サテュロスの祭典

神話から着想を得た創作小説を掲載します。

兎神伝〜紅兎二部〜(15)

2022-02-02 00:16:00 | 兎神伝〜紅兎〜追想編
兎神伝

紅兎〜追想編〜

(15)弁当

愛は、赤子を抱いて、ゆったりと椅子に腰掛けていた。
本当は、皆と一緒に宮司(みやつかさ)屋敷の食堂に向かう筈だったのだが…
『私、疲れちゃった…もう少し、休んで良い?』
愛が言うと…
『そうそう、愛ちゃんはとっても疲れてごじゃるよ。』
何かにピンと来た朱理は、皆に何やら目で合図を送ると。
『そうでござるな、愛ちゃんはもう少し休んだ方が良かろう。拙者達は先に参るから、後からゆるりと参られるが良い。』
進次郎が言い…
『それじゃあ、おいら達、先行ってるから、愛ちゃんは後から、爺じに連れてきて貰いな。』
竜也が言うと…
『ウォッホン!私も些か疲れてるぞ。何しろ、一日、赤子の子守を任されていたからのう。』
純一郎が言い…
『何を仰る父上。幼い拙者と兄上を母上に任せきりで、十年もの間、好き勝手をされていたのでござる。今日一日、愛ちゃんの赤子の世話くらい、大した事ござるまい。』
進次郎が言うと…
『好き勝手とは失敬な…私は、逓信と運輸を領民(かなめのたみ)に委ねる事に全人生をかけてきたのだぞ。逓信と運輸を領民(かなめのたみ)に委ねればだなあ、和邇雨一族の独裁を、ぶっ壊す事が…』
純一郎が、例によって得意の熱弁を振るいそうになり…
『はいはい、わかりました、わかりました。とにかく、お邪魔虫さんは、さっさと、此処を去る去る。行くわよ、妻子をほかした駄目父さん。』
雪絵は、純一郎の背中を押しながら、ひょこっと私の方に首を伸ばし…
『ちゃーんと、愛ちゃんと赤ちゃん、連れて来てあげるのよ。このダメ父さんみたいに、仕事を理由にホカしちゃダメですよ、爺じ。』
と、言い残して、皆と一緒に去って行った。
太郎だけは、何か物言いたげな眼差しを向けて、暫し立ち尽くしていたが…
『行くよ!』
相変わらず、私と目を合わせようとしない亜美に、引き摺るように連れて行かれた。
そして、沈黙が支配する。
何と言葉をかけてやれば良いのだろう…
二人取り残された愛を目の前に、私は自問自答を続けた。
素直な気持ちを言えば、愛の前にひれ伏して謝りたかった。
私は、愛を赤兎にする事を防ぐ事が出来なかった。鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)の神使(みさき)達を抑える事は出来た。権宮司(かりのみやつかさ)にして河泉産土宮司(かわいずみのうぶすなみやつかさ)である純一郎と、神漏(みもろ)衆河泉組組頭にして本社(もとつやしろ)奉行職進次郎の力で支持者を増やす事もできた。
当面、赤兎は置かない…
あと一歩で、そう取り決められそうにもなった。
しかし…
土壇場にきて、裏切りが起きた。
長らく空位にあった鱶見大連(ふかみのおおむらじ)の座を巡って、河泉産土宮司(かわいずみのうぶすなのみやつかさ)純一郎連と河渕産土宮司(かわぶちのうぶすなのみやつかさ)恵三(よしみつ)の間に熾烈な争いが繰り返されていた。そして、息子の進次郎が本社(もとつやしろ)奉行職に就く事で、大連の座は、ほぼ純一郎に決定していた。
それを、急遽、純一郎は身を引き、大連の座は恵三(よしみつ)に譲る事にした。鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)に、当面、赤兎を置かない事に同意する事を条件にしてである。
ところが、大連になるや、恵三(よしみつ)は掌を返した。
厳密に言えば、鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)の実質的な最高権力者である、康弘連(やすひろのむらじ)が、裏から圧力をかけてきたのである。
康弘連(やすひろのむらじ)としては、売り上げに掛ける三割の玉串料を五割に引き上げたい目論みがあった。それには、莫大な利権が絡む赤兎の兎弊と皮剥に固執する一派の支持を必要とした。勿論、康弘連(やすひろのむらじ)自身が、廃止するどころか、一社(ひとやしろ)に一人兎弊する社畜(やしろちく)の赤兎とは別に、各町村の産土社や氏神社に一人兎弊する社畜(やしろちく)の赤兎、鰐鮫一族一家に一人兎弊する家畜(いえちく)の赤兎も復活させたいと思っていた。
更に言えば…
社領(やしろのかなめ)によっては、人数制限なしに、社(やしろ)に背いた者を兎神(とがみ)家に落とし、一番幼い娘を穢畜(わいちく)と呼ばれる赤兎に兎幣する制度を設けたいとも思っていた。
また…
十年前…
売り上げに玉串料を掛ける制度を執り行わない約束で、康弘連は大連に推戴された。
しかし、康弘連が大連の座につくや、この公約は反故にされた。
理屈としては、こうであった。
売り上げに玉串を掛ける間接玉串料の話が浮上した時、その掛け方について、二派に分かれた。
五割の玉串料を掛けると言う大型間接玉串派と、一割の玉串料をかける小型間接玉串派である。
康弘連(やすひろのむらじ)は、どちらも行わないと公約した。
だから、大型も小型も行わず、三割の玉串料を掛ける、中型間接玉串料を行うとしたのである。
これに対し、中小商工の座頭衆と農林水産の座頭衆が猛烈に反発した。
殊に、愛の父の親友であり、兎神家(とがみのいえ)の庇護者でもあった、本社(もとつやしろ)中小商工座頭衆笑点会の林屋木久蔵(はやしやのきくぞう)と桂屋歌丸(かつらやのうたまる)が猛反発し、司宰(しさい)の三遊亭圓楽(さんゆうていのえんらく)を動かし、不信任の書状を提出した。
私もまた、別の理由で康弘連(やすひろのむらじ)の罷免を考えていた。
間接玉串料が浮上した同じ頃…
前任の宮司(みやつかさ)である眞悟の非道が告発された。
告発したのも、間接玉串料に反対したのと同じ、笑点会の木久蔵と歌丸であった。
木久蔵と歌丸の告発は、かなり波紋を広げた。
あと一歩で、眞悟のみならず、眞悟を支持後押しする事で暴利を貪っていた、神使(みさき)達や河副屋浩正(かわぞえやのひろまさ)ら大商工座頭衆秋桜会も罷免されるところまで追い詰めた。
しかし…
これを握り潰したのが、康弘連(やすひろのむらじ)であった。
眞悟宮司(しんごのみやつかさ)非道の告発を、秋桜会の汚職問題にすり替え、全て自身の執事、神使(みさき)達の家宰達や座頭達の番頭達に責任転嫁する事で、解決してしまったのである。
康弘連(やすひろのむらじ)が大連の地位に就いてなければ、少なくとも五年早く眞悟は宮司職(みやつかさしき)を解かれ、その間に彼の非道で死んだ兎神子(とみこ)達は生きながらえたかも知れない。
その事を思えば康弘連(やすひろのむらじ)を許せず、大連(おおむらじ)の不信任と罷免に賛同したのである。
これが元で、康弘連(やすひろのむらじ)は、大連(おおむらじ)のみならず、鎮守社警護番総組頭(しずめのもりつやしろけいごばんふさつくみがしら)も罷免された。
また、康弘連(やすひろのむらじ)を支持していた、多くの神漏(みもろ)や神使(みさき)達も罷免。
私は、この機に、赤兎は一社(ひとやしろ)に一人と言う古の原則を復活させ、家畜(いえちく)や穢畜(わいちく)の赤兎を悉く廃止して解放。また、各町村の産土社(うぶすなやしろ)や氏神社(うじがみやしろ)に兎幣されていた赤兎も、全て解放した。
しかし…
無官になったとは言え、康弘連(やすひろのむらじ)は、河曽根鱶見家棟梁(かわそねのふかみのいえのむねはり)に変わりはない。
また、嫡子の文弘連(ふみひろのむらじ)は鎮守社宮司(しずめのもりつみやつかさ)、庶子の美唯二郎は鎮守社警護番組頭(しずめのもりつやしろのけいごばんくみがしら)である。
その後も、社領(やしろのかなめ)で絶大的な力を持ち続けた康弘連(やすひろのむるじ)は、大連の座を奪った私や、笑点会を執念深く恨み続けた。
その恨みが、間接玉串料の値上げと重なり、愛の皮剥のゴリ押しと言う形に現れたのである。
康弘連(やすひろのむらじ)は、恵三大連(よちみつのおおむらじ)と赤兎の兎弊と皮剥に固執する一派に、総宮社(ふさつみやしろ)の父に奏上させ、私に圧力を掛けさせた。
私は、父の圧力に屈するしかなかった。
背き続ければ、私は宮司(みやつかさ)を解かれ、父の意に沿う…おそらくは、康弘連(やすひろのむらじ)が本社宮司(もとつやしろのみやつかさ)に置かれたであろう。
結果として、ここの兎神子(とみこ)達は、かつてと同じ境遇におかれるようになるだろう。
そればかりか、漸く認知された拾里や隠里の取り潰しが決められ、重病を患った者や、障害を負った者は、再び排除される事になるだろう。
私は、そう自分に言い聞かせて、父の意向に従った。
赤兎の兎弊と皮剥に固執する者達に迎合した。
より多くの者を守る為…
そう言い聞かせて、愛を皮剥した。
結果、誰も守る事などできなかった。
愛だけでなく、愛を愛していた皆の心を踏みにじり、傷つけただけだった。
挙句、智子と早苗を死なせてもしまった。
私は、皆を守る為と言い訳し、実際には、単に保身に走ったに過ぎなかった。
「何考えてるの?」
不意に、愛が私の顔を見上げて言った。
「いや、何も…何故?」
「難しい顔、してるから…」
まっすぐに向けられた眼差しは、私の心の奥底を見透かしているようにも思われた。
「愛ちゃん、済まなかった…」
言いかけた私の言葉を遮るように…
「見て。この子の目元、爺じに似てると思わない?」
「そうか?それは、可哀想に…」
「どうして?」
「女の子だから…」
「そんな事ないわ。きっと、美人さんになるわ。お父さんに似て…」
「私に似て、美人?」
「ええ。爺じ、とっても綺麗な顔してるもの…カズ兄ちゃんやヒデ兄ちゃん、シンさんとはまた違ってね。」
愛は、片目瞬きをしながら、ニッコリ笑って言った。
「この子、どんな娘に育つのかな。大きくなったこの子、見てみたいな…」
私はまた、激しい胸の疼きを覚えた。
愛は愛しげに…そして、何処か寂しそうに、赤子の頭を撫でている。
「ねえ、私の肩を抱いて…」
「こうか?」
「うん。」
私が、愛の肩に腕を回すと、愛は静かに笑って頷いた。
「爺じ、覚えてる?初めて、境内で出会った時の事。」
「覚えてるとも。君は、木陰に座って、切り絵をしていたね。」
言いながら、ふと、四年近く前の昼下がりを思い出した。
早春…
雪溶けを終え、梅が咲き染めようとしていた頃。
外出先から戻ると、社を切り絵に描く愛の姿を見出した。
私は、初めて見る大人びた少女に首を傾げると…
『こんにちわ。』
愛は、立ち上がるなり、実に礼儀正しくお辞儀したかと思うと、不意に片目瞬きをして、ませた笑みを浮かべた。
『私は愛、おじさんは?』
『こんにちわ。私は、ここの宮司(みやつかさ)だよ。』
私が答えると…
『あ…申し訳ありません、私…』
愛は、慌てて直立不動の姿勢になり、おどおどし始めた。
『良いんだよ。それより、切り絵、上手だね。』
『ありがとう…ございます。』
『実はね、私も切り絵が大好きなんだよ。』
私は、尚も身を固くしてる愛に言うと…
『本当、ですか!』
愛は、急に目を煌めかせて、首を擡げた。
『本当だよ。私の切り絵も見てみる?』
『うん!あ…はい!』
『良い返事だ。それじゃあ、ついておいで。』
言いながら、私も、先程の愛を真似て片目瞬きをして見せると、愛は漸く緊張を解きほぐして、クスクスと笑い出した。
それから…
愛は、毎日、私を訪ねるようになった。
最初は、互いの作品を見せ合う事から始まり…
少しずつ、境内の散策、更に裏山の散策をしながら、様々な題材を見つけては、一緒に切り絵を楽しんだのである。
『親社(おやしろ)様、あーそびましょー。』
いつの頃か、愛が部屋の窓越しから、私を呼びかけるのが待ち遠しくなった。
彼女が訪れるのは、いつも同じ昼下がり…
丁度、境内で私と遊ぶ兎神子(とみこ)達が、一人残らず穂供(そなえ)にやってきた社領(やしろのかなめ)の者達と神饌所に消えて行く頃であった。
神饌所二階の部屋部屋から漏れ聞こえる、穂供(そなえ)にやってきた男達や、兎神子(とみこ)達の喘ぎ声は、私に幼き日々の光景を思い出させた。
私に、幼少期の楽しい思い出は皆無に等しい。
目を瞑って思い出す光景と言えば…
幼い少女達が、苦痛や羞恥を訴える事も許されず、父達や社領(やしろのかなめ)の人々に陵辱される姿か、拷問にも等しい仕置を受けて泣き叫ぶ姿…
或いは…
『脚を拡げてやれ。』
父に命じられるまま、表情のない冷徹な眼差しをした教導官(みちのつかさ)達に機械的脚を拡げさせられる百合の姿…
『さあ、今日もうんと気持ち良い事をしてやれ…』
背く術のない私は、ならば、少しでも早く終わらせてやりたいと思い、百合の神門(みと)に穂柱を近づける。
『ウッ…!』
百合は、これからまた始まる事に覚悟を決めるように固く目を瞑り、歯を食いしばって、顔を背ける。
しかし…
『待て!』
父は、唐突に私を引き離すと、百合の神門(みと)を乱暴に指で拡げて見せた。
既に、父と教導官(みちのつかさ)達に抉り荒らされ、白穂と血に塗れた参道は、見るも無残な有様であった。
神門(みと)の付け根は裂け、肉壁は一面真っ赤に剥離していた。
『穂柱を挿れる前に、まずは、ここの包皮をめくるんだろ。』
父は言いながら、先端の包皮をめくり上げ、これまた真っ赤に腫れた神核(みかく)を剥き出しにした。
『イッ!』
百合は、思わず呻きを漏らす。
『さあ、それからどうするんだ?』
父の問いに答える代わりに、私は拳をグイッと握りしめて顔を背けると…
『どうした?できないのか?仕方ないな…』
父は、クィッと顎をしゃくって、合図を送った。
