お約束通りに、今回は、阿弥陀さんに「救われる」とは、どういうことなのか?
それを考えてみたいと思います。
おそらく、一回では終わらないと思いますので、のんびりとお付き合いください。
とりあえず、私たちが阿弥陀さんに「救われる」とはどういうことなのか、思い付くことをならべてみましょう。
と、その前に、一つだけ前提条件を理解しておいてください。
それは、
「阿弥陀如来の救済は、すべての人間に平等に、かつ、無条件で与えられるものでなければならない」
ということです。
これは、非常に重要なポイントです。
詳しくは、いずれ説明するかもしれませんが、「平等かつ無条件」が親鸞聖人の真骨頂です。
この前提を忘れて考えると、茶番劇が始まります。
それでは、話を戻します。
阿弥陀さんの「救済」の内実として、まず第一に思い浮かぶのは、やはり、①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」ですか?
一応、浄土教という立ち位置にいるわけですからね。
しかし、これ、すべての人間に「平等かつ無条件」に与えられますか?
結論だけ言えば、「与えられる」んですが、浄土真宗のお坊さんに「すべての人間が往生して成仏する」と言うと、
「そんなことはないだろ、念仏しなければ、浄土には行けないよ」
と、反対される場合の方が、むしろ多いです。
「念仏しなければ、往生できない」
これは、思い込みであり、刷り込みであり、商業主義であります。
つまり、念仏するセクトに信者を誘導するための、意図的な誤読による洗脳の結果なのです。
プレーンな脳味噌で論理的に考えれば、
「人は、死んだら、往生して成仏する」
という、普遍則が理解できるはずです。
まあ、「念仏」「往生」「成仏」については、そのうち考えましょう。
次に、これまでお話ししてきたように、阿弥陀さんは「私が存在する原因のすべてである」というところから考えると、
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
ということも、阿弥陀さんに救われている、ということだと言えそうです。
ちょっと、表現が陳腐かもしれませんが、
②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」
③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」
と、まあ、この辺りが万人共通の阿弥陀如来の救済の内実でしょうかね?
人生に即して並べ替えると、②③①の順になるけれど。
整理すると、
「人(私)は、阿弥陀様の働きによって②生まれ、③生き、そして①成仏する」
つまり、私たちの人生そのものが、阿弥陀如来の救済の内にある、ということですね。
当然ですね。
私が存在する原因のすべてなのですから。
阿弥陀様に生かされて生きる私、ですね。
ここで、唐突ですが、話をお釈迦様に戻します。
お釈迦様の教えを簡潔にまとめると、
1 人間は死んだら生まれ変わることはない。
2 だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。
3 そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。
ということになります。
これだけです。
1を理解し、3によって、2の「今生の苦しみから逃れること」が達成されれば完成です。
宗教色は絶無ですね。
人生の指針とでも言えば良いのかな?
しかし、これ、言うのは簡単だけれど、達成するのは非常に難しいんですね。
誰も、お釈迦様の域には到達できない。
1を理解することすら難しい。
3で躓くので、2が見えない。
自分の力では、どうにもならないものだから、頼るべき縁を求めて、信仰対象としてのお釈迦様や、大乗仏教の無数の仏・菩薩が生み出されたのではないかと思います。
かくして、仏教は宗教となるわけですね。
「自分の力での123達成」をあきらめて、「仏の力を借りて123達成」を目指す、という方向に、仏教のベクトルが変わったのです。
しかし、お釈迦様の教え「123」は変わりません。
なので、「①②③」と「123」は密接に関わっています。
というか、ゴール設定の時間軸が違うだけ?
まあ、本日のところは投げっ放しにしておきますので、お考え下さい。
それを考えてみたいと思います。
おそらく、一回では終わらないと思いますので、のんびりとお付き合いください。
とりあえず、私たちが阿弥陀さんに「救われる」とはどういうことなのか、思い付くことをならべてみましょう。
と、その前に、一つだけ前提条件を理解しておいてください。
それは、
「阿弥陀如来の救済は、すべての人間に平等に、かつ、無条件で与えられるものでなければならない」
ということです。
これは、非常に重要なポイントです。
詳しくは、いずれ説明するかもしれませんが、「平等かつ無条件」が親鸞聖人の真骨頂です。
この前提を忘れて考えると、茶番劇が始まります。
それでは、話を戻します。
阿弥陀さんの「救済」の内実として、まず第一に思い浮かぶのは、やはり、①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」ですか?
一応、浄土教という立ち位置にいるわけですからね。
しかし、これ、すべての人間に「平等かつ無条件」に与えられますか?
結論だけ言えば、「与えられる」んですが、浄土真宗のお坊さんに「すべての人間が往生して成仏する」と言うと、
「そんなことはないだろ、念仏しなければ、浄土には行けないよ」
と、反対される場合の方が、むしろ多いです。
「念仏しなければ、往生できない」
これは、思い込みであり、刷り込みであり、商業主義であります。
つまり、念仏するセクトに信者を誘導するための、意図的な誤読による洗脳の結果なのです。
プレーンな脳味噌で論理的に考えれば、
「人は、死んだら、往生して成仏する」
という、普遍則が理解できるはずです。
まあ、「念仏」「往生」「成仏」については、そのうち考えましょう。
次に、これまでお話ししてきたように、阿弥陀さんは「私が存在する原因のすべてである」というところから考えると、
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
ということも、阿弥陀さんに救われている、ということだと言えそうです。
ちょっと、表現が陳腐かもしれませんが、
②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」
③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」
と、まあ、この辺りが万人共通の阿弥陀如来の救済の内実でしょうかね?
人生に即して並べ替えると、②③①の順になるけれど。
整理すると、
「人(私)は、阿弥陀様の働きによって②生まれ、③生き、そして①成仏する」
つまり、私たちの人生そのものが、阿弥陀如来の救済の内にある、ということですね。
当然ですね。
私が存在する原因のすべてなのですから。
阿弥陀様に生かされて生きる私、ですね。
ここで、唐突ですが、話をお釈迦様に戻します。
お釈迦様の教えを簡潔にまとめると、
1 人間は死んだら生まれ変わることはない。
2 だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。
3 そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。
ということになります。
これだけです。
1を理解し、3によって、2の「今生の苦しみから逃れること」が達成されれば完成です。
宗教色は絶無ですね。
人生の指針とでも言えば良いのかな?
しかし、これ、言うのは簡単だけれど、達成するのは非常に難しいんですね。
誰も、お釈迦様の域には到達できない。
1を理解することすら難しい。
3で躓くので、2が見えない。
自分の力では、どうにもならないものだから、頼るべき縁を求めて、信仰対象としてのお釈迦様や、大乗仏教の無数の仏・菩薩が生み出されたのではないかと思います。
かくして、仏教は宗教となるわけですね。
「自分の力での123達成」をあきらめて、「仏の力を借りて123達成」を目指す、という方向に、仏教のベクトルが変わったのです。
しかし、お釈迦様の教え「123」は変わりません。
なので、「①②③」と「123」は密接に関わっています。
というか、ゴール設定の時間軸が違うだけ?
まあ、本日のところは投げっ放しにしておきますので、お考え下さい。
(見真塾サルブツ通信Vol.0007より)