ここ数年、浄土真宗用語にまったく興味が無かったので、忘れかけていましたが、久しぶりに「二種深信」という言葉を聞き、色々と考えてしまいました。
なので、本日は、宗教とは切り離せない「信心」というか、「信じる」ということについて考えてみたいと思います。
ちなみに、「二種深信」というのは、「信じる」ということには、「機(人間)」についての「信心」と「法(阿弥陀如来)」についての「信心」と二種類ある、ということです。
「深信」=「信心」です。
「自分はダメ人間だから、成仏なんてできるわけがないと深く知れ」(機の深信)
「そんな自分でも成仏させてくださるという、阿弥陀様を深く信じろ」(法の深信)
もっと簡単に言えば、
「南無」(機の深信)
「阿弥陀仏」(法の深信)
「南無阿弥陀仏」(機法一体)
ということです。
結論から言えば、「一体になるなら分けるんじゃねえ!」と、いうことになります。
これは、本願寺を一代で日本最大の教団にしてしまった怪物、蓮如上人が好んだ考え方ですね。
蓮如上人の手法は、はっきり言えば、洗脳だったと考えるべきです。
日本全カルトの祖とも揶揄されていますが、まさしく、そうだと思います。
「お前はダメな奴だと心を折る」(機の深信)
「それでも阿弥陀様だけはお前を見捨てない、と刷り込む」(法の深信)
この手法、今でも東本願寺系に残っています。
まあ、宗教は須らくカルトで、洗脳は主たる布教手段ですから、蓮如上人が悪い人だとは思いません。
が、本願寺の拡大という目的には忠実でも、親鸞聖人の教えには忠実でなかったのだと思います。
それは、「信心決定」という言葉が大好きだというところに、如実に表れています。
「信心決定」とは、信心が定まった、ということですから、つまりは、
「(阿弥陀如来を)信じることができた!」
と、いうことです。
これ、言い方を変えると、「信者になった」ですよね?
結局、
「お前も、ようやく信じられたようじゃのう。これで、一人前の信者じゃ!」
と、丸め込んでいったわけです。
なぜ、こんなことを言うのかというと、それは、親鸞聖人は、
「ダメ人間(機)に、阿弥陀様(法)が信じられる(深信)わけがないだろ!あ!」
というお考えに立たれているからです。
最初に話題にした「二種深信」ですが、成立不可ですね。
「信心決定?お前、馬鹿?」
というお立場だと、ご了解ください。
「人間の心(信を含む)は定まることが無い」
親鸞聖人の立ち位置は、常にここです。
阿弥陀如来を信じることはできないし、できなくても構わないのです。
私は、宗教言語を「相対語」と「絶対語」の二種類に分けて考えています。
例えば、「勝」「負」は相対語です。
「勝者」がいれば、必ず「敗者」が存在します。
「大小」もそうですね、比べる対象があるから、「大」があり「小」があります。
一方、例えば、「真偽」はそうではありません。
「真」であるならば、「偽」ではないのです。
「偽」であるならば、「真」ではありません。
両立しない言葉が絶対語です。
「信」も絶対語です。
「信」と「疑」は両立しません。
「半分信じてる」は「疑っている」です。
「ほとんど信じてる」も「疑っている」です。
「99%信じていたのに」は「疑っていたよ」です。
ほんのわずかでも「疑い」があれば、それは「信」ではなく「疑」でしかないのです。
「信」は100%「no doubt(by Sex Pistols)」です。
と、ふざけて良い場面ではないかもしれません。
例えば、
「こいつは俺の味方だ!俺は信じてる!」
その人が手にした匕首が、あなたの腹の肉を突き破り、内臓に届きそうな時に至っても、それでも、そう言えますか?