百合は、これから何をされるか察すると、忽ち顔色を変えて震えだした。
やがて、教導官(みちのつかさ)の一人が白いモノを詰め込んだ壺を待ってくると…
『嫌っ…嫌っ…嫌っ…』
それまで、何をされても、決して抗う事もなければ、言葉も発さなかった百合が、激しく首を振り立て、押さえつける教導官(みちのつかさ)の腕の中で踠き暴れ出した。
『やめて!やめて!お願い、やめてーっ!』
『喧しい!大人しくしろっ!赤兎の心得を忘れたのか!』
父は、泣き叫ぶ百合の頬を何度も激しく叩きながら怒鳴りつけると…
『さあ、よく見ておけよ。穂供(そなえ)をする前に、まずこうやって、参道をよく開くんだ。』
私の方を睨み据えて言うなり、壺の中に指を突っ込むと…
『もののついでに、しっかり清めてやろう。』
一摘み摘みあげた粗塩を擦り込むように、百合の腫れ上がった神核を思い切り抓り出した。
『ヒッ!ヒッ!ヒッ!ヒィィィーーーーーッ!!!!』
百合は、忽ち身体を大きく仰け反らせて悲鳴を上げた。
父は、そんな悲鳴など目にも耳にも入らぬ風に、更に壺に手を突っ込むと、今度はたっぷり握りしめた粗塩を参道に捻り込んだ。
『キャーーーーーーーーーッ!!!!!』
百合は、文字通り火に焼かれたような激痛に絶叫し、必死に手足を動かし、左右に身体を捩って、更なる苦痛から逃れようとした。
しかし、屈強な教導官(みちのつかさ)四人に押さえつけられては逃れる術はなく。
『やめてっ!やめてっ!もう…もう…もう、やめてーーーーーーーっ!!!キャーーーーーーーーーッ!!!』
父が壺の中が空になるまで、参道に粗塩を捻り込み、剥離した肉壁や、裂けた神門(みと)の付け根に擦り込むように指で掻き回し続ける間…
延々と泣き叫び続ける、鼓膜と胸を引き裂くような百合の声…
そして…
漸く父の粗塩責めから解放された百合の股間の前にしゃがみ込み…
『アッ…アッ…アァァァァーーーーーッ!!!!』
とどめを刺すような激痛に、身をのけぞらせて声を上げる百合の涙に濡らした顔を横目に、傷だらけの参道を穂柱で抉る自身の姿…
そんな日々の光景が次々と脳裏を過ぎり、私の胸が掻き毟られそうになる頃…
愛の可愛い声は、私に安らぎと癒しを齎してくれた。
同時に…
悍ましい思い出しかないように思われた、幼き日々…
母と百合と三人、切り絵をして遊んだ、楽しい思い出もある事を教えてくれた。
『親社(おやしろ)様、今日もお弁当、持ってきてあげたわよ。』
『ありがとう。今日は何が入ってるのかな?』
『さあ、何が入ってるかしら。』
愛が、クスクス笑いながら差し出す、小さな風呂敷包みを差し出されると、とっくに昼食は済ませてると言うのに、また、お腹が鳴るのを覚えた。
目的地に着くまでの道すがら…
愛が、めぼしい切り絵の題材を物色してる側で、私は、お弁当の中身ばかりが気になっていた。
『ねえ、そろそろ、お弁当にしようよ。』
私が言うと…
『まあだ。お山に来たばかりでしょ。』
愛は、振向こうともせず、山の景色をキョロキョロ見回している。
『ねえ、まだ?私は、お腹がペコペコだよ。』
『だーめ。もう少し奥に入ってから。』
『愛ちゃん、お腹すいたー。もう、歩けない!』
私が、風呂敷包みを掲げながら言うと…
『もう!仕方ないわね!』
愛は、漸く振り向いて…
『そんなに我慢できないんなら、次から連れてきてあげない!』
と、ブンむくれで言いながらも、筵を敷いて、お弁当の準備をした。
『ささ…今日は、お弁当何かなあ。』
私が、心踊らせ風呂敷つつみを解こうとすると…
『もう!これだから、子供を連れて来るのは嫌なのよ!』
愛は、私の隣に腰掛け、口を尖らせて言いつつも、風呂敷つつみを広げた時の私の反応を楽しみに、ジーッと私の顔を横から見つめていた。
私の腕の中…
美しい白無垢を着込み、愛しそうに赤子を抱く愛は、私にもたれかかりながら、ジッと、私の言葉を待っていた。
私は、まだ、言葉が見つからない。
脳裏に過ぎる言葉と言えば、謝罪の言葉ばかり…
しかし、それらの言葉は、愛の受けた心の傷を、いや増す事にしかならないだろう。
何て言葉をかけてやれば良いのだろう…
何て…
『ああ!今日は、出し巻き卵に昆布巻きが入ってる!美味しそう!』
『私がね、朝早くから起きて、作ったんだよ。さあ、食べて。』
目を瞑れば…
また、裏山で愛と並んでお弁当を広げた時の光景が、過ってきた。
「愛ちゃん…」
漸く声をかけると、愛は心待ちにしていたように、私の顔を見上げた。
「なあに、爺じ…」
私は、また、言葉を詰まらせた。
喉まで出かかった言葉が出てこない。
愛は、私の顔を真剣な眼差しを向けて、ジッと見つめている。
その目は、次に出てくる、私の言葉を待っているのだと言っている。
この言葉が聴きたくて、赤兎として過ごした三年を…
いや…
実際には、一年も前から始まっていた、実の父による田打の日々を合わせれば、四年の日々を…
ひたすら耐え忍んだのだと、愛の眼差しは言っている。
ふと…
私は、愛の細いうなじに目を止める。
そこに残る、痛々しい痣の跡…
七歳の終わり、田打が始まった頃…
早朝の目覚めと同時に、愛は一刻の間、 全裸で庭先に放り出される。行き交う人々の目に晒す為だ。
その時…
愛は、行き交う人々、覗きに来る人々に、一切、身体(からだ)を隠す事は許されない。
それどころか…
『おらおら、突っ立ってるだけじゃ見えねえぞ!』
『何、足閉じてるんだよ!どうせ、来年は毎日穂柱突っ込まれてイキまくるんだろ!』
『脚拡げろよ、脚!』
『神門(みと)の中も見せろよ!』
『ほらほら、自分でやって見せよろ!ほらっ!』
求められるままに、股を拡げ、自ら指で神門(みと)を拡げて参道を弄って見せねばならなかった。
そのあまりの露骨な要求に耐えきれず、蹲って泣き出してしまったのだ。
その事を、父である山田屋隆夫(やまだやのたかお)に酷く叱られ、棒切れで激しく打ち据えられた跡であった。
「愛ちゃん…」
私が、痣の跡をそっと撫でながら、また口を開くと、愛は嬉しそうな笑みを浮かべた。
目はかすかに涙に滲んでいる。
しかし…
愛がずっと待ち望んでいた言葉を、どうしても口に出す事ができない。
喉元まで出ては、どうしても脳裏をかすめる、あの日々の光景…
『愛ちゃん!何処だ!何処にいるんだ!』
下卑た笑みに涎を垂らし、疼く股間をもじつかせた十人もの荒くれ達に連れ出され、何刻経っても戻らぬ愛を探し回る日々…
『親社(おやしろ)様、此処よ…』
領内(かなめのうち)片隅の草叢から、愛のか細い声が聞こえて来る。
『そこか!』
茂みをかき分けると、大股に脚を拡げて仰向けた愛が、
両肘で支えるように上体を起こしながら、苦悶に歪む顔に、必死な笑みを浮かべて見せる。
その日も一日、一体どんな目に合わされてきたのか…
股間の参道と尻の裏参道の荒らされ方を見れば、一目瞭然である。
『愛ちゃん!』
思わず声を上げ、駆け寄ろうと、言葉に尽くせぬ悪臭が私の鼻をつく。
『駄目!来ないで!』
言いながら、私の前に翳す小さな掌は、数え切れぬ程の穂柱を扱かされ放たれた白穂にべとつかせている。
『私…穢いから…親社(おやしろ)様…汚しちゃうから…』
言うなり、何とか一人で立ち上がろうとする愛は…
『ウゥゥーッ!』
一声呻くと、股間を押さえて、前のめりに蹲った。
私が思わず抱きしめると…
『親社(おやしろ)様…私…臭いよ…汚いよ…穢れてるよ…』
激しく首を振る愛の目頭から、漸く我慢し続けた涙が溢れ出てくる。
『私が触ったものは、みんな汚れる…歩いた道は何処も穢れる…』
愛が譫言のように呟き続ける言葉…
それは、社(やしろ)を連れ出され、十人もの男達に散々玩具にされた後、行く先々で浴びせられた言葉なのだろう。
『穢い赤兎の分際で、人様の道を歩くんじゃねえ!』
『おめえが歩くと、その道が穢れるんだよ!』
そう言って、脇の草叢に蹴落とされ、目の前で歩いた道に塩を撒かれる。
そして…
『ケッ!早朝から、前と後ろ二つの孔から白穂を垂らしやがって…』
『そんなにされるのが好きなのか?まだ、九歳のガキのくせに…』
言いながら、愛を草叢に蹴落とした男達は、交代で傷だらけの股座を蹴り、血だらけの尻を爪先で小突き…
前のめりに倒れる愛を仰向けにするや、思い切り股間を踏み締めて…
『そんなに好きだったんなら、俺たちもしてやろうじゃねえか。』
舌舐めずりしながら褌を脱いで、愛にのしかかる。
どの社領(やしろのかなめ)でも、変わらない日常の光景…
ありふれた、赤兎の送る毎日…
『私…臭いよ…汚いよ…穢れているよ…』
愛は、私の中で尚も繰り返しながら、嗚咽し始めた。
『汚く何かないさ…』
私が絞り出すような声で言うと…
『えっ…』
愛は弾かれたように押し黙り、涙目を私に向ける。
『愛ちゃんは、一つも穢れてない…』
私は、更に絞り出すように言いながら、愛と唇を重ねる。
かつて、山中で弁当を食べたあと、愛の方から重ねてきた唇は、海苔や鰹節の香りがし、玉子焼きの味がした。
しかし、今は…
来る日も来る日も、行き交う男達に、厠から出てきてそのままの穂柱を捻り込まれ、舐めさせられ…
尿混じりの白穂を放ち、呑み込まされ…
言葉に尽くせぬ悪臭が、舌先から伝わり、私の口腔内に充満する。
それでも…
私には、愛の唇の味も香りも、あの時と何も変わらなかった。
今も、目蓋に浮かぶ山景色の中…
海苔や鰹節の香りがし、玉子焼きの味がする。
『愛ちゃん…』
漸く唇を離す私は、愛の目を見つめながら、最後に一つの言葉を絞り出そうとする。
『愛ちゃん…私は…私は…君を…』
しかし…
『どうですかな、親社(おやしろ)様。貴方様の手で皮剥の儀式を終えられたご気分は…』
最後の参列者が、愛の参道と裏参道と上参道…三つの孔全てに白穂を放ち終えた後…
股間と尻と下腹部の激痛に、息も絶え絶えの愛を見下ろしながら、悦に入った笑みを浮かべて言う、康弘連(やすひろのむらじ)の言葉の記憶が、愛への最後の言葉を遮った。
『これまで、少しばかり取るにたらん連中への施し政策を行い、何の生産性のない連中に、御祭神の如く崇められて調子に乗られておいでのようでしたがね。
これで、貴方様も、晴れて我らの仲間入りですな。』
『私が…おまえ達と同じ…』
『違いますかな?所詮、貴方様がなされてきた事は、慈善でも博愛でも何でもない。取るに足らん連中に崇められたい、敬われたいと言う自尊心に過ぎぬ。言わば偽善でございましょう。
そんな偽善を少しばかし積み重ねたからと言って、我らを散々見下されておいでのようでしたがね。
その偽善を続け、自尊心を満足させ続けたいばかりに、結局、貴方様は目の前で泣き叫ぶ愛に、何もなされなかった。なされないばかりか、最後まで祝詞をあげて、皮剥の祭祀を終えられた。
既得権益の為に、赤兎の兎幣を続けたい、我々と何の違いがありますかな?』
私に一言もなかった。
愛が目の前で数多の男達に、参道を抉られ、掻き回され続けてる中…
『痛い!痛い!痛い!痛いよー!痛いよー!』
『助けて!親社(おやしろ)様!親社(おやしろ)様!助けてー!痛いよー!』
凄まじい声で泣き叫ぶ愛の声を耳にしながら…
私は…
私は…
私は…
『愛ちゃん、私は、君を…』
尚も、静かな…それでいて、何か熱いものを胸に秘めた眼差しを向け、愛が待ち続ける言葉…
私は、遂に発する事が出来ず…
漸く、震える口から振り絞って出てきた言葉は…
「ねえ、そろそろお弁当にしようよ。」
在りし日、裏山に出かけた時の、いつもの言葉であった。
「もう!」
愛は、思わずため息をつきながらも、満面の笑みを浮かべると…
「私、まだ休み始めたばかりじゃない。」
あの時と同じ、ませた口調で口を尖らせた。
「愛ちゃん、お腹すいたー。もう、歩けない…」
私が、更に言うと…
「もう!仕方ないわね!そんなに我慢できないなら、もう連れてきてあげない!」
愛はそっぽ向いて見せた後、私の方に向き直って、クスクス笑いだした。
私も、釣られて一緒に笑い出す。
そうして、ひとしきり笑った後…
「爺じ…好きよ。愛してる…」
そう言うなり、愛はポッと頬を赤くして俯いた。
「あの時…私は、不安で、怖くてたまらなかった…
毎日、毎日、お父さんや近所の人達、お店にくるお客さん達に、身体中を弄られながら…
ここに来たら、どんな目に遭わされるのだろう…ここにいる人達はどんな人達なんだろう…
それを思うと、夜も眠れなかった…
だから、見にきたの。ここにいる人達が、どんな人達なのか見に来て、覚悟を決めようと思ったの…
そうしたら、爺じは優しくて、甘えん坊で、子供みたいで、可愛い人だった。
この人になら、何をされても、させられても我慢できる、頑張れるって思ったの…」
「愛ちゃん…」
「ううん…そうじゃない…」
愛は、しばし言葉を詰まらせた後…
「うまく言えないけど…お父さん達に、身体(からだ)中、弄られてる時…これしてるの、爺じだったら良いのになって、思うようにもなっていた…
固く目を瞑っては、今してるのは、爺じなんだって思うようにしてた。」
一気に話し終えた後…
「私、初めてあった時から、爺じの事が好きだった。愛してた。
だから…
この子のお父さん、爺じで良かった。」
そう言うと、とびきりの片目瞬きをして、満面の笑みを浮かべて見せた。
私は、次第に脈打つ鼓動が、激しさを増すのを覚えた。
胸の奥から、何かが込み上げてくるのを感じた。
そして、目頭が熱くなりかけたとき…
「お腹、空いたね、行こうか!」
愛は一声上げて立ち上がるなり、また、大きく十八番の片目瞬きをするや、不意に、唇を重ねてきた。
私が思わず目を見張ると…
愛は更に舌先をで唇をこじ開け、私の唇と絡み合わせてくる。
やはり…
海苔と鰹節の香りに、玉子焼きの味がする。
私は、次第にふわふわと浮かび上がるような感覚の中、そんな思いを抱きながら、愛の唇を吸い返した。

