※注意 誤解を招きやすい表現を含んでおりますので、理性でご対処下さい。戯論はお断りさせていただいております。仏教は争わない教えですから※
そもそも仏教というのは「争わない宗教」だと言われています。
そりゃそうですよねえ、「欲」や「執着」を否定するんですから、戦う理由が出てきません。
ましてや、仏教同士が争うなど、論理的にあり得ないことです。
その割に色々やって来たではないか!
と言われると、その通りではあるのですが、論争の枠を超えた思想的争いというのは、それ程あるものではありません。
ほとんどは、権力闘争であるとか、境界線争いであるとか、政治的、経済的理由で起こった争いでしかありません。
そもそも、日本では、宗派という概念などなかったんですから、論争にすらなりようがなかったわけです。
色々な入り口はあるけれど、「すべて仏説」なんだから、目指すところは同じ(成仏)だということで、折り合いがついたんでしょうね。
どっちが正しいとか、あまり、そこまで行かないのです。
「宗」というと、今では「セクト」「教団」を意味するようになってしまいましたが、同じ学部の中でゼミが違う程度の感覚だったのだと思います。
ところが、鎌倉時代以降、他宗は駄目だと敵視する集団が出てきます。
日蓮宗と蓮如上人以降の浄土真宗ですね。
「他宗は駄目だ!」という攻撃性に関しては、日蓮宗の方が激しいと思うのですが、他宗のやっていることを悉く否定した、という点では、蓮如上人以降の本願寺教団の方が尖がっていたと言わざるを得ません。
「すべて仏説」だと折り合いがつくことを、仏説だろうが何だろうが、知ったことか!という集団ができてしまったのですね。
日蓮宗については、それほど詳しくもないので語れませんが、浄土真宗の場合、
「弥陀一仏」
「神祇不拝」
「現世利益全否定」
「仏ほっとけ、神かまうな」
という「本願寺教団」が出来上がってしまったのですね。
浄土真宗他派は、本願寺ほど先鋭的では無かったように思われますし、蓮如上人以前の御歴代も、覚如上人を除けば、他宗と適当に折り合いをつけておられたというか、そんなに宗門意識を持たれてはいなかったと考えています。
まあ、実質的に宗門化なんてしていなかったわけですよ。
それが、蓮如上人の驚異的な布教力(洗脳力?)によって、ほんの数十年で日本一の勢力を誇る本願寺教団が出来上がる過程で、どんどん尖っていったのだと推測します。
もちろん、表向きには、蓮如上人が他宗との対立を煽っていたとは言えません。
蓮如上人は、繰り返し繰り返し、「他宗の方が偉い」だとか、「他の仏様も神様も敬いなさい」という趣旨の注意を門徒に与えておられます。
が、しかし、蓮如上人がお示しになられた、
「お前ら、信じろ!信じられたか!阿弥陀さん、最高じゃ!」
という、「本願寺」の浄土真宗教義は、必然的に、
「他の神様や仏様はいらない、阿弥陀さんだけいればいい!」
という空気を作り上げていったわけです。
解説書に、当たり前のように、
「浄土宗は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗は信心為本(信心が一番大切)」
と、浄土宗(法然上人)と浄土真宗(親鸞聖人)との違いが説明されていますが、これ、間違ってますからね。
親鸞聖人は「信心為本」なんてこと仰ってませんから。
だって、親鸞聖人は、
「私は、まだ、(阿弥陀様が)信じられないんだ」
と、告白なさった方ですよ?
人間には、確かなものを信じることさえままならない。
という立場を貫かれた方ですよ?
そんな方が「信心が一番大切」なんてことを、仰ると思えますか?
親鸞聖人は「念仏為本」です。
従って、
「浄土宗(法然上人・親鸞聖人)は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗(本願寺・蓮如上人)は信心為本(信心が一番大切)」
が正解です。
ところが、教科書に「浄土真宗(親鸞聖人)は信心為本」と書いてあって、試験でも、そう答えることを求められたりとしているうちに、これが正解だと思い込み、本当にそれが正しいのかどうか検証してみよう、という気にもならない人が多いんでしょうね。
なぜ、こんなところに話が飛んでいるかというと、「念仏為本」であれば他宗派を全否定する必要が無くなるんですよ。
浄土宗だけでなく、天台宗や禅宗、その他の宗派でも、お念仏されてますから。
中国仏教系のお坊様方なんて「阿弥陀仏」が挨拶ですよ。
つまり、「念仏為本(念仏が一番大切)」というところに立つと、前に出るのは「阿弥陀如来」ということになりますが、阿弥陀様は、浄土真宗だけの仏様じゃありませんからね。
「阿弥陀如来」の解釈は様々であったとしても、それ以前に、同じ仏様を拝んでいるという共通項を持つことになるのです。
ところが、「信心為本(信心が一番大切)」という立場に立つと、何よりも「自分」が前に出てしまうのです。
だって、「信心」の主体は「自分」でしょ?