親鸞聖人がお考えになられた「信」は、それ程の、いや、それ以上の「信」なのです。
「ブルータス、お前もか」
と、なるなら「信」は成立しないのです。
そこまで厳しく、自らの「信」を問い詰められた親鸞聖人は、終に、
「人間を主体としての「信」は成立しない」
という結論に至られたということです。
従って、人間の「信心」が「決定」することは、間違ってもありません。
「決定」しているのは、阿弥陀如来が、
「お前たちは、一人残らず、必ず成仏できるんだよ」
と、私たち人間を信じてくださっているという、その「信心」なのです。
要するに、私たちが阿弥陀さんを信じているのではなく、阿弥陀さんが、私たちを信じてくださっているのです。
私たちは、「信じられている」んですよ。
誰も信じてくれなくても、阿弥陀様には「信じられている」んですよ。
と、いうのが、親鸞聖人の「信心」です。
それは、阿弥陀さんのお心なので「大信心」と表現されています。
「信じなくても救われる」
という信仰は、非常に珍しいのではないかと思います。
普通は、「信じる者は救われる」ですよね?
「信じなくてもいいよ」
と、仰ってくださる阿弥陀様は、なんてご奇特なお方でしょう、と、私、「仏説無量寿経」というお経を読む度に感心しているのですが、考えてみると、しょうがないことなんですよね。
だって、私たち、人間だから。
「信じる」という能力が無いんですよ。
もし、成仏するのに「信じる」という条件が付いていたら、阿弥陀様、誰も成仏させられなくなってしまいます。
阿弥陀如来の目標は「すべての人間を成仏させる」ということですから、それでは困ります。
だから、目標達成のためには、成仏させるしかないんですねえ、信じてくれない奴らでも。
もちろん、私に阿弥陀様を信じることができたならば、より、幸せな人生が送れるのではないかと想像はしています。
でも、無理なんです。
信じられないように、作られてしまっているから。
疑うように、出来ちゃっているから。
「疑う」というのは「自己防衛本能」ですからね。
信じられなくとも、仕方のないことなのです。
ま、でも、それでも、「信じたい」と願うこと、「信じよう」と頑張ることは、悪いことではないですよね、仏様のことも、他人のことも。
ちなみに、私が妻に疑われているのは、妻の防衛本能が働いているからではなく、私の行動が明らかにおかしいからだと思います。
本日の結論
1 信じられるなんて思うなよ。
2 信じていると思う自分がいたら、その自分を疑え。
3 仏様には、信じられているんだよ。
(見真塾サルブツ通信Vol.0028より)
なので、本日は、宗教とは切り離せない「信心」というか、「信じる」ということについて考えてみたいと思います。
ちなみに、「二種深信」というのは、「信じる」ということには、「機(人間)」についての「信心」と「法(阿弥陀如来)」についての「信心」と二種類ある、ということです。
「深信」=「信心」です。
「自分はダメ人間だから、成仏なんてできるわけがないと深く知れ」(機の深信)
「そんな自分でも成仏させてくださるという、阿弥陀様を深く信じろ」(法の深信)
もっと簡単に言えば、
「南無」(機の深信)
「阿弥陀仏」(法の深信)
「南無阿弥陀仏」(機法一体)
ということです。
結論から言えば、「一体になるなら分けるんじゃねえ!」と、いうことになります。
これは、本願寺を一代で日本最大の教団にしてしまった怪物、蓮如上人が好んだ考え方ですね。
蓮如上人の手法は、はっきり言えば、洗脳だったと考えるべきです。
日本全カルトの祖とも揶揄されていますが、まさしく、そうだと思います。
「お前はダメな奴だと心を折る」(機の深信)
「それでも阿弥陀様だけはお前を見捨てない、と刷り込む」(法の深信)
この手法、今でも東本願寺系に残っています。
まあ、宗教は須らくカルトで、洗脳は主たる布教手段ですから、蓮如上人が悪い人だとは思いません。
が、本願寺の拡大という目的には忠実でも、親鸞聖人の教えには忠実でなかったのだと思います。
それは、「信心決定」という言葉が大好きだというところに、如実に表れています。
「信心決定」とは、信心が定まった、ということですから、つまりは、
「(阿弥陀如来を)信じることができた!」
と、いうことです。
これ、言い方を変えると、「信者になった」ですよね?