兎神伝〜紅兎二部〜(16)

2022-02-02 00:16:00 | 兎神伝〜紅兎〜追想編
兎神伝

紅兎〜追想編〜

(16)褒美

「ジャジャーン!主賓の到着でごじゃりまーす!」
漸く私と愛が姿を表すと、朱理は私達の手を取って、皆の前に押し出し、指先で鼻の下を擦りながら、得意満面で言った。
「エーッヘン!エーッヘン!どうーじゃー、凄いじゃろう!」
特に、白無垢で着飾った愛を皆に見せつけて、朱理は大いに胸を張っていた。
自分の縫った衣装、自分の施した着付けと化粧、何より、親友の晴れ姿が誇らしいのもさる事ながら…
愛する人に寄り添われ、その人との赤子を抱いている、愛の姿が愛しく、眩しく、嬉しくてたまらないのだ。
「オォーーーッ!」
「わあ!愛ちゃん、おめでとう!」
「おめでとう!」
「ご苦労様!」
溢れんばかりの拍手と祝福を贈る皆もまた、同じ気持ちであった。
兎神子(とみこ)が赤子を産んで、床上げを迎えた時…
皆でお祝いをしようと言い出したのは、早苗であった。
思いを寄せた人との間に赤子が産まれたのなら、その人との結婚式も兼ねた祝いにしようと言い出したのは、朱理であった。
祝うと言っても、特別な事をするわけではない。赤子を産んだ兎神子(とみこ)と、その子に晴れ着を着せて、皆で食事をする。食事をした後、写真を撮る。それだけの事である。
それでも…
どんなにご馳走が並べられた、お盆や正月、節句の祝いより、この祝いは特別な祝いとなっていた。
誰の穂供(そなえ)で子を成すか…
特に、最初の子供は、誰の白穂なのか…
社(やしろ)の兎神子(とみこ)達の間では、とても大事な事に思われていた。
決められた玉串料さえ支払われれば、誰にでも抱かれる兎神子(とみこ)達が、誰の子を身籠もるかはわからない。そして、誰が父親であっても、身籠もる子をひたすら生み続けるのが、務めであり、その子は一月後には、天領(あめのかなめ)に里子に出される。里子に出された子は、その家の実子として届けられる為、どの家に里子に出されたのか知るすべはなく、まして、二度と会える事などあり得なかった。
それでも、早苗ほど強い思いを抱く者も珍しいが、兎神子(とみこ)達は皆、十カ月の間、腹の中に宿し、一月の間、自らの腕に抱いて、乳を飲ませて共に過ごす赤子を愛しく思っていた。
いや…共に過ごせる時間が短い分、束の間に凝縮して注ぐ愛情は言葉に表現できぬ程強かった。そして、生涯その子を忘れる事はなく、心の何処かでは、皆、いつかまた会いたい。会って、もう一度、その子を抱きしめたいと夢見ている。
その時…
兎神子(とみこ)達は皆、その子にこう言いたいと望んでいた。
『あなたは、愛する人と心から愛し合って生まれたのよ。短い間しか共に過ごせなかったけど、あなたが生まれてくるの、愛する人と心待ちにして、生まれた時は、本当に二人で喜び会ったのよ。』と…
特に、初めて産んだ子の父親が誰であるのかは、普通の女の子達が、初めて抱かれた男が誰であるかなど比べ物にならないくらい、大事にしていた。
最初の子供は、愛する人との子供であって欲しい…
しかし…
その夢が叶う事は、まずありえない。
兎神子(とみこ)達の幼い身体(からだ)を面白半分に貪り弄んだ、あの男の子であるのが、殆どなのである。
それだけに…
もし、仲間の誰かが、本当に好きになれた人の子を産む事ができそうな時、その夢を実現させてやろうと躍起になる。そして、見事、その夢が叶った時は、皆で心から祝福していた。
愛の場合も、そうであった。
他の兎神子(とみこ)達は、二十歳を過ぎれば、皆、社(やしろ)を出て自由に暮らす事が許される。しかし、赤兎には、それがない。最初の子を産み落としたら、聖領(ひじりのかなめ)の何れかの大社(おおやしろ)に送り込まれ、そこで、死ぬまで穂供(そなえ)を受けさせられ、子を産まされ、三十まで生きる事ができる者は殆どいないと言われている。
それだけに、皆、躍起となっていた。
『愛ちゃんに、あんな奴らの子、絶対産ませないわ!愛ちゃんにだけは、愛ちゃんを本当に愛して、大事にしてくれた人の子供を産ませるの!』
特に、亜美が強い執念を燃やしていた。
まず…
ある時期から…
社(やしろ)の中では、兎神子(とみこ)達の親友である、進次郎率いる河泉組神漏(かわいずみのみもろ)衆や太郎率いる神饌組の悪ガキ共と共闘して、何だかんだ理由つけては、絶対、社領(やしろのかなめ)の男達に手をつけさせなかった。
学校の行き帰り、学校の中でも、太郎率いる神饌組の悪ガキ仲間達が愛を護衛して、何処の誰にも指一本触れさせなかった。
しかし、外に呼び出されたり、連れ出されたりして、穂供(そなえ)されるのと、月次祭や例祭時に行われる特別な神饌共食祭は、どうする事も出来なかった。
そうすると、滅茶滅茶にされ、血と白穂に塗れた参道を綺麗に洗い、手当する亜美が、必死に避妊処理を施したのである。
その甲斐あって、愛は、二年近くに渡って、全く身籠もる事はなかった。
最も…
彼等彼女等が、そんな真似をしなくとも、誰かの白穂で愛が身籠もる事はなかったであろう。元々、赤兎が身籠もる事は殆どない。余りに幼いうちから、寄ってたかって乱暴に穂供(そなえ)されれば、大概、御祭神はボロボロに傷つけられ、子を産む事ができなくなる事が多かったからだ。
しかし、愛が子を産めない身体(からだ)になる事もまたなかった。それも、亜美の手当の甲斐あってのものだった。
愛の親友を自認する朱理は、当初から、愛には私の子を産ませたいと願っていた。いや、私の子を産む、私の子以外、誰の子も産まないと言う、信仰に近いものすら抱いていた。
なので、愛が皮剥され、赤兎になった時から、実は今日の日に備えて、白無垢と綿帽子を縫い始めていたのである。
菜穂も、同じ考えで、朱理と一緒に、白無垢につける小物を作っていた。
愛が髪にさす簪や髪飾りを熱心に作っていた秀行も、口にも顔にも出さなかったが、愛は私の子を産むものだと決め込んでいた節がある。
そして…
誰より、愛に私の子を産ませたいと願っていたのは、智子と早苗であった。
しかし…
他は皆、別の考えをもっていた。
太郎の子を産ませたかったのだ。
兎神子(とみこ)達は勿論…
兎神子(とみこ)達の親友、進次郎率いる河泉組神漏(かわいずみみもろ)衆や、太郎率いる神饌組の悪ガキ達、皆の願いであり、夢であった。
中でも、筆頭は、太郎を兄弟と呼ぶ竜也と、太郎が親分と呼んで慕っていた、貴之であった。
『おい、兄弟!白穂はまだか?まだ、出ねえか?』
竜也は、太郎と顔を合わせる度に、何度も同じ事を聞いていた。
太郎は、その度に赤くした顔を背け、惚けたように話を逸らしていた。
実は、愛の皮剥が始まるかなり前に、太郎は初白穂を放っていた。
それも、夢の中でではなかった。
神饌組の子供達は、兼ねてより、男の子と女の子が一緒になって、兎神子(とみこ)達と共に、参籠所の湯殿に入り、互いに身体(からだ)を流しあっていた。
太郎は、そこで、愛の胸が膨らみ始めてるのを目の当たりにし、穂柱が激しく疼くのを感じた。
そして、その疼きは、思わぬ行動を起す抗い難い衝動に駆らせる事に恐れを成した。
すると、太郎の恋の指南役を自認して憚らぬ朱理が、その衝動の意味するところと共に、鎮める術も教えた。
この時、穂柱を優しく揉みしごいてくれた朱理の手の中で、太郎は初めて大量の白穂を放ったのである。
以来…
太郎が、愛の身体(からだ)を見る度に同じ衝動に駆られ、我慢出来なくなりそうになると、密かに朱理の元に行った。
朱理は、その度に、太郎の穂柱を優しく揉み扱き、口に含んで舐め回して慰めてやっていた。
しかし…
ある時、いつものように朱理に、穂柱の疼きを慰めて貰っているところを、竜也に発見された。
すると…
『なーんだ、おまえ、もう男になってたんじゃねえか!』
竜也は、喜び勇んで抱きしめながら、太郎の背中をバンバン叩くと…
『ささ…そんな、隠れてアケちゃんに慰めてなんか貰わねえでよ、ドドーンとやってこい!愛ちゃん、モノにしてこい!おいらが側についてるぜ!』
今度は、顔合わせる度に、竜也の肩をポンポン叩いて、文字通り背中を押し続けていた。
貴之は…
『どうした、坊主!何グズグズしてやがる!早くモノにしてやらねえと、あのろくでなしのハゲに、白穂を当てられちまうぞ!さっさと、愛ちゃん、押し倒してこい!』
かなり、荒っぽくけしかけていた。
『愛ちゃんも、坊主に惚れてんだろう?愛ちゃんから誘ってやれよ。一層、いつもの強気で、愛ちゃんが押し倒しちまえ!』
更には…
『坊主、もしかして、やり方わかんねえのか?だったら、今からな、このチビと見本見せてやっからよ、よーっく見ておけよ。
おい、チビ、やるぞ!』
と、早苗に抱きつこうとしては…
『ダメーーーーー!!!!』
と、声を上げるより早く、亜美に、特大薪木で、思い切り頭をぶん殴られたりもしていた。
実は、かく言う私も、叶うものなら、愛と太郎を結ばせてやりたいと望んでいた。
それだけ、愛に対する太郎の思いは一途であり、愛もまた、太郎の事を心底慕っている…そう思っていたからだ。
それで…
『愛ちゃん。リュウ君達が、神饌組の連中と組んで、何か企んでいるようだね。』
ある日、私が言うと…
『知ってる…あの子達、相変わらず、おイタさんなんだから。まだまだ、子供なのね。』
愛は、クスクス笑いながら言った。
『おいおい、子供って…』
『だーってさ…あの子達、本当、世話が焼けるったらありゃしない。私がいないと、なーんにも出来ないのよ。
好きな子に、自分の気持ちを伝える事も、行動に移す事もできやしないんだからね。』
『それで、この前も、チョウ君とおみつちゃんに手解きをしてやったのか?』
『だーってさ…チョウ君は太郎君と同い年の十四歳、おみつちゃんは私と同い年の十一歳…
もう、白穂も出せればツキのモノもあるってのに、なーんにも知らないし、できないんですもの。
チョウ君は穂柱勃てて落ち着かないし、おみつちゃんはお顔を真っ赤にしてるだけ…
付き合い始めて、三年近く経つってのにさ…』
私は、そう言って溜息を吐く愛を見ながら、太郎の子分である長吉郎の公認の恋人とされてる光枝の両親の驚きぶりを思い出して吹き出した。
何でも…
愛に手取り足取り教わりながら、ぎこちない手で長吉郎の穂柱を扱き出したは良いが…
まず、初めて触る穂柱の感触におっかなびっくりで、少し反応すると、すぐ手を離して顔を覆って泣き出しそうになる。
一方、長吉郎はと言えば…
少し触れられ、少し反応してはすぐ手を引っ込めてしまい、また少し触れられ、少し反応しては手を引っ込めると言う生殺し状態が続けられ、益々落ち着かなくなる。
また、漸くイキかけると、今度は尿意のようであって尿意と違い、穂柱の先から何か飛び出しそうな感覚に、長吉郎が恐れをなして尻込みして、一からやり直し…
そんな事を延々と繰り返しながらも、光枝には穂柱の何処をどう弄り、扱けば良いか…
長吉郎には、なかなかイケず、落ち着かなくなっては、背中をさすって宥め、イキそうになって尻込みしそうになると、あと少しだと励まして…
愛は、ひたすら根気よく、手解きしてやったのだと言う。
そうして、遂に、長吉郎の極限まで怒張した穂柱の先端から、白穂が噴水のように吹き出した。
この時も、長吉郎は心地よさより恐怖を感じ、光枝に至っては、今にも声を上げて泣き出しそうになった。
しかし、近くで隠れ見ていた神饌組の仲間達が、一斉に姿を現し、拍手喝采を浴びせて祝福すると、二人の様子は一変した。
ドジで弱虫だった長吉郎も、はにかみ屋で泣き虫だった光枝も、すっかり自信をつけて、逞しい男としっかりものの女に変貌したのだと言う。
二人の両親に限らず、愛の手解きで、互いの疼きを沈め合う仲になった、神饌組男女の両親達は、最初のうちこそ驚いたり、眉を潜めたりしていた。
殊に…
古い考えを根強く持ち、男女や貧富の差別意識の強い、河曽根上町の子供達の親は、我が子が赤兎と親しくする事への嫌悪を更に強めたりもした。
しかし、急速に心も身体(からだ)が成熟する年頃を迎える中。
子供達が、互いに致命的な怪我を負わせる事なく、性を処理しながら、上手に性に目覚めさせたのは、愛の功績だと、誰もが認めるようになった。
殊に…
日頃、露骨に兎神子(とみこ)達を相手に穂供(そなえ)をする父親の姿を見て、河曽根上町の子供達が真似ねようとして、相手に怪我させかけた事があった。
その時、愛は、そう言う事は、もっと大人になり、身体(からだ)がちゃんと出来上がってからするのだと、教え諭した。
同時に…
『良い事、その時まで、私が教えた通りに、互いの身体(からだ)を慰め鎮めあいながら、よーっく、お互いの事を知る事。穂供(そなえ)は、お遊びじゃないの、新しい生命を頂く、神聖な儀式なの。そこのところを、よーっく覚えておくのよ。』
と、くどくどと説教して、大事に至らせずに済ませたと言う事があった。
以来…
神饌組の子供達の親で、もはや、愛と親しくする事に眉を潜める者はいなくなったと言う。
『愛ちゃん…これは、おイタじゃなくて、これまで、みんなの恋を取り持ち、見守り続けてきたご褒美じゃないかな…』
『ご褒美?』
『それと…愛ちゃんが、みんなに齎せたのと同じ幸せを、今度は愛ちゃんに返したいと言う願いかな。』
『同じ幸せを返す…願い…』
『愛ちゃんは、太郎君をどう思っているの?』
『どうって…』
『私の目には、愛ちゃんも太郎君の事、とても好きだと思っているように見えるよ。』
私が言うと、愛は何も答えず、ただ静かに笑って俯いた。
『私は、思うんだよ。もし、愛ちゃんも太郎君を好きなら…自分の気持ちに素直に従えば良いって…』
『自分の気持ちに?』
『そう、自分の気持ちに…
愛ちゃんが皮剥を受けてから二年、太郎君はずっと愛ちゃんを守り続けてきた。
彼なら…愛ちゃんの全てを得る資格は十分にあると、私は思うよ。』
すると、私の話にジッと耳を傾けていた愛は、早苗の計らいで、私達といる時だけ着る事ができるようになった着物を、徐に脱いで見せた。
『愛ちゃん、何を?』
『今夜はとても冷え込みそうだから…』
『えっ?』
『親社(おやしろ)様のお母様が育った、お山では、夜はみんな裸になって暖めてあって眠るんでしょう?』
『添肌(そえはだ)か。』
私が言うと、愛はニッコリ笑って頷いた。
赤兎の穂供(そなえ)には、皇国(すめらぎのくに)の血を残す為の儀式と言うより、領民(かなめのたみ)達の罪業を白穂と共に流し込み、身を潔める禊の意味合いが強い。
故に、領民(かなめのたみ)達の罪業を一身に受ける赤兎は、穢れた身体(からだ)の人非人と見做され、基本、板敷をあがる事は許されていない。
赤兎が寝起きするのは、神饌所の土間とされ、社(やしろ)によっては、それすら許されず、庭先の木に縄で繋がれてる所もある。
しかし、私は愛を土間になど寝かすような真似だけはしなかった。
神領(かむのかなめ)の者であれば、誰でも赤兎を好きにして良い…
それは、宮司(みやつかさ)も例外ではない。
私は、その権利を逆手に取り、宮司(みやつかさ)屋敷の部屋に連れて、寝かせたのである。
その時、私は愛と同じように、全裸になった。
赤兎を好きにして良いのと同様、着物を着せてはならない禁忌もまた、宮司(みやつかさ)も例外ではない。
ならば、寝巻きを着せてやる事ができない代わりに、自分も着物を脱ぎ捨てたのである。
そして、母の故郷の山里では、夜は家族全員素っ裸になり、互いの肌で暖め合って眠る添肌(そえはだ)の風習が伝わっている事を教え、愛と共に寝床に入った。
早苗の計らいで、社(やしろ)の者達とだけいる時は、愛に着物を着せるようになってから、添肌(そえはだ)をして眠る事はなくなったのだが…
『久しぶりに、暖めあって眠るのも悪くないな。』
私が言うと…
『うん。』
愛は、クスクス笑いながら寝床の支度をし、私が着物を脱ぐのを手伝い始めた。
添肌の作法は、まず、家の女達が先に着物を脱いで寝床の支度をし、男達が着物を脱ぐのを手伝う。
やがて、男達も裸になって寝床に入ったら、脱いだ着物を畳んだ後、女達も寝床に入る事になっている。
愛は、その作法を忠実に覚え、従おうとしていたのである。
このまま普通に大人になれたら…
大人になって、太郎に嫁ぐ事ができたなら…
さぞかし、世話焼きな妻となるのだろうな…
私は、甲斐甲斐しく着物を脱ぐのを手伝う愛を見て思った時…
私の褌を外した愛は、不意に手を止めたかと思うと、私の股間を、ジッと見つめ出した。
『愛ちゃん…?』
私が、何か問い掛けようとすると…
『太郎君、今日も私の身体(からだ)見て、ずっと穂柱を勃たせていた。』
愛は、ポツリ呟くように言った。
『そうか…それだけ、愛ちゃんの事を好きだと、太郎君の身体(からだ)が言っているのだろう。』
『うん。』
『愛ちゃんは、どうなの?
もし、男の子が穂柱を勃てているのを見て、女の子の身体(からだ)も反応したなら、女の子も男の子の事を好きだと身体が言っているんだよね。』
『うん。』
『太郎君の穂柱が勃つのを見て、愛ちゃんの身体(からだ)は…』
私が言いかけると…
『親社(おやしろ)様の穂柱は勃たないの?』
愛は、私の問いに答える代わりに、唐突に問い返した。
『親社(おやしろ)様の身体(からだ)は、私の事、好きだって言わないの?』
『それは…』
言葉に詰まる私の顔を見上げる愛は、目に涙を浮かべていた。
『私には、その資格はない…』
私は大きく息を一つ吐くと、愛の前にしゃがみ、頬をつたう小さな滴を指先で拭ってやった。
『資格?』
『男は、その人を守り抜く事ができて、初めて好きだと思う資格、言う資格がある。
私は、いつだって見ているだけで、誰も守る事ができなかった。』
