【阿弥陀如来を考える その5】
前回は、阿弥陀様の「救済」の内実(具体相)として思い浮かぶこと、
①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
と、お釈迦様の教え、
1 「人間は死んだら生まれ変わることはない。」
2 「だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。」
3 「そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。」
が、密接に関係しているというところまで、お話ししたかと思います。
ちょっと、理屈っぽくなってますねえ。
つまんないかもしれません。
ごめんなさい。
でも、はじめに、必要な方程式を頭に叩き込んでおくことで、今後の学習が可能になりますからね。
我慢して、知恵熱が出るくらい考えてみてください。
本題に戻ります。
まず、①には「1を人々に理解させるための方便」であるという側面があります。
側面でなく、そうだと言い切っても良いのですが、そのほかにも役割があるため、ここでは、側面ということにしておきます。
説明します。
お釈迦様は、「人は死んだら生まれ変われない」ということを発見したわけですが、「人が死んだらどうなるのか?」という問いには、お答えになりませんでした。
「無記」というやつですね。
「それは言わない」ということです。
お釈迦様、けっこう、いけずです。
まあ、言えなかった理由があるのかもしれません。
さりとて、だからわからないのかと言えば、そんなこともありません。
縁起という方程式をあてはめれば、答えは出てきます。
ところが、論理的だと言われるインド人でも、そこのところは、あまり論理的に考えようとしなかったようです。
なぜだかは、知りません。
結果。
「人が死んだらどうなるのか?」という問いの答を、お釈迦様がお説きになられなかったせいで、喧々諤々の論争が引き起こされ、お釈迦様のシンプルな教えは、あっと言う間に、ワンダーランド化してしまうのです。
論理など無視したところから、皆が勝手に考え始めたんですねえ。
印度に日和って、お釈迦様が否定された「輪廻」する世界観に戻ってしまった人が多かったのではないかと想像します。
ちなみに、私は、そのような現象を「インドがえり」と呼んでいます。
仕方ないですね。
民主的でない社会で、社会常識に歯向かうのは命がけですから。
責めてはいけないと思います。
責めはしませんが、決着はつけましょう。
A「人は死んだら生まれ変わらない。」
B「じゃあ、死んだ後はどうなるんだ?」
A「仏になるんだ。」
B「誰でもか?」
A「誰でもだ。」
B「それなら、仏が死んだらどうなるんだ?」
A「仏は死なない。」
ひとまず、こんな感じです。
「仏になる(成仏)」とはどういうことか?
だとかは、いずれお話しするので、今のところ、こんな風に思っていただければいいと思います。
死なない仏になってしまえば、その後のことを考える必要はありませんからね。
「輪廻」の強制終了です。
それに、もともと、輪廻の輪から「解脱」した人、つまりは、輪廻しない人が「仏陀」ですから、インド的にも問題がないんじゃないでしょうか。
しかし、これ、一つ問題がありますね。
すべての人間が成仏できるというシステムでないと、意味をなさないんですね。
成仏できない人ができてしまうと、輪廻を強制終了させられないんですよ。
だから、逆説的に言うと、それで、すべての人間を成仏させる仏様が必要になったのだと思うのです。
以下、フィクション
A「おい、みんな成仏させちまえば、生まれ変わるとか言わなくなるんじゃないか?」
B「ああ、確かになあ。仏は死なないからなあ。生まれ変われないわな。」
C「いや、そうだけどさ。どうやって、みんな成仏させるの?そんなたいそうなことしでかせる仏様、知ってる?」
A B「うーん・・・・・。」
しばし考え込む三人。
A「そうだ!いないならさ、作っちゃったらいいんじゃね?」
C「作るって言ってもさあ、そんなに簡単に作れる?」
B「どんな仏さんならいいんだ?条件は?」
A「それは、すべての人間を成仏させられる仏さんなんだから、大きくないとなあ。」
Bが両手を大きく広げて言った。
B「こんぐらい?」
C「バカ!そんなわけないだろ!もっとだよ。もっともっともっと、ずーっと!」
B「それだって、大したことないだろ。めちゃくちゃたくさんいるんだぞ、人間なんて。」
A「ほら、この前、龍樹が言ってたじゃん。なんだっけ?ほら?」
B「空なる如来か?」
A「そうそうそうそう。あれ、でかそうじゃないか?」
CB「そうか?」
A「そうだよ。無限に繋がるとか言ってなかったか?無限ならさ、ガンジス川の砂粒の数より多いだろ?」
B「それはそうだなあ。無限、だからなあ。」
C「あっ!」
と、突然、Cが立ち上がった。
C「ちょっと、今、無限て言ったよな?」
B「言ったけど?」
C「俺、知ってる。なんか、その、無限っぽい名前の仏さん。」
A「本当か?」
C「確か、波斯の方にいたんじゃなかったかなあ、神様か仏様か知らないけどさ、無量寿だか無量光だかいうの」
A「無量寿?」
B「無量光?」
AとBは、思わず顔を見合わせた。
AB「いいねえ!」
こうして、阿弥陀如来は、遠くペルシャから仏教世界へとお引越しされ、「仏説無量寿経」という経典が、作られたのであった。
以上
ペルシャは、日本からは遠いのですが、インドからは、それほど遠くありません。
なんだか、長くなってしまったので、続きは次回。