いや、違う、「信心」の主体は阿弥陀さんだ、というのは正論ですが、ここ、混同しないで下さいね。
親鸞聖人のお考えに立てば、「信心」の主体は「阿弥陀如来」です。
「大信心」です。
前に、お話ししましたよね?
しかし、蓮如上人が「信心為本」だと仰る「信心」の主体は、明らかに「人間」なのです。
蓮如上人は、(恐らく)意図的に、阿弥陀様のお心である「大信心」を、人間の「(成立し得ない)信心」へと、すり替えてしまわれたのです。
何のために?
洗脳のため、ですよ。
「信じられなくても救われるんだよ(救われているんだよ)」
という、親鸞聖人の真骨頂は、かくして、
「信じる者は救われる」
「信じなければ救われない」
という一般則に引き戻されてしまいました。
それから600年ですよ・・・・・。
自分の「信じる」気持ちが問われる、というのは、大変なことなんですよね。
仏様に向かう前に、自分の心が問われるんですよ?
「お前、信じてるのか?」
「お前の信心は本物か?」
「お前に仏を拝む資格(信心)があるのか?」
信心、信心、信心信心、信心信心信心、うぎゃあ!ですよ。
果たして、「信心モンスター」の出来上がりです。
「自分の信じている阿弥陀様だけが、本当の阿弥陀様だ!」
「自分のしている念仏だけが、本当の念仏だ!」
心当たりある人いるでしょ?
「他力念仏」だの「自力念仏」だの言ってる、あなたですよ。
心当たりのない方は幸いです。
根拠のない自信は洗脳の証ですから。
仏様(「神」)が中心である信仰観と、自分(自分の分身的延長線上にあるセクト)が中心となる信仰観とは、まったく異質の信仰観となります。
現在の宗教界を見てみると、わかり易いと思います。
信心、信心と騒いでいるのは、浄土真宗と、カルトとも言われる新宗教、新新宗教くらいのものですよね?
ネットには、浄土真宗のことを「真宗カルト」と呼ぶ人が少なからずいますが、概ね、まっとうな分析だと思います。
親鸞聖人は違うのにね。
(見真塾サルブツ通信Vol.0029より)
そりゃそうですよねえ、「欲」や「執着」を否定するんですから、戦う理由が出てきません。
ましてや、仏教同士が争うなど、論理的にあり得ないことです。
その割に色々やって来たではないか!
と言われると、その通りではあるのですが、論争の枠を超えた思想的争いというのは、それ程あるものではありません。
ほとんどは、権力闘争であるとか、境界線争いであるとか、政治的、経済的理由で起こった争いでしかありません。
そもそも、日本では、宗派という概念などなかったんですから、論争にすらなりようがなかったわけです。
色々な入り口はあるけれど、「すべて仏説」なんだから、目指すところは同じ(成仏)だということで、折り合いがついたんでしょうね。
どっちが正しいとか、あまり、そこまで行かないのです。
「宗」というと、今では「セクト」「教団」を意味するようになってしまいましたが、同じ学部の中でゼミが違う程度の感覚だったのだと思います。
ところが、鎌倉時代以降、他宗は駄目だと敵視する集団が出てきます。
日蓮宗と蓮如上人以降の浄土真宗ですね。
「他宗は駄目だ!」という攻撃性に関しては、日蓮宗の方が激しいと思うのですが、他宗のやっていることを悉く否定した、という点では、蓮如上人以降の本願寺教団の方が尖がっていたと言わざるを得ません。
「すべて仏説」だと折り合いがつくことを、仏説だろうが何だろうが、知ったことか!という集団ができてしまったのですね。
日蓮宗については、それほど詳しくもないので語れませんが、浄土真宗の場合、
「弥陀一仏」
「神祇不拝」
「現世利益全否定」
「仏ほっとけ、神かまうな」
という「本願寺教団」が出来上がってしまったのですね。
浄土真宗他派は、本願寺ほど先鋭的では無かったように思われますし、蓮如上人以前の御歴代も、覚如上人を除けば、他宗と適当に折り合いをつけておられたというか、そんなに宗門意識を持たれてはいなかったと考えています。
まあ、実質的に宗門化なんてしていなかったわけですよ。
それが、蓮如上人の驚異的な布教力(洗脳力?)によって、ほんの数十年で日本一の勢力を誇る本願寺教団が出来上がる過程で、どんどん尖っていったのだと推測します。
もちろん、表向きには、蓮如上人が他宗との対立を煽っていたとは言えません。
蓮如上人は、繰り返し繰り返し、「他宗の方が偉い」だとか、「他の仏様も神様も敬いなさい」という趣旨の注意を門徒に与えておられます。
が、しかし、蓮如上人がお示しになられた、
「お前ら、信じろ!信じられたか!阿弥陀さん、最高じゃ!」
という、「本願寺」の浄土真宗教義は、必然的に、
「他の神様や仏様はいらない、阿弥陀さんだけいればいい!」
という空気を作り上げていったわけです。
解説書に、当たり前のように、
「浄土宗は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗は信心為本(信心が一番大切)」
と、浄土宗(法然上人)と浄土真宗(親鸞聖人)との違いが説明されていますが、これ、間違ってますからね。
親鸞聖人は「信心為本」なんてこと仰ってませんから。
だって、親鸞聖人は、
「私は、まだ、(阿弥陀様が)信じられないんだ」
と、告白なさった方ですよ?