『そんな、親社(おやしろ)様は…』
『でも、太郎君は違う。太郎君は、出会った時から、ずっと愛ちゃんを守り続けてきた。必死で守り続けてきた。何もできない、何もしなかった私と違ってね。
もう一度、聞くよ。愛ちゃんは、太郎君の事、どう思っているの?』
今度は、愛が答えに詰まり、鼻を鳴らしだした。
『太郎君の事を好きでないなら…
穂柱を勃たせているのを見て、身体(からだ)が何も反応しないなら、それで良い。
彼も、潔くそれを受け入れる男だと思う。
でも…』
私は、止めどなく溢れさせる涙に濡らした愛の頬をなでながら、一言一言噛みしめるように言葉を続けた。
『もし、愛ちゃんの身体(からだ)が少しでも反応を示すなら…
太郎君には、愛ちゃんの全てを得る資格があるよ。』
『それじゃあ、親社(おやしろ)様は、私に太郎君と…』
私が大きく頷くと、愛は更なる涙を目に浮かべたが…
『うん、わかった。』
やがて、何かをふっきったように、愛は私の顔を見上げると…
『それじゃあ、私、太郎君と…』
何かを決意したように、ニッコリ笑いかけ、私の胸に顔を埋めた。
しかし、結果は惨憺たるものであった。
『やい!名無し!テメェ、見損なったぜ!テメェ、愛ちゃんの何にもわかってねえんだな!』
翌日…
参籠所の湯殿から飛び出す太郎は、凄まじい剣幕で私に捨て台詞を残して去ってゆき…
参籠所の湯殿には、一人泣き崩れる裸の愛が取り残されていた。
「わあ!愛ちゃん、綺麗ねー!」
「何て綺麗なんだーーーー!!!!」
「愛ちゃん、素敵よーーーー!!!」
今となっては、愛が本当に思いを寄せていた相手を、皆が知り、私に連れられて姿をあらわす愛に、一斉に歓声をあげていた。
「爺じ、優しくしてやれよーーー!」
「この美女と野獣!優しくしてやんなかったら、承知しないわよー!」
「爺じ、ポヤポヤ…ポニョポニョ…」
私に対する冷やかしの声も、勿論、あちこちから炸裂する。
そうした中…
太郎の恋路には、今は亡き親友、貴之との思い出多い和幸の眼差しは複雑であった。
生前、智子にも随分諭されていたようであり、菜穂にも随分と言い含められ、一応、納得はしたつもりであった。
それでも、頭でわかってはいても、気持ちとして、どうしても受け入れられないものがあるのだ。
納得が行かないと言えば、亜美はもっとであった。
愛する早苗を私に殺され、早苗が産んだ子を私に奪われた。
その上、宝物だった愛まで、私に汚されたのだ。
しかも…
自分が廃人になってしまっている間に、それが起きてしまっていた。
愛が産んだ子は、可愛かった。父親が誰であっても可愛かった。それだけに、その子の父親の座を、喧嘩友達だった貴之の可愛い子分から奪われた口惜しさは、言葉に言い表せなかったのだ。
皆が歓声を上げている間…
亜美は、拳を強く握りしめ、唇を噛み締めて俯き、全身を震わせていた。時折、私に向ける眼差しは、憎悪に満ちていた。
そして…
誰よりも暗い顔してるのは、太郎と太郎の兄貴を自認する竜也であった。
「兄貴…俺、俺、泣かないよ…俺は男だ、愛ちゃんの為だ、笑って祝ってやらあ!」
「わかるぞ!わかるとも、兄弟!おめえの辛い気持ち、おいらが一番わかってるよ!」
「わかってくれるか、兄貴!」
「わかるとも、弟よ!」
二人は、片腕で肩を組、もう片方の腕を目頭に当てると、男泣きを始めた。
「はいはい、よしよし。今夜は特別、この姉ちゃんが、二人まとめて面倒見てあげるよ。」
雪絵が、二人の頭を良い子良い子してやると…
「姉貴!」
「ユキ姉!」
二人揃って、雪絵の胸に取りすがって、オイオイ泣き出した。
ところで…
この時まで、何処の席にもついてない男が一人いた。
純一郎だ。
彼は、こう言う席に立ち会う時、最後まで席に着くことをしない。
特に、我が家のように上座も下座もない円卓の席では、ギリギリまで座らないのだ。
彼が座席に着くことで、上座や下座が変動してしまったり、皆の席順位置が変動するのを極度に嫌うのだ。
それと…
立っていた方が、そこにいる人と人との関係、立ち位置、本心がよく見渡せたりもする。
日頃、皆に茶化されては、惚けた物言いで反応を示す彼と打って変わって、細い目を一層細くして辺りを見渡す彼の眼差しは鋭いものがあった。
特に…
和幸と里一を見つめる眼差しは、非常に厳しく光っていた。
その里一と言えば…
「ポヤポヤ~。ユカ姉ちゃん、泣いてるポニョ~。」
「どーした!具合でも悪いのか!」
「も~、マサ兄ちゃん、わかってないポニョ~。愛ちゃんが抱っこしてるのわ~?」
「赤ちゃん…だろー。」
「そうそう…ユカ姉ちゃんだって~」
「そーかー、欲しいよな~、赤ちゃん。」
「それに、もう兎神子(とみこ)じゃないから、取られないポニョ~」
「今夜は、一人で寝るの、寂しいな~。」
勿論、まっすぐ視線を自分に向けて話す、政樹と茜のこれ見よがしな会話に、里一は苦笑いして見せていた。
「良かったわね~、愛ちゃん、本当によかったわね~」
由香里は、前掛けで目を拭いながら、スーッと立ち上がり…
「よしっ!やるわよ!」
「ユカ姉!朝まで、励むんだ!」
「上から攻めて十回!」
「下から喘いで十回!」
「朝まで、合計二十回は…」
のりのりに止まらない二人の後ろに立つと、思い切り頭をひっぱたいた。
「痛え!」
「痛いポニョ~!」
思わず悲鳴をあげる二人に、眉に皺寄せ、口をへの字にして睨みつけると、由香里は更に拳を振り上げた。
「まあまあ、由香里さん…そのくらいで許してやりなせえ。」
「でも…」
「姉さん思いの、可愛い子達じゃござんせんか。」
里一は、由香里の手を握り、口元を綻ばせながら…
見えない目線を、純一郎の方に送っていた。
一方…
和幸は和幸で、里一の表情から純一郎の視線に気付くや、太郎の失恋を思って複雑な表情をしていたのが一転して無表情になり、不可思議な眼差しを、純一郎に向けた。
そして…
進次郎は、そんな三人の顔を澄ました顔して、静かに見渡している。
「ウォッホン!ウォッホン!」
純一郎は、不意に大きな咳払いをすると…
「さーて、さて、皆さん静粛に、静粛に…」
どうして、こうも急に表情を一変できるのかと思うほど、相好を崩し、ペロンとした恵比須顔を作って、私と愛を席に座らせながら、皆の前に立った。
「いやー、おめでとう、おめでとう、愛ちゃんに、名無しー…失礼、爺じ殿。」
「いや、ジュン!その呼び方の方が失礼だって!そろそろ、その爺じ、勘弁してくれないかな…」
私が頭を掻いて言うと、純一郎が前に出てきても少しも静粛にならなかった皆が、一斉に爆笑して、静粛になった。
「いやあー、この度は、本当におめでとう!
愛ちゃんも、本当に頑張ったねー!この三年、いろんな痛みに耐えて、よく頑張った!感動したよ!おめでとう!」
すると…
それまで、ジーッと目の前のご馳走を前に指を咥え続けていた希美が…
「いっただっきまーーーちゅ。」
と、声を張り上げた。
「コラッ!まだ、食べて良い何て、誰も言ってないぞ!」
それまで、表情を失っていた和幸は、我に返ったように、希美を叱りつけ、『メッ!』と厳しい目線を送った。
「我慢、我慢、お利口ね、したよ…我慢、我慢、お利口ね、したよ…」
希美は、やっと食べられると思ったソーメンに箸を向けたまま、ベソをかきだし、涙腺が緩み始めた。
「そうね、希美ちゃん、お利口してたもんね、よしよし。でも、もう少しだからね…もう少しだけ、我慢我慢お利口しようね。」
菜穂は、本泣きになる前に、希美を抱きしめてやりながら、和幸を睨みつけた。
和幸は、慌てて目線をずらし、純一郎の話に聞き入り始めた。
「で、あるからしてぇ…私と爺じと出会いましたのは、今を去ること、二十年程前…」
純一郎の話は、いつだって長い。
今夜も既に小半刻が過ぎようとしていた。
「ポヤポヤ~、今を去る事二十年前だってポニョ~。」
「愛ちゃん、まだ産まれてねえじゃねえか…」
「私だって産まれてないポニョ~。」
周囲からは、明らかに飽きてしまった聴衆が、ザワザワし始めている。
「当時、不詳、河泉純一郎(かわいずみのじゅんいちろう)は、河泉産土社町(かわいずみのうぶすなのやしろのまち)を立て直すべく…また、鱶見社領(ふかみのやしろのかなめ)の腐敗形骸化を正すべく、逓信と運輸を領民(かなめのたみ)経営とする志を抱きまして~」
「ハア?」
朱理は、あからさまに、(。•́︿•̀。)←こう言う顔になっり…
「鱶見社領(ふかみのやしろのかなめ)の腐敗と形骸化の元凶は、やはり、何と言っても、和邇雨一族の独裁にあり~
これは、何としてでも正さねばならぬものであります。
故に…」
純一郎が、更に更に話を続けると…
「もー!関係ないよー!」
朱理は、(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾←こう言う顔になって…
「まあ、まあ、まあ…」
と、隣の進次郎に宥められていた。
しかし…
「私、お腹すいたでごじゃる…」
「してぇ…逓信と運輸を、領民(かなめのたみ)に委ねる事が可能となりました暁には、和邇雨一族の独裁を、必ずやぶっ壊す事が出来るのであります。」
希美どころか、朱理まで泣きそうな顔になってるのも構わず、純一郎の話は、まだまだ続いていた。
すると…
「わあ!オッパイ!」
不意に、希美が目を煌めかせて、大きな声を張り上げた。
既に、純一郎の話など殆ど聞かず、早いところ食事にして欲しいと騒めいていた聴衆は、忽ち静まり返り、声の出所に注目する。
愛が、ぐずつき出した赤子に授乳を始めたのだ。
「おやおや、愛ちゃんもすっかり、お母さんが板についたわね。」
由香里が言うと…
「ポヤポヤ…私に赤ちゃんができた時を思い出すポニョ~…ポニョポニョ…あの子、大きくなったんだろうなあ…ポニョポニョ…」
茜が感慨深く言い…
「なーに、言っちゃってるの。茜ちゃん、オッパイ飲ませる事も、オシメ変えることもろくにできないで、殆ど、私任せだったじゃないのー。」
またまた、口をへの字にした由香里に、頭をポカンと叩かれ…
「もう!何で、すぐにぶつんだポニョ~!」
負けじと口をへの字にして、同じ顔で、由香里と睨めっこ始めると、皆、一斉に笑い出した。
こうなると、もう、純一郎の演説などあったものではない。
「で、あるからしてぇ~…逓信と運輸を~」
話を続けようとする側から…
「オッパイ!オッパイ!」
更に目を煌めかせて喉を鳴らす希美に…
「コラッ!希美ちゃんは、もう十歳だろう!赤ちゃんみたいな事言うんじゃない!」
和幸が叱りつけ、『メッ!』と睨みつけると…
「だって、だって…お兄ちゃん、お姉ちゃんのオッパイ、チューチューしてたよ…チューチューしてたよ…」
希美が、蓄音機のように同じ言葉を繰り返して、ベソをかき出すと、政樹と茜が、二人そろって、「ブーーーッ!」と吐き出した。
またもや、爆笑の渦に包まれる。
更に…
「よしよし、希美ちゃんもお腹すいたんだもんね。ずっとずっと、我慢してたんだもんね。」
菜穂が、それ以上、希美の涙腺が弛まぬうちに頬ずりして宥めながら…
「もう!お父さん!何度言ったらわかるの!希美ちゃん、歳は十歳でも、中身はまだ三歳の子と同じなのよ!目の前で、人目も憚らないで、好きな子のオッパイ吸ってるお兄ちゃんがいたら、欲しくなるのは当然でしょう!」
と、和幸に噛み付くと…
「そりゃーそーよねー。」
雪絵が相槌打つと同時に、更に爆笑の渦が大きくなった。
「ウォッホン!ウォッホン!してからして、逓信と運輸を領民(かなめのたみ)に~」
「はいはい…」
由香里は、まだ話を続けたそうな純一郎に、愛想笑いして適当にあしらうと…
「さあ、みんな、食べましょう!」
と、手を叩くのでなく、政樹と茜の頭をポカポカ叩きながら、皆に呼びかけた。
「いっただっきまーす!」
それこそ、皆、先の希美より大きな声を一斉にあげると、最早、お腹と背中がくっつきそうな一同、ものも言わず、料理に飛びついた。
「さあ、希美ちゃんも食べましょう。」
菜穂に言われても、希美は、まだ、ジーッとオッパイにむしゃぶりつく赤子を見つめて、喉を鳴らしていた。
「希美ちゃん…」
菜穂が困った顔して、希美の袖を引くと…
「希美ちゃん、おいで。」
愛が、ニコニコ笑って、希美を手招きした。
希美は、嬉しそうに笑うと、トコトコと赤子を抱く愛の側に行った。
「愛ちゃん…」
焦る菜穂に…
「良いじゃない、菜穂姉ちゃん。」
愛が言いながら、片目瞬きすると、側に寄ってきた希美の頬を撫でてやった。
「希美ちゃんも、飲みたいもんね。」
希美はまた、満面の笑みで頷いた。
目の前では、赤子が小さな手で母の乳房にしがみつき、夢中になって飲み続けている。
「赤ちゃん、かーいー。」
希美は、ニコニコ笑いながら、赤子を撫でた。
と…
「サナちゃん…」
それまでずっと、ムッツリ黙り込んで俯いていた亜美が、優しげな笑みを浮かべて、希美に呼びかけた。
「赤ちゃん、カーイー、カーイー…」
希美は、赤子を撫でながら、嬉しそうな笑顔で、亜美に振り向いた。
「サナちゃん、赤ちゃん、可愛いね。」
「うん、カーイー。」
「サナちゃん、お母さんのオッパイ飲んじゃったら、赤ちゃんの飲むオッパイ、なくなっちゃうよ。」
亜美が言うと、希美は驚いたように、目を丸くして、もう一度、赤子の顔を見つめた。
やはり、美味しそうに飲んでいる。
「赤ちゃん、オッパイ…オッパイ…」
指を咥えて首を傾げる希美に…
「そうよ。希美ちゃんみたいに大きい子が飲んじゃうと、すぐになくなっちゃうのよ。」
由香里が、すかさず横から口を出して言った。
「ほら、さっきも見たでしょう。お姉ちゃんのオッパイ、お兄ちゃんが飲んじゃうところ。あーやって、毎日毎日、お兄ちゃんに飲まれてるから、お姉ちゃんのオッパイ、ペッタンコだったでしょう。」
「ちょ…ちょっと、ユカ姉ちゃん!」
茜が思わず目を剥くと…
「そうかー、茜ちゃんの胸がペッタンコなのは、マサ君のせいだったのねー。」
雪絵が、ニィッと笑った。
「おい!ユキ姉!」
今度は、政樹が目を剥くと…
「何でも良いけどさ…マサ君、そろそろ、そのユキ姉っての、何とかならない?私達、同い年じゃない。ま…仕方ないか…
毎日、茜ちゃんのペッタンコなお乳吸ってたら、私の立派な胸を見たら、どーしても、お姉ちゃんに見えちゃうものねー。」
雪絵は、確かに、十九とは思えない豊かな乳房を見せつけるように言った。
「ポニャーッ!ユキ姉ちゃん、酷いポニョ~!」
茜が、歯を向いて、思い切りむくれると、またまた、爆笑が渦巻いた。
亜美は、そんな周囲のざわめきなど意にも介さず…そもそも、目にも耳にも入らず、一層優しげな笑みを傾けて…
「希美ちゃん、赤ちゃん、お腹すかしたら、可哀想ね。それでも、オッパイ飲みたい?」
希美に言うと、希美は指を咥えて切なそうに首を振った。
「あらー、希美ちゃん偉いわねー。」
と、丁度、天麩羅を横取りしようとする政樹と攻防戦を展開し始めていた由香里が、今にも大粒の涙を零しそうな希美に言った。
「ねえ、何処の誰かさんとは、大違い…」
と、横目で政樹を見ると、まさに、政樹は奪った天麩羅を咥え、隣の茜に戦利品を分けようとしていた。
由香里は、また、拳を思い切り振り上げた。
「サナちゃん、相変わらず、赤ちゃんが大好きなんだねー。お皿持っておいで。」
相変わらず、周囲が全く目にも耳にも入ってない亜美は、一層、愛しそうな眼差しを向けて、希美に手招きした。
希美は、不思議そうに小首を傾げた後、言われるままにお皿を持って、亜美の方に行った。
「サナちゃん…私のサナちゃん…」
亜美は、希美を優しく抱き寄せると、何度も頬ずりした後…
「これは、赤ちゃんの為に我慢できたご褒美。」
そう言って、自分の天麩羅を、希美のお皿に乗せてやった。
「わあ!お姉ちゃん、ありがとう。」
希美が、溢れる程の笑みを浮かべると…
「ねえ、私をアッちゃんって、呼んでくれない?」
亜美は、希美の頬を撫でながら言った。
「あー…ちゃん?」
希美は、言われるままに口走りながら、首を傾げた。
相変わらず、人の名を聞き分ける事を理解してなかった。そもそも、その人が自分を呼んでる事は理解してるが、自分の名前をわかってなかった。逆に、だからこそ、智子には美香と呼ばれ、亜美には早苗と呼ばれても、違和感なく振り向きもしたのである。
「そう、アッちゃんって、呼んで。」
亜美がもう一度言うと…
「はーい、お姉ちゃん。」
希美は、何も悪びれずに、元気よく返事をした。
「まあ、良いわ…」
亜美は、クスクス笑って、もう一度、希美を撫でてやった。
「私の事、覚えてなくても良いの。サナちゃんが戻って来てくれただけで、嬉しいから。もう、何処にも行かないでね。」
「はーい、お姉ちゃん。」
希美は、もう一度元気よく返事をすると…
「我慢、我慢、お利口ね。我慢、我慢、お利口ね。天麩羅、貰った、天麩羅、貰った。」
大はしゃぎしながら、席に向かった。
途中…
「希美ちゃん、えらかったぞ。ご褒美貰って、よかったね。私もあげよう。」
まず、私も自分の天麩羅を一つ希美の皿に乗せてやり…
「私もあげるわ。」
愛が私に続いた。
和幸は、希美を呼び寄せたあたりから、寂しげな眼差しで、亜美を見つめていた。
『美香ちゃん、なーんにも覚えてないんだね…』
『良いの…何も覚えてなくても…美香ちゃんが戻って来てくれただけで、嬉しい…』
『そうね…昔の事なんて、全部忘れて仕舞えば良いわ。だって、辛い事ばかりだったのですもの。これから、お母さんと、沢山、楽しい思い出を作りましょうね…』
拾里で過ごした日々、美香と重ね見て希美を可愛がっていた、智子の事を思い出したのだ。
「お母さん、我慢、我慢、お利口したよ。天麩羅貰ったよ。」
希美が席について、菜穂にお皿を見せると…
