちらかと言えば、「聞く」ことの方が難しいかもしれませんね。
親鸞聖人も仰っておられます。
ちゃんと聴くことができれば、ちゃんと話すこともできるようになります。
それが、「話す」が先に来ると、「聞く」ことが疎かになりがちです。
まずもって、「聞く」ことを心がけたいですよね。
実は、この「聞くことが難しい」という話は、私、看護学校の生命倫理の講義で、毎年、必ず話すことにしてるんですよ。
宗教的掟と言えるような、はっきりとした倫理観を持たない日本人は、多くの人と「話し合う」ことでしか、倫理観を育てられないんだと思ってるもんですから。
ついでに、「話し合い」の実習も、二コマ分くらい時間を取って、してもらっています。
学生が話し合っている間は、看護師さんの卵たちを眺めながら休憩できますからねえ。
それはそうと、「話し合う」って、実習が必要なくらい難しいことだと思うんですよ。
同じ日本語を話す者同士なのに、言葉の通じない外国人との方が、むしろ通じ合える。
なんて、気分にさせられたことはないですか?
私、度々あります。
どっちに責任があるのかは、わかりませんけどね。
「話せばわかる」
「問答無用!」
ての、どっかにありましたよね?
それでも、「問答無用」だと、きちんと答えてくれてるだけ、随分マシですけど。
話し合えるはずの人間なのに、話し合えなくなるのが「畜生」なんだと、ご理解ください。
(見真塾サルブツ通信Vol.0026より)