人間には、確かなものを信じることさえままならない。
という立場を貫かれた方ですよ?
そんな方が「信心が一番大切」なんてことを、仰ると思えますか?
親鸞聖人は「念仏為本」です。
従って、
「浄土宗(法然上人・親鸞聖人)は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗(本願寺・蓮如上人)は信心為本(信心が一番大切)」
が正解です。
ところが、教科書に「浄土真宗(親鸞聖人)は信心為本」と書いてあって、試験でも、そう答えることを求められたりとしているうちに、これが正解だと思い込み、本当にそれが正しいのかどうか検証してみよう、という気にもならない人が多いんでしょうね。
なぜ、こんなところに話が飛んでいるかというと、「念仏為本」であれば他宗派を全否定する必要が無くなるんですよ。
浄土宗だけでなく、天台宗や禅宗、その他の宗派でも、お念仏されてますから。
中国仏教系のお坊様方なんて「阿弥陀仏」が挨拶ですよ。
つまり、「念仏為本(念仏が一番大切)」というところに立つと、前に出るのは「阿弥陀如来」ということになりますが、阿弥陀様は、浄土真宗だけの仏様じゃありませんからね。
「阿弥陀如来」の解釈は様々であったとしても、それ以前に、同じ仏様を拝んでいるという共通項を持つことになるのです。
ところが、「信心為本(信心が一番大切)」という立場に立つと、何よりも「自分」が前に出てしまうのです。
だって、「信心」の主体は「自分」でしょ?
いや、違う、「信心」の主体は阿弥陀さんだ、というのは正論ですが、ここ、混同しないで下さいね。
親鸞聖人のお考えに立てば、「信心」の主体は「阿弥陀如来」です。
「大信心」です。
前に、お話ししましたよね?
しかし、蓮如上人が「信心為本」だと仰る「信心」の主体は、明らかに「人間」なのです。
蓮如上人は、(恐らく)意図的に、阿弥陀様のお心である「大信心」を、人間の「(成立し得ない)信心」へと、すり替えてしまわれたのです。
何のために?
洗脳のため、ですよ。
「信じられなくても救われるんだよ(救われているんだよ)」
という、親鸞聖人の真骨頂は、かくして、
「信じる者は救われる」
「信じなければ救われない」
という一般則に引き戻されてしまいました。
それから600年ですよ・・・・・。
自分の「信じる」気持ちが問われる、というのは、大変なことなんですよね。
仏様に向かう前に、自分の心が問われるんですよ?
「お前、信じてるのか?」
「お前の信心は本物か?」
「お前に仏を拝む資格(信心)があるのか?」
信心、信心、信心信心、信心信心信心、うぎゃあ!ですよ。
果たして、「信心モンスター」の出来上がりです。
「自分の信じている阿弥陀様だけが、本当の阿弥陀様だ!」
「自分のしている念仏だけが、本当の念仏だ!」
心当たりある人いるでしょ?
「他力念仏」だの「自力念仏」だの言ってる、あなたですよ。
心当たりのない方は幸いです。
根拠のない自信は洗脳の証ですから。
仏様(「神」)が中心である信仰観と、自分(自分の分身的延長線上にあるセクト)が中心となる信仰観とは、まったく異質の信仰観となります。
現在の宗教界を見てみると、わかり易いと思います。
信心、信心と騒いでいるのは、浄土真宗と、カルトとも言われる新宗教、新新宗教くらいのものですよね?
ネットには、浄土真宗のことを「真宗カルト」と呼ぶ人が少なからずいますが、概ね、まっとうな分析だと思います。
親鸞聖人は違うのにね。
(見真塾サルブツ通信Vol.0029より)