「まあ、よかったわね。希美ちゃん、本当に偉かったわ。お母さんからも、ご褒美。」
菜穂も、自分の天麩羅を希美の皿に乗せてやった。
「わあ!ありがとう!」
希美がまた、大喜びすると…
「お父さんも、ご褒美くれるわよ。」
和幸は、急に菜穂に話を振られて、我に帰った。
「ねえ、希美ちゃん、赤ちゃんの為に、オッパイ我慢できたのよ。お父さんもご褒美くれるわよね。」
「そうだね。希美ちゃん、偉かったぞ。」
和幸もまた、優しげな笑みを満面に浮かべて、お皿に乗せてやると、果たしてそんなに食べきれるのかと思われるほどの天麩羅を見て、希美は大喜びした。
「どうした?元気ないでござるよ。」
朱理は、進次郎に声をかけられ、ハッと我に返った。
それまで、私と愛と赤子、菜穂と希美と和幸を、物寂しそうに、ジーッと見つめていたからだ。
「話に混ざってくれば良いではござらぬか。」
進次郎が言うと…
「ううん、良いでごじゃる…」
朱理は、また、寂しそうに俯いて首を振った。
「愛ちゃんの晴れ姿、一番楽しみにしていたのではござらんか?」
進次郎が言うと…
「私、赤ちゃん、もういないから…」
朱理は言いながら、見えない赤子を抱く仕草をして見せた。
「私の赤ちゃん、可愛かったでごじゃる…一緒に生まれた、ナッちゃんの赤ちゃんは、赤ちゃんなのに凄く美人だったけど…私の赤ちゃんは、タヌキみたいな顔していてたでごじゃる。でも、とっても可愛かったでごじゃる。」
「今頃、物凄い美人になってござるよ。」
「そう、思う?」
「勿論でござるよ。アケちゃんの子ではござらぬか。」
進次郎が言うと、朱理は嬉しそうに笑った。
「大きくなったでごじゃるかなー。もう、四つになるでごじゃるもん。」
「そうか、四つか。可愛い盛りだな。まあ…アケちゃんに似てるなら、相当な悪戯でござろうけどな。」
「まあ!悪戯だなんて!酷いでごじゃるーー!」
朱理が、漸く(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾←こう言う顔して、いつもの調子に戻って言うと、進次郎はカラカラと爽快な笑い後で挙げた。
隣では、また、和幸と菜穂が揉め出している。
「もう!お父さん、お酒呑んじゃダメ!」
「良いじゃないか!今日はめでたい日なんだら!」
「何言ってるの!もう、二十本は呑んだじゃない!呑み過ぎよ!」
原因は、二人が奪い合うお銚子のようだ。
「ねえ、希美ちゃんだって、酔っ払い、嫌いよねー。」
菜穂が、話を希美に振ると…
「酔っ払い、嫌い!」
希美は、意味も分からず、菜穂に肩を持ってそっぽ向いた。
「アケちゃん、助けてくれないか?」
成る程、どんだけ呑んだらこうなるか?と、思われるほど、真っ赤な顔をした和幸が、酒臭い息を吐きながら、朱理に応援を求めてきた。
「カズ兄ちゃん、臭いでごじゃる…呑み過ぎでごじゃる…」
「そうでしょう!」
菜穂もまた、٩꒰・ัε・ั ꒱۶←こう言う顔になって、朱理に応援を求めてきた。
「カズ兄ちゃんったらね、拾里ですっかり、呑んべえさんになっちゃったんだってよ!」
「まあ!」
「シゲさんがいけないのよね!ドブロク作るのが趣味なのは良いんだけどさ!カズ兄ちゃんが、褒めちぎったら、喜んじゃってさ、男は呑んで強くなるとか何とか言っちゃって、ガンガン呑ませちゃったんだってー!それで、すっかり呑助になっちゃったって、百合さんが言ってたわ!」
と…
一度、まくし立てたら止まらない、菜穂の機関銃台詞は、まだまだ続く…
「でも、百合さんもいけないわ!トモ姉ちゃんとの経緯知って、変に同情しちゃってさ!辛くなると、百合さんとシゲさん所に身を寄せるカズ兄ちゃんに、ガンガン呑ませちゃうんだから!
あの失踪だって…
百合さんやシゲさんと呑み明かし、泥酔した状態で、フラフラ出歩いたら、自分でも、何処行くかわからない状態で彷徨い歩いて、姿を消しちゃったんだって!
私がやっと見つけた時、お父さんったら、彷徨っていた間の事、全部忘れちゃっていたのよ!
その間、みんな、どんだけ心配したと思ってるのよ!
希美ちゃんなんか、お父さんに捨てられたと思って、何も食べられなくなってたのよ!可哀想に…」
最後は、例によって、希美を抱きしめて、メソメソ泣き…
希美は、自分の事を話して泣いてるのも理解出来ず…
「よちよち、お母さん、可哀想、可哀想…」
と、菜穂の頭を撫で撫でしていた。
「ハア…」
朱理が、´д` ;←こう言う顔になって、些か辟易し始めると…
「アケちゃん、君は僕の味方だよね!」
和幸は、突然、両手で朱理の手を握りしめて言った。
「え…あの…その…」
「男には、いざとなったら、お酒しかないんだ!他に逃げ道は無いんだよ!」
「えっと…まあ…そうなのでごじゃるか?」
「それにしても、今日のアケちゃんは、素敵だね…」
和幸は、突然、濡れたような流し目で、しみじみと朱理を見つめて言い出した。
「僕は気づいたよ。いざとなったら、もう、君しかいないんだって…今夜は、久しぶりに二人きりで添い寝しよう…」
朱理は、忽ち顔を赤くして、ポーッとなった。
「一年もの間、寂しい思いさせて、ごめんね…この一年、一日だって、君を忘れた日は無いんだよ。
今夜は、朝まで、その埋め合わせをするよ。」
朱理は身も心もすっかり火照りだし…
「そうよね…カズ兄ちゃんも、ずっと辛い思いしてきたんだもんね…やっぱり、お酒くらい…」
すると…
「アケ姉ちゃん!まさか、まさか…アケ姉ちゃんだけは、私の味方だよね、親友だよね。
だのに…
だのに…
私を見捨てるの…」
菜穂は、更に更に希美を強く抱きしめて、目を潤ませたかと思うと…
「私には、味方してくれる人、いないんだー」
と、食卓に顔を伏せて、「えーん!」と泣き出した。
「えーーーーっ!」
朱理が、忽ち(´;Д;`)←こう言う顔になって、途方にくれると…
「お父さん、もう昔と違うのよ!こんな可愛い娘がいるのよ!だのに…だのに…お酒呑み過ぎて、また、いなくなっちゃったら、私達…」
菜穂はそう言うと、ますます声をあげて、「えーん!」と、泣き出した。
すっかり困り果てた朱理は…
「やっぱり、お酒は程々にしないといけないでごじゃる。お母さんと娘を、心配させたり、悲しませたりしては、いけないでごじゃる。もう、やめるでごじゃる。」
渋々、ブツブツ言うなり、和幸から銚子を取り上げた。
「そっか…ダメか…」
和幸は一言言うと、大きな吃逆を一つして、そのまま食卓に顔を伏せて、寝込んでしまった。
「まーったく、しょうがない人…」
菜穂は、さっきまでの大泣きが嘘のようにクスクス笑いながら、和幸の背中に羽織をかけてやった。
「しょーない人。しょーない人。」
希美も、意味もわからず、菜穂の言葉をおうむ返しに繰り返すと、ニコニコ笑いながら、和幸の頭を撫で撫でした。
「アケ姉ちゃん、ありがとう。私、本当にお父さんが心配なの。お父さんが、またいなくなったらって思うと、夜も眠れないの。」
菜穂は、愛しそうに和幸の肩を抱いて頬ずりしながら、朱理に言った。
「私だって…そうで、ごじゃるよ。カズ兄ちゃんとナッちゃんがいなかったら…」
「わかってる。アケ姉ちゃん、本当にありがとう。」
菜穂は言うと…
「あらあら、お父さん、こんなにソーメンも天婦羅も残しちゃって…
希美ちゃん、二人で食べよっか。」
「うん。」
和幸の食べ残しを、希美と二人で分け合って食べ始めた。
「やれやれでごじゃる…」
朱理は、大きく一つ息を吐くと…
寝込んだ筈の和幸が静かに目を開けてる事に気付いた。
その目線は、まっすぐ、純一郎に向けられていた。
純一郎もまた、すっかり酒が入り、里一と話し込んでいた。
「いやー、里一君!君は、いつになったら、由香里さんをモノにするつもりだね!」
「いや、それは…」
「ポヤポヤ~、早くしないと、他にもってかれちゃうポニョ~。」
男とくっつくのも早いが、酒に手を出すのも早く、十五の歳には、酒豪でならした茜は、里一の肩に腕を回すと、二号銚子を直飲みしながら言った。
里一は、ニィッと笑い、由香里は顔を真っ赤に俯いた。
「ユカ姉ちゃん、こう見えても、モテモテなんだポニョ~。」
「そうだよ。社領(やしろのかなめ)の中に、身体(からだ)目的なだけじゃなくて、本気で嫁さんにしたがってる男が、両手の指で数え切れない程いるんだからなー。」
政樹も、茜に負けず、里一をけしかけていた。
「でも、里一さんに一途なユカ姉ちゃん、穂供(そなえ)以外じゃ、どの男も近づけなかったんだポニョ~。爺じが親社(おやしろ)様になってから、社外(やしろのそと)で穂供(そなえ)する事すら、断っていたんだポニョ~。」
由香里は、益々、顔を赤くした。
「兎神子(とみこ)を解かれてからね~、男は誰一人寄せつけなかったんだポニョ~。私なら、そんなに言い寄ってくるならさ~、全部味見しちゃうんだポニョ~。」
空になった二号銚子を放り出し、新しいのをもう一本手に取りながら、ノリノリで言うと…
「茜ちゃん!」
政樹は、蒼白になって立ち上がった。
「里一さん、女の子、抱いた事あるポニョ~。」
「いえ、あっしは、まだ、そっちの方は…」
「どーしてポニョ~?こんなに素敵なのに?」
「あっしは、めくらでござんすから…」
「関係ないポニョ~。
見えなくても、ちゃーんとできるポニョ~。」
すっかり出来上がった茜は言いながら、里一に頬ずりしたり、頬を撫で回したりした。
「だったらさあ、私が今夜、教えてあげるポニョ~。」
「茜ちゃん!」
益々、蒼白になる政樹が、叫ぶより早く、由香里が後ろから、ポカーン!と茜の頭にゲンコツをくれた。
「痛いポニョ~!」
「茜ちゃん!飲み過ぎよ!」
茜は、口をへの字にする由香里に、ニコッと笑いかけると…
「ユカ姉ちゃん、怒ったポニョ~。」
クスクス笑いながら、由香里の肩に腕を回し…
「今夜こそ、里一さん、お部屋に連れて行ってあげるポニョ~。」
「えっ?」
「ユカ姉ちゃん、今まで、ありがとう。知ってるよ…いつまでも、ここを出て行かない理由。私達の為なんでしょう?」
「茜ちゃん…」
「でも、もう、里一さんと幸せになるポニョ~。今まで、私達の面倒見てくれた、ご褒美だポニョ~。」
由香里は、思わず涙ぐんで茜を抱きしめた時…
「ところで、親社代(おやしろだい)様。例の件でござんすが…」
里一は、静かに純一郎の杯に酒を注いだ。
「例の件?」
「貴方様を、鱶見大連(ふかみのおおむらじ)の座におつけする話でござんすよ。」
「おい、君…」
純一郎は、鋭い横目で里一を見据えると…
「あっしは、本気でござんすよ。」
「何故、君…いや、君達、燕組はそこまで私に肩入れするのかね?」
「ご褒美でござんすよ。」
里一は、杯の酒を一気に呑み干しながら、ニィッと笑った。
「ご褒美だと?」
純一郎は、元々細い目を、更に怪訝そうに細めた。
「愛ちゃんを赤兎にしない為…せめて、普通に白兎として社に迎える為、漸く手が届きかけた大連の座を、河渕産土宮司(かわぶちのうぶすなつみやつかさ)の恵三連(よしみつのむらじ)様にお譲りになられたではありませんか。」
「だが…土壇場で、約束を反故にされ、事は成就しなかったぞ。康弘派の神漏(みもろ)衆や神使(みさき)衆共、秋桜会座頭衆共と結託し、総宮社(ふさつみやしろ)に根回しして圧力をかけさせ、結局、愛ちゃんは…」
「だから、恵三連(よしみつのむらじ)様には罰を与えやす。」
里一は、空になった杯に、手酌で酒を注ぐと、顔色一つ変えずに言った。
「罰だと…?」
「既に、手は打ってござんす。程なく、恵三連(よしみつのむらじ)様は、脳梗塞でお亡くなりになるかと…」
「里一君、君はまた…」
「康弘連(やすひろのむらじ)様の方も手を打ってござんす。」
「おいおい、まさか河曽根の御隠居様まで…」
「ご安心くだせえ。康弘連(やすひろのむらじ)様は、今後、総宮社(ふさつみややしろ)の爺社(おやしろ)様や聖領(ひじりのかなめ)との長い戦いを見据えた上で、まだまだ必要なお方…百歳まででも生きていて頂くつもりでござんす。ただ、御子息の弘文様と美唯二郎様には、鎮守社宮司(しずめのもりつやしろのみやつかさ)と鎮守社警護番組頭(しずめもりつやしろけいごばんくみがしら)を退いて頂く所存…」
「馬鹿な…鱶見社領(ふかみのやしろのかなめ)におけるあの方の勢力は盤石。鱶腹宗家当主、総宮社(ふさつみやしろ)の爺社(おやしろ)様の御曹司である名無しですら手が出せん男だぞ。」
「河金丸信大使主(かわかねのまるのぶのおおおみ)様を動かす…と、言ってもでござんすか?」
「大使主(おおおみ)様を動かす…だと?」
「親社代(おやしろだい)様もご存知でございましょう?兼ねてより、大使主(おおおみ)様は、康弘連(やすひろのむらじ)様を大変嫌われておいでな事…」
「嫌うと言うより…激しく嫌悪されている。最も…御隠居様は、あの方の事をいたくお気に召しておられ…
兼ねてより大使主(おおおみ)の座を約束していた名無しの先回りするように、康弘連(やすひろのむらじ)様が、河金丸信大使主(かわかねのまるのぶのおおおま)様を大使主(おおおみ)に推挙された。」
「その貸借関係で、雁字搦めにされてる事で、嫌悪は憎悪に、憎悪は怨念に変わってござんす。」
「変わったのではなく、おまえが変えたのだろう。」
「その辺りは、どちらでもよいこって…
とにかく、その燻っていた怨念に、軽く火をつけてござんす。」
「何をした?」
「何をって…秋桜会司宰・河副屋浩正(かわぞえやのひろまさ)と神使(みさき)衆筆頭・河下登使主(かわしたののぼるのおみ)様の癒着の証拠を、河中真紀子姫使主(かわなかのまきこのひめおみ)様にお渡ししただけの事…」
「先の神使(みさき)衆筆頭・河中棟梁角栄使主(かわなかのむねはりふさながのおみ)殿の娘、真紀子姫使主(まきこのひめおみ)殿か…父を裏切る形で、今の地位を築かれた登使主(のぼるのおみ)殿を激しく憎悪していると聞くが…
おまえも、中々…」
「真紀子姫使主(まきこのひめおみ)様は、それだけではござんせんでしょう。幼友達が赤兎に兎幣された過去がござんす。その赤兎を、誰よりもいたぶり弄んだのが、康弘連(やすひろのむらじ)様と登使主(のぼるのおみ)様…
その事でも、お二人を激しく憎悪され、同時に、赤兎の皮剥と兎幣の廃止を望まれておられやす。」
「よく、そこまで調べ上げたもんだな…」
「あっしは、めくらな分、地獄耳でござんすから…
まあ…
そう言うわけで…
近く、河金丸信大使主(かわかねのまるのぶのおおおみ)様の後押しを受け、真紀子姫使主(まきこのひめおみ)様の殿御…直紀使主(なおのりのおみ)様が、登使主(のぼるのおみ)様への不信任を提出。崇儀会(たかきのりのえ)は、全会一致でこれを決議し、登使主(のぼるのおみ)様は罷免。更には、登使主(のぼるのおみ)様の支持派閥である敬生(けいせい)派の神使(みさき)達は一掃され、鱶見全社領(ふかみのすべてのやしろのかなめ)の神使(みさき)衆は、角栄使主(ふさながのおみ)様の支持派閥である沐耀(もくよう)派の神使(みさき)達で占められやす。」
「そうして、一度は揉み消された秋桜会との汚職疑惑が蒸し返され…
崇儀会(たかきのりのえ)は、御隠居様への弾劾と、御子息であられる、鎮守社宮司弘文連(しずめのもりつやしろのみやつかさひろぶみのむらじ)様と、鎮守社警護番組頭美唯二郎連(しずめのもりつやしろのけいごばんくみがしらびいじろうのむらじ)殿の不信任決議を出す…」
「新たに本社領(もとつやしろのかなめ)の神使(みさき)筆頭に推戴される直紀使主(なおのりのおみ)様は、進次郎連(しんじろうのむらじ)様を鎮守社宮司(しずめのもりつやしろのみやつかさ)、兄君様の孝太郎連(こうたろうのむらじ)様を鎮守社警護番組頭(しずめのもりつやしろけいごばんくみがしら)に推戴。後は、親社代(おやしろだい)様の御決意次第…」
「君の狙いは何だね?」
「ですから、ご褒美でござんす。愛ちゃんの件に限らず、これまで、親社代(おやしろだい)様には一方ならぬご尽力を賜りやした。故に、更に特別なネタもお付けしやしょう。」
「特別なネタ?」
「康弘連(やすひろのむらじ)様は河副屋との汚職疑惑があるように、河金丸信大使主(かわかねのまるのぶのおおおみ)様には、佐川衆を牛耳る河辺屋広康との汚職疑惑がありやす。」
「知っておる。社領(やしろのかなめ)より逓信・輸送を一手に請け負う佐川衆の不正・汚職…
私が、逓信・輸送を領民…中小商工座の者達に委ねようと考えるにと考えるに至ったのも、そこにある。」
「領民(かなめのたみ)に委ねる…悪い考えではござんせんが、それだけでは、何も解決できねえで、ござんしょうねえ。」
「何だと?」
「この汚職…もっと、闇が深うござんすよ。」
「闇?」
「背後で糸を引いてるのは、総宮社(ふさつみやしろ)…
更に、裏で糸を引くのは、異国(ことつくに)の勢力…」
「どう言う事だ?」
「小さな事を話せば、旧植民地の南北紛争が生み出す利権…占領軍の意向で、南の分離国を支援しつつ、北の楽園とも密かに結ぶ事で得る膨大な権益を狙う、河金丸信大使主(かわかねのまるのぶのおおおみ)様の思惑…
大きな事を話せば…総宮社(ふさつみやしろ)は、とっくに占領軍を捨てていて、既に楽土とつるんでると言うネタ…で、ござんすよ。」
「成る程…それが本当なら、実に面白いネタではあるな…」
純一郎は、益々鋭い眼光を放つと、里一はまたニィッと笑って見せた。
和幸は、ジッと里一と純一郎の唇を見つめ、二人の会話を読み取っていた。読唇術である。
『父さん…革命の日…』
和幸が心の中で呟いた時…
「カズ兄ちゃん…」
朱理に気づかれると…
「シッ…」
和幸は、ソッと指先を唇に当てた。
「うん…」
朱理は、意味もわからず頷くと、和幸は優しげな笑みを浮かべて、また、寝たふりを始めた。