前回は、阿弥陀様の「救済」の内実(具体相)として思い浮かぶこと、
①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」
②「生まれてこられたこと」
③「生きていられること」
と、お釈迦様の教え、
1 「人間は死んだら生まれ変わることはない。」
2 「だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。」
3 「そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。」
が、密接に関係しているというところまで、お話ししたかと思います。
ちょっと、理屈っぽくなってますねえ。
つまんないかもしれません。
ごめんなさい。
でも、はじめに、必要な方程式を頭に叩き込んでおくことで、今後の学習が可能になりますからね。
我慢して、知恵熱が出るくらい考えてみてください。
本題に戻ります。
まず、①には「1を人々に理解させるための方便」であるという側面があります。
側面でなく、そうだと言い切っても良いのですが、そのほかにも役割があるため、ここでは、側面ということにしておきます。
説明します。
お釈迦様は、「人は死んだら生まれ変われない」ということを発見したわけですが、「人が死んだらどうなるのか?」という問いには、お答えになりませんでした。
「無記」というやつですね。
「それは言わない」ということです。
お釈迦様、けっこう、いけずです。
まあ、言えなかった理由があるのかもしれません。
さりとて、だからわからないのかと言えば、そんなこともありません。
縁起という方程式をあてはめれば、答えは出てきます。
ところが、論理的だと言われるインド人でも、そこのところは、あまり論理的に考えようとしなかったようです。
なぜだかは、知りません。
結果。
「人が死んだらどうなるのか?」という問いの答を、お釈迦様がお説きになられなかったせいで、喧々諤々の論争が引き起こされ、お釈迦様のシンプルな教えは、あっと言う間に、ワンダーランド化してしまうのです。
論理など無視したところから、皆が勝手に考え始めたんですねえ。
印度に日和って、お釈迦様が否定された「輪廻」する世界観に戻ってしまった人が多かったのではないかと想像します。
ちなみに、私は、そのような現象を「インドがえり」と呼んでいます。
仕方ないですね。
民主的でない社会で、社会常識に歯向かうのは命がけですから。
責めてはいけないと思います。
責めはしませんが、決着はつけましょう。
A「人は死んだら生まれ変わらない。」
B「じゃあ、死んだ後はどうなるんだ?」
A「仏になるんだ。」
B「誰でもか?」
A「誰でもだ。」
B「それなら、仏が死んだらどうなるんだ?」
A「仏は死なない。」
ひとまず、こんな感じです。
「仏になる(成仏)」とはどういうことか?
だとかは、いずれお話しするので、今のところ、こんな風に思っていただければいいと思います。
死なない仏になってしまえば、その後のことを考える必要はありませんからね。
「輪廻」の強制終了です。
それに、もともと、輪廻の輪から「解脱」した人、つまりは、輪廻しない人が「仏陀」ですから、インド的にも問題がないんじゃないでしょうか。
しかし、これ、一つ問題がありますね。
すべての人間が成仏できるというシステムでないと、意味をなさないんですね。
成仏できない人ができてしまうと、輪廻を強制終了させられないんですよ。
だから、逆説的に言うと、それで、すべての人間を成仏させる仏様が必要になったのだと思うのです。
以下、フィクション
A「おい、みんな成仏させちまえば、生まれ変わるとか言わなくなるんじゃないか?」
B「ああ、確かになあ。仏は死なないからなあ。生まれ変われないわな。」
C「いや、そうだけどさ。どうやって、みんな成仏させるの?そんなたいそうなことしでかせる仏様、知ってる?」
A B「うーん・・・・・。」
しばし考え込む三人。
A「そうだ!いないならさ、作っちゃったらいいんじゃね?」
C「作るって言ってもさあ、そんなに簡単に作れる?」
B「どんな仏さんならいいんだ?条件は?」
A「それは、すべての人間を成仏させられる仏さんなんだから、大きくないとなあ。」
Bが両手を大きく広げて言った。
B「こんぐらい?」
C「バカ!そんなわけないだろ!もっとだよ。もっともっともっと、ずーっと!」
B「それだって、大したことないだろ。めちゃくちゃたくさんいるんだぞ、人間なんて。」
A「ほら、この前、龍樹が言ってたじゃん。なんだっけ?ほら?」
B「空なる如来か?」
A「そうそうそうそう。あれ、でかそうじゃないか?」
CB「そうか?」
A「そうだよ。無限に繋がるとか言ってなかったか?無限ならさ、ガンジス川の砂粒の数より多いだろ?」
B「それはそうだなあ。無限、だからなあ。」
C「あっ!」
と、突然、Cが立ち上がった。
C「ちょっと、今、無限て言ったよな?」
B「言ったけど?」
C「俺、知ってる。なんか、その、無限っぽい名前の仏さん。」
A「本当か?」
C「確か、波斯の方にいたんじゃなかったかなあ、神様か仏様か知らないけどさ、無量寿だか無量光だかいうの」
A「無量寿?」
B「無量光?」
AとBは、思わず顔を見合わせた。
AB「いいねえ!」
こうして、阿弥陀如来は、遠くペルシャから仏教世界へとお引越しされ、「仏説無量寿経」という経典が、作られたのであった。
以上
ペルシャは、日本からは遠いのですが、インドからは、それほど遠くありません。
なんだか、長くなってしまったので、続きは次回。