結局、
「お前も、ようやく信じられたようじゃのう。これで、一人前の信者じゃ!」
と、丸め込んでいったわけです。
なぜ、こんなことを言うのかというと、それは、親鸞聖人は、
「ダメ人間(機)に、阿弥陀様(法)が信じられる(深信)わけがないだろ!あ!」
というお考えに立たれているからです。
最初に話題にした「二種深信」ですが、成立不可ですね。
「信心決定?お前、馬鹿?」
というお立場だと、ご了解ください。
「人間の心(信を含む)は定まることが無い」
親鸞聖人の立ち位置は、常にここです。
阿弥陀如来を信じることはできないし、できなくても構わないのです。
私は、宗教言語を「相対語」と「絶対語」の二種類に分けて考えています。
例えば、「勝」「負」は相対語です。
「勝者」がいれば、必ず「敗者」が存在します。
「大小」もそうですね、比べる対象があるから、「大」があり「小」があります。
一方、例えば、「真偽」はそうではありません。
「真」であるならば、「偽」ではないのです。
「偽」であるならば、「真」ではありません。
両立しない言葉が絶対語です。
「信」も絶対語です。
「信」と「疑」は両立しません。
「半分信じてる」は「疑っている」です。
「ほとんど信じてる」も「疑っている」です。
「99%信じていたのに」は「疑っていたよ」です。
ほんのわずかでも「疑い」があれば、それは「信」ではなく「疑」でしかないのです。
「信」は100%「no doubt(by Sex Pistols)」です。
と、ふざけて良い場面ではないかもしれません。
例えば、
「こいつは俺の味方だ!俺は信じてる!」
その人が手にした匕首が、あなたの腹の肉を突き破り、内臓に届きそうな時に至っても、それでも、そう言えますか?
親鸞聖人がお考えになられた「信」は、それ程の、いや、それ以上の「信」なのです。
「ブルータス、お前もか」
と、なるなら「信」は成立しないのです。
そこまで厳しく、自らの「信」を問い詰められた親鸞聖人は、終に、
「人間を主体としての「信」は成立しない」
という結論に至られたということです。
従って、人間の「信心」が「決定」することは、間違ってもありません。
「決定」しているのは、阿弥陀如来が、
「お前たちは、一人残らず、必ず成仏できるんだよ」
と、私たち人間を信じてくださっているという、その「信心」なのです。
要するに、私たちが阿弥陀さんを信じているのではなく、阿弥陀さんが、私たちを信じてくださっているのです。
私たちは、「信じられている」んですよ。
誰も信じてくれなくても、阿弥陀様には「信じられている」んですよ。
と、いうのが、親鸞聖人の「信心」です。
それは、阿弥陀さんのお心なので「大信心」と表現されています。
「信じなくても救われる」
という信仰は、非常に珍しいのではないかと思います。
普通は、「信じる者は救われる」ですよね?
「信じなくてもいいよ」
と、仰ってくださる阿弥陀様は、なんてご奇特なお方でしょう、と、私、「仏説無量寿経」というお経を読む度に感心しているのですが、考えてみると、しょうがないことなんですよね。
だって、私たち、人間だから。
「信じる」という能力が無いんですよ。
もし、成仏するのに「信じる」という条件が付いていたら、阿弥陀様、誰も成仏させられなくなってしまいます。
阿弥陀如来の目標は「すべての人間を成仏させる」ということですから、それでは困ります。
だから、目標達成のためには、成仏させるしかないんですねえ、信じてくれない奴らでも。
もちろん、私に阿弥陀様を信じることができたならば、より、幸せな人生が送れるのではないかと想像はしています。
でも、無理なんです。
信じられないように、作られてしまっているから。
疑うように、出来ちゃっているから。
「疑う」というのは「自己防衛本能」ですからね。
信じられなくとも、仕方のないことなのです。
ま、でも、それでも、「信じたい」と願うこと、「信じよう」と頑張ることは、悪いことではないですよね、仏様のことも、他人のことも。
ちなみに、私が妻に疑われているのは、妻の防衛本能が働いているからではなく、私の行動が明らかにおかしいからだと思います。
本日の結論
1 信じられるなんて思うなよ。
2 信じていると思う自分がいたら、その自分を疑え。
3 仏様には、信じられているんだよ。
(見真塾サルブツ通信Vol.0028より)