兎神伝〜紅兎二部〜(14)

2022-02-02 00:14:00 | 兎神伝〜紅兎〜追想編
兎神伝

紅兎〜追想編〜

(14)刺青

社(やしろ)で、皆が共に食卓につける日は滅多にない。
神饌共食祭の穂供(そなえ)は、随時受け付ける事になっている。
私が宮司に就く前は、時間に制限は設けられていなかった。早朝であろうと、深夜であろうと、好きな時に参拝し、好きなだけ、兎神子(ことみ)に穂供(そなえ)をする事が認められていた。
また、兎神子(とみこ)達が一日に穂供(そなえ)を受ける人数も、一度に穂供(そなえ)を受ける人数も、制限はなかった。その兎神子(とみこ)に穂供(そなえ)したい者がいれば、一日に何人でも受け付けたし、一度に何人もで穂供(そなえ)する事も認めていた。
その為、寝る時間も食べる時間もなく、一日中、穂供(そなえ)を受ける時があった。また、一度に、二人三人は当たり前で、五人以上の穂供(そなえ)を受ける時もあった。その為、一日に、合計数十人の穂供(そなえ)をうけるのは、当たり前であった。
それを、私は、一人が一日に穂供(そなえ)を受ける数は上限五人まで、一度に穂供(そなえ)を受けるのは一人のみと取り決めた。また、受け付ける時刻も、朝は辰上刻から夜は戌下刻まで、一人に相手する時間は最長一刻、宿泊は認めない事も取り決めた。
特に、一度に受け付ける人数は一人のみは徹底し、例え祭礼の日であっても徹底していた。
それでも…
ほぼ、一日、ひっきりなしに参拝者が訪れる事に変わりなく、同じ時間に休息を取り、同じ時間に食事をすると言うのは、まず、不可能であった。
それだけに…
たまに、何か理由つけては、穂供(そなえ)を休みとし、皆で休息を取り、皆で食事できる時は、貴重でもあり、楽しみでもあった。
「うっわー!うっまそー!」
「おいしそー!」
料理の並ぶ食卓を前にした途端、皆、大はしゃぎであった。
「いっただっきまーす!」
席にも着かず、竜也がいきなり天麩羅に手を伸ばした途端…
「まだ、駄目!」
と…
例によって、眉に皺寄せ、口をへの字にした由香里に思い切り頭を打たれるのと…
悪いお兄ちゃんを見習って…
「いっただっきまーちゅ!」
満面の笑顔で、こちらは…
「ハーシ、ハーシ、美味ちいね。」
と、手ではなく箸を伸ばそうとするだけ行儀の良い希美が…
「コラッ!行儀わるいぞ!」
と、『メッ!』をする和幸に叱られて…
「いただきまちゅ、言えたよ…ハーシ、ハーシ、美味ちいね、できたよ…」
希美が蓄音機のように、同じ言葉を繰り返しながら、泣き出すのが同時であった。
すると…
「もう!お父さん!そんなに、怒らなくても良いじゃない!希美ちゃん、いただきますも言えたし、お箸だって、持てたじゃない!」
と、菜穂が、和幸に捲くしたてた。
「でも、みんな席にも付いてないのに、箸をつけようとするのは、行儀悪いだろう!」
と、和幸が言い返せば…
「仕方ないじゃない!目の前に、とっても良くない見本のお兄ちゃんがいるんですもの!」
と、菜穂が更に捲くしたて…
「そう!リュウちゃん、あんたが一番悪い!」
由香里は、もう一発、思い切り竜也の頭をぶちのめした。
すると…
「もう!そんなに、リュウ君打たなくても良いじゃない!」
今度は、竜也にはとてつもなく、甘~いお姉ちゃんの雪絵が食ってかかり…
「リュウ君、痛かった?」
と、竜也の頭を撫でてやると…
「うん、すっごく痛かった…」
竜也は、大袈裟に頭を抑えながら、雪絵の胸に顔を埋めると、さりげなく、豊乳な乳房に手を伸ばし…
「よしよし、可哀想、可哀想…」
と、雪絵はその手を胸元に潜り込まさせ、周囲の目のやり場を困らせた。
一方…
大袈裟でもなんでもなく…
「ウゥゥーッ…痛ててぇ…」
「アァァーッ…痛いポニョ~」
と、本当に痛そうに、政樹と茜が頭を抱えて入って来ると…
由香里は…
「フンッ!」
と、鼻を鳴らして、そっぽ向いた。まだ、里一と二人きりでいるところを覗かれた事に、怒り心頭のようである。
「あー!シンさん!」
黄色い声をあげたのは、竜也としっとりしかけていた雪絵であった。
「まあ!本当だポニョ~」
続けて、茜が声を発すると…
「いらっしゃーい、こっちこっち!」
進次郎の方へ飛んでいって、腕を組んだ。
どうやら、色男を見たら、由香里に殴られた痛みなど消し飛んだようだ。
「シンさん、私の隣に座るポニョ~」
茜が、進次郎の腕に頬をスリスリして言うと…
「何言ってるの!私の隣よー!」
雪絵も、竜也を放っぽらかして、飛んできた。
「私の隣よ!」
「私の隣ポニョ~!」
二人が、進次郎の取り合いを始めると…
「茜ちゃん!」
「ユキ姉!」
政樹と竜也が、顔色変えて声あげた。
そこへ…
「まーったく、二人とも、相変わらず男好きね!呆れるわ!」
ツンケンした顔をして、亜美が入って来た。
「アッちゃん!」
「アッちゃん!」
「亜美姉ちゃん!」
由香里、政樹、茜が、同時に声をあげた。
三人は、まだ、希美を早苗と重ね見て、元に戻った事を知らなかったのだ。
「アッちゃん…よく、まあ…」
由香里は、飛んでくるなり、亜美を強く抱きしめて、涙を溢れさせた。
「今夜もソーメン?」
亜美は、食卓の上を見て、ツンとした顔で言った。
「真冬に冷ソーメンなんて、相変わらずの季節感ね。」
すると…
「言えてらー!」
やはり、涙目を擦っていた政樹が、悪戯っぽく相槌を打った。
「どーせなら、鍋でも食いたかったぜ!」
対し…
「フン!どーせ、マサ兄ちゃんが、茜ちゃんと材料全部、しょうのない菓子にしちまったんでしょ!」
亜美が、これまた憎らしい物言いで言うと、一瞬、しんみりしかけていたその場は、どっと爆笑の渦に包まれた。
「実は、そうなの!今夜だって、天麩羅の材料、ぜーんぶお菓子にしちまってさー。危うく、ソーメンだけの寂しいお祝いになるところだったのよー。
ねえ、リュウ君。」
雪絵が言うと…
「ねぇ。」
竜也は、飛んできて相槌を言うなり、これを機会と見て、雪絵の腕を抱え込んで、進次郎から奪還した。
「フン!そのソーメンも、あんたと、そこの愛しの坊やの味見で、なくなっちまわなかったのが奇跡だわ。」
まだまだ続く亜美の憎まれ口に、更なる爆笑が渦巻いた。
「それにしても、ユキ姉ちゃんも、茜ちゃんも、男の何がそんなに良いのか理解に苦しむわ。男なんて、みーんな、私らの事、便所か玩具にしか思ってないじゃない。」
「ポヤポヤ~、そーんな事言ーっちゃうポニョ~。」
雪絵が竜也に奪還されると、茜は逆にすかさず進次郎をガッチリ抑え、もう片方の腕に政樹も抱え込みながら言った。
「亜美姉ちゃんだって、そこに、すてーきな旦那様がいらっしゃるポニョ~。」
秀行は、何を言われても相変わらずの無表情であったが、見るものが見れば、微かに口元を綻ばせ、目元を愛しげに細めて、亜美を見つめている事がわかった。
「フンッ!」
亜美はまた、ツンとそっぽ向くと、自分の二倍近くあぬ秀行の腕にしがみついた。
「ヒデ兄ちゃんを、そんじょそこらの男と一緒にしないでちょーだい!ヒデ兄ちゃんは、女を便所や玩具になんか見てないんだからね。本当、優しいんだから。
それと…」
亜美は、ふと、少し離れた場所で、見えぬ目で優しくこの光景を見守る男に目を止めると、由香里の耳元に口を寄せた。
「里一さんもね…」
「アッちゃん…」
由香里が、思わず目を見開いて亜美の方を見ると…
「ユカ姉ちゃん、さっさとモノにしちゃいな。でないと、あんな素敵な人、他の女に持って行かれちゃうよ。」
亜美は、ニィッと笑って見せた。
「まあっ、ナマ言っちゃって、このおチビさんが。」
由香里も、人差し指で、チョンと亜美の額を小突くと、ニコッと笑って見せた。
「幸せになりな、サナちゃんの分もね。」
「ユカ姉ちゃんこそ、もう、私達の事ばかり気にかけてないで、自分の幸せ考えて。」
亜美が言うと…
「それは、アッちゃん次第。アッちゃんが元気出してくれないと、姉ちゃんも幸せになれない。」
由香里は、もう一度亜美を思い切り抱きしめて、頭を撫で回した。
食堂の隅では、朱理がなかなか席に就けずにいた。
何処に座りたいか、もう決まっている。
既に、菜穂は父に叱られて、まだ泣き止まない希美を胸に抱いて宥めながら、決めた席についている。
その二人と、希美を挟むようにして、和幸が座っていた。
「ナッちゃん、ほら、だから、希美ちゃんだって、もう十歳なんだからさ、行儀も教えないと…」
「フンッ!歳は十歳でも、可哀想な事がいっぱいあって、まだ、三歳の子と同じなのよ!良い子良い子してあげて、いっぱい可愛がってあげないと、大きくならないの!やっと、お箸使えて、頂きますだって言えるようになっなのに、酷いわ!お父さんが、こんな、優しさのかけらもない人なんて知らなかったわ、フンッ!」
「ナッちゃん…」
「希美ちゃん、よしよし…もう、泣かない泣かない…希美ちゃんがお利口さんなの、お母さんが一番知ってるからね…」
菜穂は、一層、優しく希美を抱きしめ頭を撫でてやりながら、和幸を睨みつけて、また「フンッ!」と、そっぽ向いていた。
朱理は、和幸の隣に座りたかった。
以前ならば、和幸を挟んむようにして、三人仲良く並んでいたのだ。そして、殆ど話さず、お内裏様とお雛様みたいに品良く笑う二人の側で、小鳥のように延々と喋り続けていたのである。
そこに、希美が加わった。
ついさっき…
かつて、誰よりも先に愛の親友になったように、今度は、希美を親友にした…と、自分では思っている。
出会った頃、八歳にして大人びていた愛とは逆に、十歳なのに、赤ん坊みたいな希美を、弄りたくて弄りたくてたまらなくもあった。
しかし…
すっかり親子として出来上がってしまっている三人に、なんか近寄り難いものがあって、モジモジしていたのである。
「アケちゃん、席が決まらぬでござるか?」
不意に声をかけられ、振り向くと、這々の体で茜の腕を逃れてきた進次郎が、笑いかけていた。
朱理は、ポッと頬を赤くした。
和幸に対するのとは別に、進次郎に対しても、仄かな思いを抱いていたからだ。
「アケちゃん、今日はまこと、美しゅうござるよ。」
朱理は、また一段と頬を赤くする。
「拙者は、もう、席を決めてござる。ささ、一緒に参ろうぞ。」
「え…あの…その…」
進次郎は、忽ち浮き足立つ朱理の手を引くと…
「カズさん、隣は空いてござるか?」
「おーっ!シンさん、アケちゃん!ちょうど良いところに来てくれた!助けてくれ!」
和幸が言うと、進次郎はさりげなく、朱理を和幸の隣に朱理を座らせ、自分はその隣に座った。
朱理は、肩を小さく窄めて、益々、顔を赤くしていた。
「ポヤポヤ~!アケちゃん良いポニョ~。カズ兄ちゃんとシンさんに挟まれてるポニョ~。両手に花って、この事だポニョ~。」
茜が思わず声を上げると…
「それじゃー、私も~!ポヤポヤ、ポニョポニョ…」
言うなり、力任せに引っ張ってきた政樹と一緒に、進次郎の隣に座り込んだ。
「良いポニョ~、シンさん。」
茜が、両脇の進次郎と政樹と腕を組んで満面の笑みを浮かべると…
「やあ、マサさん。」
苦笑いを傾ける進次郎に…
「フンッ!」
と、政樹はそっぽ向いて見せた。
「だからね…もう!お父さん!」
菜穂は、和幸を中心に着々と皆の席が決まって来るのも気づかず、相変わらず、くどくど説教を続けていた。
「なあ、アケちゃん、シンさん、僕を助けてくれないか?さっきから、ナッちゃんに虐められて困ってるんだ。」
和幸が、朱理と進次郎に助け舟を求めると…
「アケ姉ちゃんは、勿論、希美ちゃんの味方してくれるわよねー。」
菜穂が、希美の肩を抱いて、頭を撫で撫でしながら言った。
希美はと言えば…
「ガマン、ガマン、お利口さん。」
と口走りながら、ニコニコ笑っていた。
いつの間にか、皆が席について『いただきます。』を言うまで、我慢する事を、菜穂に教わり、納得して褒められていたのだ。
「まあ、希美ちゃん、お利口さん、お利口さん。優しく教えてあげれば、ちゃーんと覚えるんだもんねー。」
菜穂が、また褒めてあげると、希美は一層嬉しそうに笑った。
「後で、ご飯の後、アケ姉ちゃんに遊んで貰おうね。」
「うん。」
すると…
「アケちゃん、娘ができて、お母さんが余り相手してくれなくて困ってるんだー。今夜、久し振りに一緒に寝ようか?」
和幸は、スッと朱理の肩に腕を回して言った。
朱理は、また、顔を赤くした。
「アケちゃん、今日は本当に綺麗だよ。一年ぶりに、朝まで僕を暖めておくれ…」
「カズ兄ちゃん…」
和幸に切れ長の優しい眼差しを向けられると、朱理は蕩けるような目をして、和幸の顔を見上げた。
すると…
「あらそう…アケ姉ちゃん、私の味方してくれないの…親友だと思ってたのに…親友だと思ってたのに…酷い…酷いわ…」
菜穂は突然、食卓に顔を伏せて、「エーン!」と、声を上げて泣き出し、周囲は、和幸に説教始めた時にも増して、唖然とした。
あの大人しく淑やかだった…筈の菜穂の変化に、益々驚いたのだ。
「お母さん、虐める人、嫌い!」
希美は、意味もわからず、菜穂に味方してそっぽ向く。
「希美ちゃん…」
朱理は、着せ替え人形にして遊ぶのを楽しみにしていた希美にそっぽ向かれると、指先突いて(´・ε・̥ˋ๑)←こう言う顔になり…
「そりゃ、その…やっぱり、小さい子は優しく、良い子良い子して、その…あの…」
と、口をモゴモゴさせながら言った。
「わあ!やっぱり、アケ姉ちゃんは、私の親友だったのね!」
菜穂は、カバッと顔をあげて、泣き出したのが嘘のように、満面の笑顔で言った。
「お母さん、友達、大好き!」
希美も、やっぱり意味も分からず満面の笑顔を向けて言った。
朱理も思わず笑顔になる。
しかし…
「そっか…アケちゃんは、僕に味方してくれないんだね…僕…僕…寂しいよ…」
変わって、短い間に、菜穂から嘘泣きを学習してしまった和幸が、手拭い噛み締めながら、顔を背けて、「ウッ…ウッ…ウッ…」と、嗚咽の声をあげた。
「そんな…カズ兄ちゃん…」
朱理は、またまた、(´・ε・̥ˋ๑)←こう言う顔になった。
隣で、和幸と菜穂の板挟みになり、泣きそうな朱理の隣で、笑って良いものか、深刻な顔して間に入った方が良いものか、進次郎が困りかけた時…
「ポヤポヤ~。カズ兄ちゃん、みーんなに虐められて、可哀想ポニョ~。私は、いつだって、カズ兄ちゃんの味方だポニョ~。」
茜は、ここぞとばかりに、思い切り悩ましい流し目を向けて言った。
「おおっ、茜ちゃんは、僕の辛い気持ち、わかってくれるんだね。」
「勿論だポニョ~。可愛い娘の為に、心を鬼にして、厳しい顔をする、お父さんの辛~い気持ち、よくわかるポニョ~。」
「嬉しいよ、僕、とっても嬉しい。茜ちゃん、ありがとう。」
「マサ兄ちゃんも、カズ兄ちゃんの味方だポニョ~。」
急に話を振られて、目を丸くする政樹は…
「お父さんは、可愛い子を厳しく躾けなきゃいけないから、辛いポニョ~。」
茜に念を押されると…
「あ…うん、そーだよ…そうそう、お父さんは辛いんだ。」
腕組みをして、いかにもいかにもと言う風に、何度もうなづいて見せた。
「ほらね、マサ兄ちゃんも、カズ兄ちゃんの味方だポニョ~。安心するポニョ~。」
茜が、両目を三日月にしてニッコリ笑うと…
「ありがとう、本当にありがとう。」
和幸が満面の笑みを浮かべるのに対し…
「酷い!酷い!みんなで、お母さんを虐める~」
言うなり、菜穂は、またまた、食卓に顔を伏せて、「え~ん。」と、声を上げて泣き出し…
「お母さん、よちよち…」
と、希美は意味も分からず、悲しそうな顔して、菜穂の頭を撫で出した。
「ところでさ…」
茜は、ここぞとばかりに、これ以上ない程、色っぽいしなをつくり、下心ありありな流し目を、和幸におくった。
「私って、奥手だポニョ~。ウブな小娘だポニョ~。マサ兄ちゃんを思い切り悦ばせてあげたいんだけど…最近、どうも上手くできないポニョ~。」
「いや、そんな事ないぞ。俺、いつも、茜ちゃんと…」
何か嫌~な雲行きになってきたので、慌てて言う政樹をそっちのけに…
「ねぇ、カズ兄ちゃん、久しぶりにあっちの手解きして欲しいポニョ~。」
三日月の目をとろ~んとさせて、茜は益々艶っぽく言った。
間に挟まれた進次郎は、一瞬、笑いかけていたのだが…
「ねえねえ、そろそろ、おしまいにしようでごじゃるよ…」
隣で、(;´・ω・)←こう言う顔になって、困り果ててる朱理を見て、思い切り神妙な顔をこしらえた。
しかし、まだまだ治らない。
「よしよし、わかったわかった、いつでもおいで。僕の床の中は、いつでも、茜ちゃんに開かれてるよ。」
「嬉しいポニョ~!それじゃあ、今夜にも…」
茜が、とろんとした流し目を向けて言うと…
「茜ちゃん!」
正樹は、忽ち😱←こう言う顔になって、今にも和幸の方にフワフワ飛んで行きそうな茜にしがみついた。
「いーわよ、いーわよ…こうして、哀れな女は、男に捨てられるのね…」
菜穂は、拗ねたように言うと…
「希美ちゃん、私達、女二人、この試練に耐え抜きましょうね。大丈夫…私達には、同じ男に捨てられる、アケ姉ちゃんと言う強い味方がいるからね。」
朱理に、涙目で熱い視線を送りながら、希美を抱きしめた。
「えーーーーっ!」
朱理は、忽ちΣ('◉⌓◉’)←こう言う顔をして絶句した。
「あーらら…マサ兄ちゃん、どーすんの?マサ兄ちゃんの、尻軽…失礼、可愛い茜ちゃん、今夜にも取られちゃうわよ。」
亜美が、ツンとそっぽ向いて言うと…
「そうねえ…カズ兄ちゃん、床の中では、誰よりも情が深いし、細やかだし…女の子の身も心も蕩かせて、悦ばせるのは天下一品だものねー。一度、カズ兄ちゃんに抱かれるのを覚えたら…まあ、二度と他の男になんか目を向けなくなるかもねー。」
雪絵は食卓に肘つけて組む両手に頬を乗せると、面白そうに言った。
政樹の顔は、😨←から🥶←に変化して行き…
「ユキ姉、どうして、そんな事知ってるの…」
と、それまで殆ど会話に興味を示してなかった竜也も、😨←こんな顔になりだした。
「あらまあ、せっかくのお祝いだってのに…主役の爺じと愛ちゃんが来る前に、とんだ修羅場になってるのね。何が原因なのかしら…」
里一と、せっせとお膳の支度を続けていた由香里は、呆れ顔で、進次郎に尋ねた。
「娘の教育を巡っての、まあ、痴話喧嘩でござるな。」
笑うのを必死に堪える進次郎は、精一杯、澄まし顔を作って答えた。
「まあ、希美ちゃんの…」
「こう言う問題は、複雑でござるの?」
「その割には、楽しそうよ、シンさん。」
由香里は、ますます呆れたように、首を振った。
「シンさん、そろそろ、この話…決着をつけてやった方がようござんせんか?」
それまで、一言も発さなかった里一が、漸く横から口を挟んで言った。
「拙者が…で、ござるか?どうして?」
「あっしは、聞いてるでござんすよ。裁きにかけては、シンさんは天下一品だと…」
「そうそう…シンさんの名裁き、鱶見社領(ふかみのやしろのかなめ)で知らぬ者なしですもんねえ。この前だって、ほら…遠く山向こうの末社領(すえつやしろのかなめ)でおこった、連続空き巣事件…あれを解決したのもシンさんだったんでしょう?」
由香里が言うと…
「あ、それ、おいらも知ってるぞ!」
竜也も、ひょこっと首を伸ばして言った。
「何でも、金持ちばかり狙って貧乏人からは盗まねえとかで…義賊と持て囃されたり、噂の紅兎の仕業じゃねえかと囁かれた奴…」
「でも、蓋を開けてみたら、鼠小僧の忠吉(チューきち)とか言うコソ泥だったのよねえ。」
隣で、菜穂と和幸の痴話喧嘩から、こちらに関心を移した雪絵も続いて言った。
「それを、あのご自慢の刺青で、見事に解決してきたんでしょう。以来、シンさんは、遠山のシンさんって、呼ばれるようになったのよねー。凄いわ~。」
「ポヤ~!あの噂の桜吹雪だポニョ~。
ねえ、ねえ、シンさんの刺青って、そんなに凄いの~!見せて欲しいポニョ~!」
今度は、茜が三日月の目をお星様にして言い出した。
「ねえねえ、マサ兄ちゃんも見たいポニョ~!」
「オォーッ!見たいとも!」
政樹は、とにかく、茜の興味が和幸から逸れて、しめたっ!と、ばかりに相槌を打った。
「私も見たいでごじゃる~!」
朱理は、単純なる興味ではしゃぐように言った。
「シンさん、刺青見せて~!」
「出して!出してー!」
「シンさん!シンさん!シンさん!」
「刺青!刺青!刺青!」
やがて、その声は、歓声となって、連呼された。
「やむを得んなー…」
進次郎は、相変わらずの澄まし顔で、溜息を一つつくと立ち上がり…
「えぇぇぇーいっ!やあっかましいやー!!!」
ドンッ!と、それまで座っていた椅子に片足を乗せながら、荒げた声を張り上げた。
「貴様ら如き悪党に、二度三度、拝ませるのは勿体ねぇが、冥土の土産だ、とくと拝みやがれ!」
「オォーッ!良いぞ良いぞ!」
「シンさん、最高だ!」
進次郎が、諸肌を脱ぎ、肩から背中にかけて一面に描かれた、吹雪く桜の刺青をさらけ出すと、忽ち歓声が上がった。
「おうッ!あの晩、見事に咲いた、お目付桜、夜桜を、汝等(うぬら)見忘れたとは言わせねぞ!」
最初…
何となく乗り気でなく…
娘の教育を巡って、ちょっと拗れた痴話喧嘩の流れで、致し方なしに始めた事ながら…
「わあ!素敵!これが、噂のシンさんの桜吹雪ねー!」
「遠山のシンさん、良いぞー!」
「カッコいいポニョ~!」
皆の声が飛び交ううちに、進次郎も、だんだんと乗り気になり…
今や…
『またもや、一つ一件落着だぜ!主賓登場までの、良い座興じゃー!』
と、自分で自分に酔いかけていた。
ところが…
大きい声を出されると、少しでも胸や股間を隠すような仕草をすると仕置きされた、赤兎だった頃を思い出す希美は…
「着物を着てはいけまちぇん…身体(からだ)を隠してはいけまちぇん…」
蓄音器のように同じ言葉を繰り返しながら、次第に鼻を鳴らして、ベソを掻き出し…
遂には、大きな声を上げて、泣き出してしまった。
「もう!シンさん!」
菜穂が、ドーーーーンッ!と、食卓を激しく叩くと、一気にその場は、シーンと静まり返り…
「シンさんが、馬鹿声張り上げるから、希美ちゃん、怖がって泣いちゃったじゃない!」
「あ…面目ない…」
進次郎は、菜穂の剣幕にタジタジとなり、そそくさと着物を着なおして、むき出しにした、桜吹雪の刺青の諸肌をしまいこんでしまった。

