別に謎なんてないんです。
「坊主嫌い」という人には、「嫌い」な原因があります。
その原因なら、私だって実例を上げ乍ら24時間語り続けることができます。
「宗教団体が嫌い」という人にも、「嫌い」な原因があります。
過分に八つ当たりである傾向もありますが、許容範囲内だと思います。
腐ってる団体、多いです。
しかし、「宗教嫌い」と言う人のほとんどは、アホだからそう言うのです。
間違いありません。
何故か?
「宗教嫌い」な人達の圧倒的多数は、宗教について、ほとんど何の知識もないからです。
良く知りもしないのに批判するのは、頭が悪いだけでなく、人間としての品性にも欠けていると言わなければなりません。
前から歩いてきた見知らぬ人に、突然、「俺、あんた嫌い」と言うのと同じですからね。
「宗教なんて必要ない」と、言う人も同じですね。
たいていの場合は、頭の悪い人ですね。
必要があったから生まれたたわけですから。
そういう人は、
「神様なんて、所詮人間が作ったものだから、人間の方が偉いんだ。」
などと、吠えたりもしますが、愚かですねえ。
作ってないんですよ、人間は。
人間がしたのは、名前を付けることだけです。
出会ってしまった不可解な現象や、理解を越えた働きに、人間は名前を付けたのです。
人知を超えた、制御不能な力に、畏敬の念を込めて、名前を付けたのです。
そして、抗うことのできない力と親和する為に、信仰の対象としたのです。
人間は「神(仏)」を「創造」したのではなく、発見して名付けたのです。
だから、その「神(仏)」が、この世の創造主であるような大きなというか、宇宙レベルというか、グローバルというか、ま、とにかく、そんな「神(仏)」であった場合は、世界各地で、複数の人間に発見されます。
世界のどこかで、誰かが発見し、それぞれに名を付けられます。
後は、それぞれの地域に特有の歴史や文化、社会構造に育てられ、独自の宗教体系を持つ「異なる宗教」として育ち、今日に伝えられたりもしているわけです。
人間が作った「神」は、けっして「神」ではありません。
それは、政治や権力の道具にすぎません。
東照宮だとか、豊国神社だとかありますが、徳川家康や豊臣秀吉が「神」になったわけではありません。
彼らが死んで成ったのは、「仏」ですからね。
東照大権現様は、幕府が作った支配ツールなので、間違っても「神」ではありません。
だから、東照宮や豊国神社は、彼らを祀った仏壇だと思えばよろしいかと思います。
仏壇ですから、そのつもりで、敬意を持って手を合わせるべきだと思いますけどね。
「南無阿弥陀仏」です。
かつては、日本にも、発見され、大切に護られてきた神々が、大勢いらっしゃいました。
今となっては、どこへ行かれたかわからない神々や、忘れ去られた神々が大勢いらっしゃいます。
「神仏分離」「廃仏毀釈」「国家神道化」「神社合祀」などなどの、明治政府の暴挙によって、日本人の信仰形態は滅茶苦茶にされてしまったのです。
壊されたのは仏教だけではありません。
むしろ、神道の方が被害は大きかったのではないでしょうか。
なにしろ、その土地で発見され、その土地ならではの方法で、大切に信仰されてきた神様たちが神社から追い払われて、神だかどうだかわからない古事記や日本書紀の登場者(神もいらっしゃるとは思います)たちが、神殿に押し込まれたんですから。
その上、そこで神様が発見された、という証でもある土着性まで、経費削減のための強制的な引っ越しで奪われて、身も心もズタボロにされ、形骸化されてしまったのです。
政府が政治利用のために社に押し込んだ神など、神ではありません。
もう元には戻せませんが。
一例だけ上げると、「八坂神社」や「津島神社」は「牛頭天王社」ですからね。
「素戔嗚神社」なんかじゃないんです。
「牛頭天王社」だから、ドラマがあるんです。
「祇園祭」のドロドロなドラマが深く味わえるんです。
「祭神スサノオノミコト」では、薄っぺらなドラマですら描きようがありません。
だから、私は、維新の志士と呼ばれる人たちが大嫌いです。
明治政府を作った輩は、日本人の心と信仰を壊した大罪人だと思っています。
明治政府によって心が破壊されたことで、日本人の信仰心が形骸化してしまったのではないか?とさえ思います。
まあ、もとを糺せば、仏教にしても、神道にしても、国家権力と一体化して、権門として君臨していたわけですから、政権が代われば滅ぼされるのが当然ちゃ当然なんですけどね。
一番の被害者は、全国津々浦々にいらっしゃった、それでも、それぞれの土地で大切に護られてきた、名もなき神様仏様方かもしれません。
て、なんか、話が飛びましたが、本日はここまで。
(見真塾サルブツ通信Vol.0022より)
「坊主嫌い」という人には、「嫌い」な原因があります。
その原因なら、私だって実例を上げ乍ら24時間語り続けることができます。
「宗教団体が嫌い」という人にも、「嫌い」な原因があります。
過分に八つ当たりである傾向もありますが、許容範囲内だと思います。
腐ってる団体、多いです。
しかし、「宗教嫌い」と言う人のほとんどは、アホだからそう言うのです。
間違いありません。
何故か?
