さるぶつGOO

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【人は死んだらどうなるの?】

2020-06-18 13:04:45 | 仏教講座
「人は死んだらどうなるの?」
「人は死んだら仏になります。」


ま、そういうことです。
もう少し詳しく言えば、
「人は死んだら、浄土に往生して、仏に成る。」
これ以上は、詳しく言えません。


ちょっと、待てや!
そう言われても、これ以上のことは・・・・・。
そうじゃないですか?


私、お釈迦様が死後のことについて、何も仰らなかったのは、
「死んだら何も無くなる」
と、思われたくなかったからではないかと思うのです。
お釈迦様の時代には、今、我々が考えるような「仏」という概念もありませんでしたし。
困っていらっしゃったのではないかと、思うのです。


と、言うのも、「死んだら何も無くなる」というのも、あながち間違いだとは言えないからです。
間違いではないと言うか、実際、何も無くなるんですね。


例えば、Aという人が死んだとします。
Aという人は、その肉体とともに、思いも、恨み辛みも、喜びも悲しみも、そんな、Aという人の一切合切は、この世界から消え失せてしまいます。
骨は残るかもしれませんが、それは、Aという人ではなく、Aの遺物という、単なる物でしかありません。
それが、Aという人の「個」としての「死」です。
「個(人間)」としてのAは、跡形もなく消え失せます。


「故人の意思で」という台詞を耳にしますが、それは「故人の意思」を受け止めて実行しようという、生きている「他人(その人でない人)」の意思であり、故人の意思などではありません。
その証拠に、「故人の意思」というものは、しばしば捏造されるものです。
正式な遺言書であれば、故人の意思じゃないか?とか言います?
それは、生きていた、ある時点での、その人の意思が書かれた「物」であって、その人ではありません。
ましてや、その人が死後も同じ意思を持ち続けているかどうか、の確認もする術はありません。


死んだら何も無くなります。
それが、仏教が考える第一義的な死の姿です。
そのため、「仏教は唯物論だ」と、言う人たちもいます。


「人は死に、その肉体と共に無に帰する」


この命題は「真」であると言えるんです。
しかし!仏教は、そこでは終わりません。


「人は死に、人としての一切は無に帰するが、縁起(の一部)として、永遠に働き続ける」


これが、縁起という方程式に則った、仏教の死観です。
人は死んで無に帰するが、その人が生前に結ばれた縁は、どこまでも繋がり続け、その人が忘れ去られたとしても、永遠に消えることは無い。
と、言うことができますね。


「人は、縁起によって生じ、死によって縁起に還元される」
とも、言えますね。


先に、「故人に意思など無い」と言いましたが、故人が死ぬ前の意思が、その人と縁が繋がれた「他人」に継承される、ということは、普通にあります。
例えば、故人であるAさんの「生前の意思」を受けて、Bさんが、「故人の意思」としてAさんの意思を遂行する、というような場合ですね。
しかし、それは、Aさんの影響であったとしても、Bさん自身の意思で遂行されるのであって、Aさんという「故人の意思」で遂行されるのではないのです。
それが「Bさんの意思」ではなく「Aさんの意思」で遂行されたと考えるのは、美談ではあっても、責任転嫁でしかありません。
その場面でリアルタイムで働くことのできる「A(故人)の意思」など、存在しないのです。
こういったことの峻別ができないと、論理は組み立ちませんからね。
注意してください。


ただし!私は意地悪なので、皆さんを混乱させたいと思います。
あくまでも、上の論理を踏まえて、ということですが、
「Bさんが、Aさんの死後も、生前のAさんの意思を尊重しようとした」
という事実は、縁起に還元されたAさんが、実際に縁起として働いている証拠になるんじゃありませんか?
Bさんが、「ある意思」を持つに至った「縁」となって現働しているわけですからね、無になったはずのAさんが。
こういうの、怖いですよ。
末代まで祟ったりもできますからねえ。


次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0011より)


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