さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【二種回向論 その2】

2020-07-23 15:15:18 | 仏教講座
まず、整理しておきましょう。


「(浄土へ)往く姿(相)」=「往相」
「(浄土から)還る姿(相)」=「還相」


で、「還る」のが先ですよ、というのが前回の結論でしたね。
「還る」のが先ということは、「還る」主体と、「往く」主体が別だということを表わします。
一つの主体が「往還」するわけじゃない、ということです。


結論から言うと、「往」も「還」も、単に方向性を示しているにすぎません。
この世(穢土)から、あの世(浄土)へと向かう矢印が「往」
あの世(浄土)から、この世(穢土)へと向かう矢印が「還」
ということです。


「穢土→浄土」=「往」主体は人
「穢土←浄土」=「還」主体は仏
となり、「往」「還」それぞれに姿(相)があります。
前にもお話ししていますが、
「主体」の見極め!
これだけですね、重要なのは。


「往」の姿、すなわち「往相」とは、
「人が浄土へ往くことを願い生きる姿」
つまり、人が「穢土」から「浄土」へと向かう姿ですね。
「還」の姿、すなわち「還相」とは、
「仏が人を浄土へと導く姿」
つまり、仏が「浄土」から「穢土」へと働きかける姿です。


なので、「還相」が先になるわけです。
わかりましたか?
要するに、人は、仏から働きかけられないと、成仏なんて願いもしない、ということです。


仏様が、
「お前も成仏できるんだよ」
「成仏するために浄土へ来なさい」
と、呼びかけて下さらなければ、人は、成仏できることも知らないばかりか、仏の存在にすら気が付くことができないのです。
仏様から働きかけられて、はじめて、
「浄土に生まれたい」
「成仏したい」
と、思えるようになるのです。


私たちがお参りする。
私たちが手を合わせる。
私たちが神仏を念ずる。


そんな信仰的営みが、学習無しにできると思いますか?
自然と・・・・・・。
そうですね。
知らないうちに学習していたから、できるんですね。
学習したという自覚がないまま、学習できてたんですね。
それが、阿弥陀様の「回向」です。


「神仏には手を合わせなさいよ」(還相)
と、仏様が教えて下さったから、
「私たちが神仏に手を合わせる」(往相)
これも、
「阿弥陀如来の「回向」が私たちの上に「成就」した」
という一つの証になるんですね。


誰に教わった覚えもないけれど、誰かに教えられて、誰かを見て、いつの間にかそうしてきたけれど、確かに身についている。
最高の教育じゃないですか?


それが、校長先生である阿弥陀様と、先生方である諸仏による、私たちへの教育(回向)です。
仏様方の、ひとかたならぬご苦労が「還相」です。
そんな教育をいただき、私たち劣等生が、やっと、ようやく、よちよちと歩き出す。
「浄土に往生して仏に成りたい。」
「成仏して、人のためになりたい」(これ、「菩提心」ですね)
と、覚束無い足取りで、歩み始める。
それが「往相」です。


仏様「仏道を歩みなさい」(還相)
人間「仏道を歩みます」(往相)


仏様「お念仏しなさい」(還相)
人間「お念仏します」(往相)


ここまで来ると、暴走しますよ、私。


天主様「神を信じなさい」(還相)
人間「はい、信じます」(往相)


アッラーフ様「神を称えなさい」(還相)
人間「はい、称えます」(往相)


ここまでは言える。


神様「生贄を捧げなさい」
人間「はい、捧げます」
こういうのは、違いますね。


神様「お賽銭入れなさい」
人間「は、入れます」
これは微妙だなあ。


坊主「お布施払え!」
人間「誰が払うか!」
それで良い。


教祖様「私を信じなさい」
信者「はい、信じます」
これ、最悪だね。


仏様「阿弥陀仏!」(還相)
人間「南無!」(往相)
これは、有りです。


「南無」(往相)「阿弥陀仏」(還相)と、往相還相が一つになった「南無阿弥陀仏」を、阿弥陀様が私たちに「回向」して下さっている。
と、煙に巻いて次回に続きます。


だからさあ、こういう問題は長くなるから・・・・・・。

(見真塾サルブツ通信Vol.0039より)


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