「宗教嫌い」な人達の圧倒的多数は、宗教について、ほとんど何の知識もないからです。
良く知りもしないのに批判するのは、頭が悪いだけでなく、人間としての品性にも欠けていると言わなければなりません。
前から歩いてきた見知らぬ人に、突然、「俺、あんた嫌い」と言うのと同じですからね。
「宗教なんて必要ない」と、言う人も同じですね。
たいていの場合は、頭の悪い人ですね。
必要があったから生まれたたわけですから。
そういう人は、
「神様なんて、所詮人間が作ったものだから、人間の方が偉いんだ。」
などと、吠えたりもしますが、愚かですねえ。
作ってないんですよ、人間は。
人間がしたのは、名前を付けることだけです。
出会ってしまった不可解な現象や、理解を越えた働きに、人間は名前を付けたのです。
人知を超えた、制御不能な力に、畏敬の念を込めて、名前を付けたのです。
そして、抗うことのできない力と親和する為に、信仰の対象としたのです。
人間は「神(仏)」を「創造」したのではなく、発見して名付けたのです。
だから、その「神(仏)」が、この世の創造主であるような大きなというか、宇宙レベルというか、グローバルというか、ま、とにかく、そんな「神(仏)」であった場合は、世界各地で、複数の人間に発見されます。
世界のどこかで、誰かが発見し、それぞれに名を付けられます。
後は、それぞれの地域に特有の歴史や文化、社会構造に育てられ、独自の宗教体系を持つ「異なる宗教」として育ち、今日に伝えられたりもしているわけです。
人間が作った「神」は、けっして「神」ではありません。
それは、政治や権力の道具にすぎません。
東照宮だとか、豊国神社だとかありますが、徳川家康や豊臣秀吉が「神」になったわけではありません。
彼らが死んで成ったのは、「仏」ですからね。
東照大権現様は、幕府が作った支配ツールなので、間違っても「神」ではありません。
だから、東照宮や豊国神社は、彼らを祀った仏壇だと思えばよろしいかと思います。
仏壇ですから、そのつもりで、敬意を持って手を合わせるべきだと思いますけどね。
「南無阿弥陀仏」です。
かつては、日本にも、発見され、大切に護られてきた神々が、大勢いらっしゃいました。
今となっては、どこへ行かれたかわからない神々や、忘れ去られた神々が大勢いらっしゃいます。
「神仏分離」「廃仏毀釈」「国家神道化」「神社合祀」などなどの、明治政府の暴挙によって、日本人の信仰形態は滅茶苦茶にされてしまったのです。
壊されたのは仏教だけではありません。
むしろ、神道の方が被害は大きかったのではないでしょうか。
なにしろ、その土地で発見され、その土地ならではの方法で、大切に信仰されてきた神様たちが神社から追い払われて、神だかどうだかわからない古事記や日本書紀の登場者(神もいらっしゃるとは思います)たちが、神殿に押し込まれたんですから。
その上、そこで神様が発見された、という証でもある土着性まで、経費削減のための強制的な引っ越しで奪われて、身も心もズタボロにされ、形骸化されてしまったのです。
政府が政治利用のために社に押し込んだ神など、神ではありません。
もう元には戻せませんが。
一例だけ上げると、「八坂神社」や「津島神社」は「牛頭天王社」ですからね。
「素戔嗚神社」なんかじゃないんです。
「牛頭天王社」だから、ドラマがあるんです。
「祇園祭」のドロドロなドラマが深く味わえるんです。
「祭神スサノオノミコト」では、薄っぺらなドラマですら描きようがありません。
だから、私は、維新の志士と呼ばれる人たちが大嫌いです。
明治政府を作った輩は、日本人の心と信仰を壊した大罪人だと思っています。
明治政府によって心が破壊されたことで、日本人の信仰心が形骸化してしまったのではないか?とさえ思います。
まあ、もとを糺せば、仏教にしても、神道にしても、国家権力と一体化して、権門として君臨していたわけですから、政権が代われば滅ぼされるのが当然ちゃ当然なんですけどね。
一番の被害者は、全国津々浦々にいらっしゃった、それでも、それぞれの土地で大切に護られてきた、名もなき神様仏様方かもしれません。
て、なんか、話が飛びましたが、本日はここまで。
(見真塾サルブツ通信Vol.0022より)