兎神伝〜紅兎二部〜(13)

2022-02-02 00:13:00 | 兎神伝〜紅兎〜追想編
兎神伝

紅兎〜追想編〜

(13)厨房

「全く!里一さん、何やってんだ!せっかく、二人きりになれるようお膳立てしてやってんのに、 何にもならねえじゃねえか!」
皆と一緒に、愛と朱理を呼びに行った振りをして、密かに残って厨房を覗き見てる政樹は、イライラしていた。
「女なんてのはなー、しのごの言わず、さっさと押し倒して、する事しちまえば良いんだよ!もう!里一さん!」
「ポヤポヤ~?マサ兄ちゃんって、まーだ、男女の事、な~んにも、わかってないポニョ~。」
隣で並び、一緒になって覗きをしてる茜は、腕組みし、知ったかぶった顔して、首をフリフリ言った。
「こう言う事はね、課程が大事だポニョ、課程が。あーやって、最もらしい顔して、他愛ない話を羅列しながら、お互い、焦らしに焦らして、その気にさせて…最後に一気にしちゃうポニョ。私達もそうだったポニョ。」
「そう言えば…そうだったな。最初、恥ずかしがって、ちょっとでも手を握れば、顔を真っ赤に泣きそうになるお前を、一緒に菓子作って、味だの形だのの話をしながら、俺が徐々に気持ちを解してやったんだっけ…それで、ここぞと言うところで、一気に…」
「ポヤポヤ~?違うポニョ~。マサ兄ちゃんこそ、手を握る事もできず、舞い上がってろくに話もできなかったのを、私が、お菓子をつくりながら、それとなくすり擦り寄って…ほら、背中を掻いて欲しいってお願いして…手の位置を少しずつずらしてもらいながら、胸に触らせてあげたポニョ~。マサ兄ちゃんったら、ちょっと私の乳房に触れただけで、もう、お顔真っ赤っかにしちゃって、可愛かったポニョ~。」
「それはないだろう。茜ちゃんが、いくら肝心な話をしようとしても、すぐ顔を赤くして、お菓子の話にそらすから、痺れを切らした俺が、一気に押し倒して…」
「ポヤポヤ~?そうじゃないポニョ!そうじゃないポニョ!ちょっと胸やお尻を触らせただけで、顔を赤くして尻込みしちゃうから、こりゃー埒あかんと思って、私が帯といて、裸になって、一気にマサ兄ちゃんを…」
「いやいや、そうじゃない、そうじゃない…」
「ポヤ~?待って、マサ兄ちゃん、ユカ姉ちゃん、行動に出たポニョ~。」
「本当か?」
と…
覗かれているとも知らず…
「待って、それ、私が運ぶわ。里一さんは、洗い物をお願い。」
由香里は、大鉢いっぱい盛られたソーメンを運ぼうとする里一を慌てて止めて言った。
「なーに、心配いらねえっすよ。これくらい、あっしにだって運べやす。」
「駄目よ、危ないわ。」
と…
由香里は、大鉢を取り上げようとして、里一の手に触れてしまうと…
「アッ…」
と、声を上げて、手を引っ込めてしまった。
「由香里さん、どうしなすった!大丈夫でござんすか?」
里一が、慌てて大鉢を置いて、空を弄りながら、手で由香里を探し求めた。
「大丈夫よ!」
由香里は、フラフラ自分を探す里一の手を、慌ててとった。
「里一さんこそ、危ないわ。だって、里一さん…」
言いかけ、由香里が口をつぐむと…
「心配、ござんせん。あっしはめくらでも、由香里さんの姿はいつだって見えてござんす。」
里一は、さっと由香里の肩を抱いた。
「よっしゃー!イケイケッ!里一さん、それでこそ男だ!そのまま、押し倒しちゃえっ!」
「ユカ姉ちゃん!今ポニョ~。今こそ、里一さんの手を胸にいれちゃうポニョ~。でもって、そのまま寝床に引っ張りこんで…」
しかし…
物陰の政樹と茜の期待するようにはならず…
「大丈夫、これくらいのもの、あっしは軽く運べやす。」
また、赤面して俯く由香里の肩を離すと、里一は軽々と大鉢を、食卓に運んで行った。
「あっしはね、小さい頃から、何でも目あきと同じようにできるよう、訓練してきたんでござんすよ。」
ソーメンの大鉢を運び終えると、天麩羅を盛り付けた小鉢を運びながら話し始めた。
「親父さんに頂いた命、どうしても、みんなに認めて欲しくてねー。」
「里一さん、苦労してきたのね…」
由香里は、しんみり言いながら、一緒にお膳を食卓に並べ始めた。
「苦労だとは思っておりやせん。」
里一は、見えぬ目を、由香里の方に向けると、笑顔を浮かべて言った。
「あっしら仔兎神(ことみ)は、一月の間、産みの母の手元に置かれるでござんすよ。健康かどうか、見分ける為にね。それで、もし、あっしのようにめくらなのが分かると、産んだ母親は、健康な子を産まなかったと散々に折檻され、その母親の目の前で、子供は殺されるのでござんす。」
「知ってるわ…前の親社(おやしろ)様の時は、ここもそうでしたもの…雲雀(ひばり)姉さんの産んだ子も、ちんばなのがわかって、目の前で殺されたもの…
床上げ早々、拷問みたいな折檻もひどかったけど…その子が殺されたのが元で、気が触れて、死んでしまったのよ。
愛していた、萬屋の錦之介さんとの間にできた子だと思って、とても可愛がっていたからね…」
由香里は、遠い昔、可愛がり、事ある毎に身をもって庇ってくれていた、心優しい歳上の白兎を思い出して涙ぐんだ。
「でも、あっしは生き長らえる事が出来やした…」
里一は、大きく息を吐いて言った。
「親父さんが救ってくれやした。あっしを殺すように命じられた親父さんが、おっ母さん仕込みの仮死にする薬を盛って、死んだ事にして見逃してくれたんでござんす。
親父さんが、無かった筈のあっしの命を拾ってくれやした。だから、あっしは、親父さんを本当のお父っつぁんだと思っておりやす。その親父さんから頂いた命、価値がねえとみなした連中に、価値がある事を見せつけてやりてぇんです。だから、目開きと同じように何でもできるよう、特訓してきたでござんすよ。」
「そうでしたの…」
由香里がしんみり言うと…
「なーにが、特訓だー!」
またまた、物陰でまた、政樹が苛々し始めた。
「そんな特訓良いから、さっさと押し倒せ!もう!俺が、男の房中事を特訓してやらあ!」
「ポヤポヤ…本当、マサ兄ちゃんは、なーんにも知らなくて困っちゃうポニョ~。」
隣で、茜がため息ついて言う。
「あのね…あーゆー、湿っぽい話をして、情を引くのは、男女の駆け引きの基本中の基本ポニョ~。涙を誘う話をして、情引く…情にほだされたように受け止め、同調する…
そうやって、徐々に気持ちを高めてゆくポニョ~。
そろそろ、ユカ姉ちゃんの神門は濡れ出してるポニョ~。
でもって、ユカ姉ちゃんがメソメソし始めると、里一さんの穂柱が、少しずつ堅くなり始めるポニョ~。」
「そーかー?」
「そーよー。見てるポニョ~。これから、ユカ姉ちゃんは、手拭いを目頭に当ててメソメソしながら、里一さんにしな垂れかかるポニョ~。それで、里一さんは、慰めるように肩に腕を回しながら、胸元に手を入れて、乳房を弄って、唇を重ね…
後は、ゆっくり押し倒して、帯を解くポニョ~…
わあ!何か、だんだん、私の神門が濡れてきそうだポニョ~。」
「そーかー?」
「そーよー。本当、マサ兄ちゃん、まだまだ男女の事、なーんもわからなくて、困っちゃうポニョ~。後で、床の中で、しっかり教育してあげるでポヤポヤ…」
しかし…
「ポヤポヤ~?」
首を傾げる茜の前で、今、政樹に話して聞かせたような展開にはならなかった。
「ところで…
ユカさんは、どうして、此処を出なさらねえんでござんすか?
兎神子(ことみ)はとっくに解かれてると聞きやすぜ。」
里一が、不意に話題を変えて尋ねると…
「それは…」
言葉を詰まらせる由香里の代わりに…
「何、野暮な事聞いちゃってるポニョ~。」
今度は、思った通りの展開にならず、茜が苛々しながら言った。
「ユカ姉ちゃんが、此処を出て行かない理由は、一つに決まってるポニョ~。里一さんポニョ~。里一さんに会う為に決まってるポニョ~。」
由香里は、目と鼻の先で、興味津々な弟分と妹分が気を揉んでるとも知らず…
「此処を出てゆくのが怖いの…」
「怖い?」
「そう…また、あの子達が、いつもお腹を空かす事になるんじゃないかと…」
そこまで言うと、唇を噛んで俯いた。
「それはねえでござんすよ。」
里一は、漸くお膳が綺麗に並べられたのを、肌の感覚で確認すると、由香里を近くの椅子に座らせて言った。
「あいつらも、もう立派な大人でござんすよ。由香里さんが出て行きなすっても、ちゃーんとやって行けるでござんす。」
「でもね…」
由香里は、呟きながら、前の宮司の頃を思い出していた。
当時…
兎神子(とみこ)達は、飼われた兎以下の扱いを受けていた。
一日の殆どは、穂供(そなえ)目当ての参拝者の相手をさせられた。
兎神子(とみこ)の身体(からだ)目当てに来る参拝者がいなければ、社(やしろ)の神職(みしき)達、神漏(みもろ)達や神使(みさき)達に、寄ってたかって、弄ばれた。
まともな着物も着せて貰えず、食べ物と言えば、餌と呼ばれる残飯を投げ与えられていた。
それも、十分には与えられなかった。敢えて、いつも空腹にさせられていた。空腹でいた方が、穂供(そなえ)の際、穂柱を咥える時の吸い付きが良くなるとされていたのだ。
そうして…
粗相なく相手を勤め上げれば、若干、いつもより余分に食べさせて貰える時もあったが、一人でも粗相をしでかした時は、全員何も食べさせて貰えなかった。
そんな時…
厨房からは、いつも良い匂いがしていた。
覗くと、神職(みしき)達や神漏(みもろ)達が口にする、美味しそうなご馳走の数々が並んでいた。
由香里は、それを見て、いつも涎ではなく、涙を流していた。いつも、側でビービー泣いている、弟妹のように思っていた、幼い兎神子(とみこ)達に食べさせてやりたかったのだ。
ある時…
思い余って、厨房に並ぶ料理を盗んで、まだ小さかった、政樹と茜にこっそり食べさせてやった。
すると、政樹と茜は、夢中で食べながら、何とも言えない笑顔を見せた。いつも、激しい折檻と陵辱に怯えて、幼子らしさのかけらも見せた事のなかった二人が、こんな無邪気な顔をするのかと思った。
由香里は、それが忘れられず、何度も何度も、厨房に潜りこんで、食べ物を盗んでは、兎神子(とみこ)達に与えた。
しかし、あまりにも度々の事であったので、遂に露見する日がやってきた。
幼い兎神子(とみこ)達が、厨房のものを食べてる事が露見しそうになると…
由香里は、わざと、調理係の神人(じにん)達が見えるところで、厨房のものを貪り食って見せた。
『この、泥棒猫が!』
『兎の分際で、人様のモノに口付けるとは、とんでもねえ奴だ!』
神人(じにん)達は、凄まじい剣幕で罵りながら、薪木や箒を持ち、延々と殴る蹴るの暴行を加えた。
それだけでない。
『脱げ…』
雪の中…
全裸で木に繋がれて死にはぐってる美香の為に、僅かな汁物と粥を盗んだ時の事。
やはり、見つかってしまった由香里は、盗んだものを雪絵と茜に渡すと、わざと神人(じにん)に見つかるように、厨房のものを貪り食って見せた。
すると、神人(じにん)に告げ知らされた、前任の眞吾宮司(しんごのみやつかさ)は、境内の外に連れ出すと、皆の見てる前で着物を脱ぐように命じた。
『何してる、裾除けも取れ…』
そう言って、一糸纏わぬ姿にさせると…
『四つん這いになれ…さっさとなれ!』
由香里を思い切り蹴り倒し、蹲る由香里を何度も激しく蹴飛ばし、牛用の鞭で叩きのめした。
そして…
『おまえ、そんなに食い物が欲しかったのか?そうか、そうか、だったら、たーんとご馳走してやろう。』
ニンマリ笑って言うと、神人(じにん)に持って来させた、グツグツ音を立てて煮え立つ、鍋いっぱいの煮物を、傷だらけになった背中にぶっ掛けてきたのである。
由香里は、彼女が仕置きされる姿に大泣きする幼い兎神子(とみこ)達の姿を見回し、必死に悲鳴を堪えながら、ずっと思い続けていた。
厨房が欲しい。
あの厨房さえ手に入ったら、好きなだけ、あの子達に食べさせてやれる。
お腹いっぱい、美味しいものを食べさせてあげられる。
厨房が欲しい。
厨房が欲しい。
切に願い続けてきたのだ。
そうして、前任の宮司(みやつかさ)が禰宜や権禰宜(かりねぎ)達と共に失踪し、その他の神職(みしき)達や神漏(みもろ)達も解雇されると、念願の厨房が手に入った。
しかし…
調理などした事がなかった由香里は、料理とは、茹でたり焼いたりした、野菜や魚に、調味料をぶっかけるだけだと思っていた。とにかく、山程食べさせる事しか考えてなかった、由香里の出す料理は、食えたものではなかった。
それでも、由香里がどんな気持ちで生きてきたか知ってる兎神子(とみこ)達は、その不味いなんてものではない料理を、必死に嬉しそうな顔を作って、喜んで食べて見せたのである。
しかし、作った当人である由香里が、それを口にして、思わず吐き出した。来る日も来る日も、自分で作った料理を口にしては、思い切り吐き出しながら、せっかく厨房が手に入っても、幼い兎神子(とみこ)達に美味しいものを食べさせてやれず、泣き続けたのである。
そんな時、里一が社(やしろ)を訪れ、調理を一から仕込んでくれたのであった。
「由香里さんは、本当に頑張りやしたよ。あっしは、幼い弟分や妹分達に、美味えものを食わせる事に一途な由香里さんに…」
里一が、由香里に背中を向けて言いかけると…
「言えっ!里一さん、言うんだ!男だろう!」
「そうよ!頑張っるポニョ~。里一さん、頑張るポニョ~。」
目と鼻の先の物陰で、政樹と茜が、手に汗握って、熱く声援を送っていた。
しかし…
「どうしたの、里一さん?」
おし黙る里一に、由香里が首を傾げると…
「いえ、何でもありやせん…」
里一が、大きく息を吐いて振り向き…
「さあ…みんなが戻って来る前に、洗えるものは、洗っておきやしょう。」
言うなり…
「ありっ….」
「ポヤポヤ…」
政樹と茜は、思わず前のめりにこけ落ちそうになった。
由香里は、黙々と洗い物を始める里一の後ろ姿を見つめながら思った。
いつからだろう…
自分では、歳下の兎神子(とみこ)達を満腹にさせるのが使命だと思っていた。自分が食べなくても、飢えていても、あの子達のお腹を膨らせる事の為だけに生きていると思っていた。
でも…
いつの頃からか、もう一つ、生きる道を見出すようになっていた。
それは…
この背中を見る事だった。
たまに訪れては、調理の手解きをしてくれる見えない人…
彼には光がない。
彼に見えるものは何もない。
その彼が、調理のイロハも分からなかった自分に、厨房の光を当ててくれた。
初めて、自分の手で作った料理…
それは、冷ソーメンであった。
今となっては、自分にとっては特別な料理…
この世で最も美味しい料理を、見せてくれたのだ。
次に覚えた美味しい料理は、鍋であった。
そうやって、彼が訪れる度に、厨房に眩い光が差し、新しい料理を見させてくれる。
それが…
いつの頃からか、彼自身が、眩い光となっていた。
この人は光…
眩い自分の光…
この光に照らされる為に、生きているのだ…
この光に照らされる為に、生まれてきたのだ…
由香里は、そう思うようになったのである。
「あっ…里一さん、危ない…」
里一が見えない目で、包丁を洗おうとした時…
思わず、彼のそばに駆け寄り、由香里は逆に取り上げようとした包丁で、自分の指先を切った。
「大丈夫でござんすか?刃物にいきなり手を出しては、危のうござんすよ。」
里一は、隣で軽く声を出す由香里の手を取って言った。
「大丈夫よ、里一さん。」
由香里が、指先を切った手を後ろに隠そうとすると…
「大丈夫じゃないでしょう。怪我してるじゃあ、ござんせんか。」
里一は、懐からいつも持ち歩いている傷薬を取り出し、由香里の手当てを始めた。
「うわっ!バカッ!違うだろう!そこは、指を舐めてやらなきゃー!」
またもや、物陰で、政樹が地団駄踏んで言った。
「ポヤポヤーーーッ!もうっ!唐変木!この絶好の機会なのに!女はね!こう言う時、指を舐められるだけで、濡れちゃうポニョ~!もうっ!私が濡れてきたってのにポニョ~!後は、さりげなく唇を吸って、乳房を揉んであげれば…」
茜も続けて唇を噛み締めると…
「何でも良いけど、茜ちゃん、痛え…」
政樹が頭を抑えて言った。
茜が、苛立ちの余り、前にしゃがみ込む政樹の頭をポカポカ叩いていたのだ。
そんな覗き魔の事など露知らず…
「あっしの事は、心配しねえでおくんなせえ。この目は、何でも見えておりやすから…」
里一が言うと…
「でも…せめて、私の前では、危ない事はしないで…
その…
いつも、側にいて差し上げられないけど…せめて、ここにいる時だけは、私、里一さんの目でいたいの…」
由香里は一気に言って、頬を赤くした。
「何の…
由香里さんは、いつだって、あっしの目であり、光でござんすよ。」
里一もまた、そう言うと、頬を熱らせた。
「里一さん…」
「由香里さんが居てくれやしたら、あっしは、何でも見えるんでござんす。由香里さんがおいでになるここは、いつだって、光輝いてござんす。だから…」
ずっと、側にいて欲しい…
里一は、最後の一言を呑み込んで、代わりに由香里の手を握りしめた。
「よしっ!行けっ!その調子だ!」
またもや、政樹が、物陰で手に汗握り出した。
「ポヤポヤ~!ユカ姉ちゃんも頑張るポニョ~!里一さんに、抱いて欲しいんポニョ~!もう、五年近くも、里一さんに抱かれる夢ばかり見て、参道をムズムズ、神門をビショビショにしたんでポニョ~!」
と、茜は何故か自分が股間に手を強く押し当てて、モジモジし始めた。
「どうした、茜ちゃん?オシッコ我慢してるのか?」
政樹が首を傾げると!
「バカッ!」
茜は、政樹の頬を引っ叩いた。
「ユカ姉ちゃん、ここはもう、あと一押しポニョ!思い切って、両肌脱いで、お乳出すポニョ!それで、しのごの言わせないで、押し倒しちゃうポニョ!唇吸って、強く乳房に手を押し当てさせちゃうポニョ!そうしたら、もう、完璧だポニョ!」
茜は、何故かまた、自分が股間に手を押し当てて、モジモジしながら、熱くなった。
しかし…
茜の期待通りには展開せず…
「でも、由香里さんに心配かけちゃあ、申し訳ねえ。ここは、刃物はお任せいたしやしょう。」
里一が言うと…
「うん。」
由香里は満面の笑みで頷いた。
「さあ、みんなももうすぐやって来るでござんしょう。急いで、洗い物を片付けやしょう。」
「うん。」
もう一度、由香里が頷いて、里一の顔を見上げると、里一の見えない筈の目線が、何故か由香里の目線と絡み合い、二人は幸せそうな笑みを交わした。
「ポヤポヤーーーーッ!!!なんなのポニョ~~~~!!!!」
茜は相変わらず股間を強く押さえてモジモジしながら、もう片方の手で、政樹の頭をポカポカ叩き出した。
「だから、痛えって!」
政樹が、また、頭を抑えて言うと…
「ポヤポヤ…マサ兄ちゃん…」
茜は、今度は涙目を、まっすぐ政樹に向けた。
「どうした…やっぱり、オシッコに行きたいのか?」
政樹が首を傾げて言うと…
「ポヤポヤ…あんな中途半端見せられて…身体は火照るポニョ~…参道の疼きは止まらないポニョ~…どーしたら良いポニョ~…」
茜は、ますます涙ぐんで、べそを掻き出した。
「なーるへそ、そーゆー訳か。」
政樹が、ポーンと右拳で左掌を叩くと…
「そーゆー事なら、兄ちゃんに任せとけ!今、そいつを鎮めてやるからな。」
そう言って、茜を抱きしめながら、裾除けの中に手を忍ばせた。
「アン…アン…そこ…そこが…」
茜が、甘えるような声を上げると…
「そうだな…確かに、こんなに疼いてるんじゃあ、辛いだろう。兄ちゃんが、今、楽にしてやるかなら…」
「本当?本当に、鎮めてくれるポニョ~?」
言いながら、自分から両肩脱いで、前より幾分膨よかになりかけた可愛い乳房を剥き出して見せた。
政樹は、思い切り鼻の下を伸ばして、満面の笑みを浮かべると、答える代わりに、唇を吸い上げていた口を、うなじに這わせながら、ゆっくり乳首に運んで言った。
「アン!アン!マサ兄ちゃん、好きポニョ~!誰に何を言われても良いポニョ~!されても良いポニョ~!私、マサ兄ちゃんが好きポニョ~!愛してるポニョ~!」
茜は、可愛い乳首を舌先で転がされ、吸われながら、一層、甘えるような声を上げて言った。
その時…
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、オッパイ、オッパイ、チューチューしてるよ!チューチューしてるよ!」
突然、横から、何ともあどけない大きな声が聞こえてきた。
いよいよ、出来上がりかけた政樹と茜が、慌てて振り向くと、例のオカッパ頭が、ニコニコ笑いながら、ジーッとこっちを見つめていた。
「うわっ!」
「ポヤポヤッ!」
政樹と茜は、思わず声を上げると…
「うわーーーっ!覗きでごじゃるよーー!!!覗きでごじゃるよーーー!ここに、覗きがいるでごじゃるよーーーー!!!」
甲高い声が響き、今度は、由香里が血相変えて、厨房から飛び出してきた。
「まあ!あんた達!!!!」
そこには、同じ格好で腕組みする朱理と希美に、ジーッ睨みつけられ、バツ悪そうに頭を掻く政樹と茜がいた。
「エヘヘへ…」
「ポヤポヤ、ポニョ、ポニョ…」
政樹と茜は、眉に皺寄せ、口をへの字にした由香里に見下ろされると、思い切り笑ってごまかそうとした。
次の刹那…
「あんた達、さっきから、ずーーーーっと覗き見してたんだー!」
言うなり、由香里は思い切り、拳を振り上げた。

兎神伝〜紅兎二部〜(12)

2022-02-02 00:12:00 | 兎神伝〜紅兎〜追想編
兎神伝

紅兎〜追想編〜

(12)赤子

「爺じ、お帰りなさーい。」
障子を開けると、明るい声が一斉に私を出迎えた。
私は、暫し目を瞑る。
まだ、愛と赤子と向き合う心の準備ができていない…
幼い身での出産にしては、愛は然程の難産ではなかった。
助産の腕は天才的とも言える亜美が、助手を務めてくれた事もあるのだろうが、意外な程、呆気なく赤子は生まれ落ち、私の腕の中で元気よく産声をあげた。
『愛ちゃん、産まれたよ。女の子だ。』
愛は、ただにこやかに、私から赤子を受け取り、その胸に抱いた。
まだ、膨らみかけたばかりの乳房なのに、乳はよく出て、赤子は元気よく飲み始めた。
『アッちゃん、ありがとう。君のおかげで、無事に産まれたよ。』
私の言葉に、返事はなかった。
今までなら…
『フン!あんたの為にやったんじゃないよ。サナちゃんが、赤ちゃん助けてって言うから、仕方なくやったんだ。礼なら、サナちゃんに言いな。』
と、そっぽ向いて答えるところなのだが…
その日は、やはり無表情の無反応であった。
『亜美姉ちゃん、ありがとうね。』
愛しそうに赤子を抱きながら、笑顔を傾ける愛にも、愛の産んだ子も見ようとせず、亜美はその場を去って行った。
そして、残された私と愛と赤子の三人…
『見て、もう寝ちゃったわ。』
愛は、お腹が膨れるとすぐに寝息をたててしまった赤子を見て、クスクス笑いだした。
『何て、可愛んだろう。』
愛は、嬉しそうな笑顔を向けて、私の顔を見上げた。
私は、何と答えて良いかわからなかった。
愛に抱かれた時、深い安らぎと眠りがあった。
愛が身篭った時、至福の喜びと充足感があった。
しかし…
漸く産まれ出た我が子の顔を見た時…
深い悲しみと無力感に襲われた。
この子は…
雪解けを待って、和邇雨一族が取り込みを画策している家に、養子に出されて行く。
一生、和邇雨一族の野望陰謀の道具にされて生きる定めにある。
何の為に産んだのだろう…
何の為に産まれてきたのだろう…
愛の皮剥を阻止できなかった。
愛が目の前で始終玩具にされてるのを見ている事しかできなかった。
早苗と智子が願っていたように、私は愛を拾里に送る画策をしていた。
愛が使い物にならなくなったと言う事にして、拾里に送り込む…
それ事態は、そう難しい話ではない。
実際…
そうやって山林に捨てられた赤兎は過去五万といる。
しかし、愛は拾里行きを望まなかった。
『私が拾里に行ったら、次は誰が赤兎になるの?』
『それは…』
私が答えに詰まると…
『舞ちゃん?』
愛は、実に大人びた静かな眼差しを向けて尋ねた。
『舞ちゃんは…君の妹はならない。一度、赤兎を出した兎神家(とがみのいえ)からは、赤兎を出さないのが慣習だ。』
私が硬く目を瞑って答えると…
『それじゃあ、誰?』
私は何も答えず沈黙した。
『誰かは、赤兎に兎幣されるのよね…』
次の愛の問いにも、私は沈黙した。
『きっと、舞ちゃん…自分から赤兎になると言うわ。』
私が思わず目を見開くと、愛はまた大人びた眼差しを向け、大きく頷いた。
『あの子は、そう言う子なのよ…』
『いや、それはない!絶対にない!私が、そんな事…』
『あの子はね…』
愛は、慌てて打ち消す私の言葉を聞き流すように話し続けた。
『舞ちゃんは、自分が最初の田打で泣き出した事で、私が赤兎に兎幣された事を、ずっと悔やみ続けていたの。
私が道端で大勢の男達に穂供(そなえ)をされているのを、遠目に見てはずっと泣いていたの。
それで、ある時期から、自分が代わりたいと言い出した…』
知っている。
愛の父、山田屋隆夫が、泣きながら私に話していたから…
舞は、今すぐ自分を赤兎に兎幣して欲しい…
自分が赤兎になるから、愛を自由にしてやって欲しいと、泣きながら毎日訴えていると…
一度、兎幣された赤兎は、何があっても解かれる事はない…
そう告げると…
なら、次の赤兎には自分が兎幣されると言って、自ら着物を脱いで、田打するよう父に求めたと言う。
隆夫が、赤兎を出した兎神家(とがみのいえ)から、次の赤兎は兎幣されない事を告げられると…
『それなら、お姉ちゃんが赤兎でいる間、私も着物着ない…ずっと裸でいる。私が裸になって、少なくとも河曽根組の神漏(みもろ)様達や若様達には、私が何でも言う事を聞くから、お姉ちゃんに酷い事をしないようにお願いする…』
そう言って、どんなに父や母と義母に窘められても、決して着物を着なくなったのだと言う。
結局、河曽根組の連中が、舞に手を出す事はなかった。
私が舞に指一本でも触れれば、河曽根鱶見家(かわそねふかみのいえ)の断絶をほのめかせたのもあるが…
最近、康弘連(やすひろのむらじ)の思惑で選出された、鱶見社領(ふかみのやしろのかなめ)の神使(みさき)筆頭である、大使主(おおおみ)の河金丸信使主(かわかねまるのぶのおみ)が、舞に手を出そうとした河曽根組の子弟を告発したのが大きかった。
元々、康弘連(やすひろのむらじ)と肌が合わず嫌悪していた河金丸信使主(かわかねまるのぶのおみ)は、何故か自分を気に入り大使主(おおおみ)に取り立てられた後も、それは変わらず、絶えず康弘連(やすひろのむらじ)の足を引っ張ろうとしていた。
その一貫として、愛の妹の舞に手を出そうとする子弟を告発した。
康弘連(やすひろのむらじ)は涼しい顔して、自ら舞に手を出した河曽根組の子弟を断罪した後…
『怖かったろう?うちの門下衆が、酷い事をしてすまなかったね。』
その日も全裸で町を歩く舞を呼び止め、謝罪して言った。
『舞は良い子だ。姉の為に自ら着物を脱ぎ捨てて、身代わりになろうとするなんて、何て健気なんだ。
そんな健気な子に酷い事をするなんて、二度と許さないよ。
それに…
赤兎の家族は、次の赤兎にならないのが慣習だ。
次の赤兎は…』
そして、舞の耳元近く囁いて告げたのは、山田屋隆夫同様、居店座頭、林屋木久蔵に可愛がられている兎神家(とがみのいえ)…
柳屋小太郎の娘である小雪の名であった。
『あの子、自分の代わりに私を赤兎にした上、今度は幼友達の小雪ちゃんが赤兎にさせられるなんて、絶対望まない…
もし、どうしても私の妹である事を理由に自分が赤兎に兎幣されず、小雪ちゃんが兎幣されたら…
死ぬまで、着物を着ないで、全裸で過ごし続ける…
あの子は、そう言う子なの…』
『わかってる…』
私は、愛の言葉にジッと耳を傾けた後、重い口を開いて言った。
『だから、小雪ちゃんも、決して赤兎にはしない…させない…何としてでも…』
すると…
『そうしたら…今度は小雪ちゃんが傷つくわ…』
愛は、目に涙を溜めて言った。
『あの子は、自分が親友の舞ちゃんの身代わりに赤兎になるつもりで、既に始まってる田打に耐えている…
舞ちゃんの為だけじゃない…
自分が赤兎になる事で、自分が赤兎でいる間、誰も赤兎にならずに済む…
それを支えに、毎日、父親からどんな痛い事や恥ずかしい事をさせられても、耐えている。
だのに…』
『愛ちゃん…』
『神領(かむのかなめ)の決まりは誰にもどうにもできないわ。例え、親社(おやしろ)様でも…
でも、せめて、私が赤兎でいる間は、他の誰も赤兎にならずに済む。私が赤兎でなくなるまで、みんな…
だから、私…』
私は、それ以上、愛の言葉を待つ事なく、ただ黙って愛を抱きしめるしかできなかった…
結局…
十二の歳まで、赤兎でいさせる事になってしまった…
そして、産まれてきた子…
愛の為に何もできなかった私は、この子の為にも何もしてやれない…
何と無力なのだろう…
『親社(おやしろ)様、どうしたの?この子、可愛くないの?嬉しくないの?親社(おやしろ)様の子なのよ。』
愛は、私の顔を見つめながら、次第に悲しそうな顔をして言った。
『いや、嬉しいとも。可愛い子だ、良い子を産んでくれて、ありがとう。』
私がそう言って、愛の頬を撫でてやると、愛はまた嬉しそうに笑った。
そうとも…
束の間であっても、精一杯の愛情を注いでやろう…
それで…
連れられて行く日には、愛と共に泣こう…
連れられた後は、生涯、この子の事を思って苦しみ続けよう。
それで消えはしないが、精一杯の償いをし続けよう。
私は、心を決めると、ゆっくりと目を開けた。
「もう!爺じ、遅い!」
まず、ブンむくれた菜穂の顔が目に入った。
「まあまあ、そう怒らない怒らない。父親って、こう言う時、心の準備が大変なんだ。」
次に、嗜めるつもりで言い…
「何が、心の準備よ!一人でずっと赤ちゃんと待ち続けた、愛ちゃんの身にもなって!だいたい、本当なら一日だって側を離れたくない愛ちゃんから、爺じが離れなくちゃならなかったのは、誰のせいなの!お父さんが、呑んだくれて迷子になったせいでしょう!」
返って、菜穂に叱られる羽目になって、タジタジとしている和幸の姿。
次に、相変わらず無愛想だが、優しい眼差しを向ける秀行。
「アッちゃん!」
思わず声を上げると、亜美は一瞬、ハッとなり…
「アッちゃんも、来てくれたのか!」
私が言うと、忽ち、怒りとも憎悪ともつかぬ形相で睨みつけ、プイッとそっぽを向いてしまった。
『この人殺し!あんたが、殺した!あんたが、サナちゃんを殺したんだ!』
『その通りだ…私が、サナちゃんを殺した。この手で、サナちゃんを殺した。』
『許さない!絶対、絶対、あんたを許さない!殺してやる!あんたを殺してやる!』
『良いよ…サナちゃんを殺した私を殺すと良い。もし、あの世で会えたなら、あの子に君の悲しみを伝えて、謝ってこよう。』
早苗が逝った日…
私に、激しく掴みかかり、殴りつけてくる早苗に、されるがままになっていた私は言うと、懐から匕首を抜いて、亜美に渡した。
『さあ、それで私の胸でも腹でも好きな所を指すと良い。一思いに殺してくれとも言わん。サナちゃんが味わった分、私も同じ痛みを味わおう。」
すると…
しばし、匕首を握りしめて、刃を見つめて震えていた亜美は…
『やめた!』
不意に、匕首を放り投げるや、そっぽを向いてしまった。
『あんた何か、殺す値打ちもないわ!私、絶対、あんたを許さない!一生かけて、あんたを恨んでやる!憎んでやる!そんな私をみて、死ぬまで、サナちゃんを殺した事を思い出して苦しむと良いわ!あの子が、どんな風に苦しんで、泣き叫んだか、思い出すと良いわ!』
そして…
それを実行するかのように、ひたすら憎悪の眼差しを私に送り続けてきた。
そう…
早苗が産んだ子が、連れ去られて行くその日まで…
あの眼差しを、今、また向けてきていたのだ。
それで良い…
私を憎む事で、また生きられるなら、一生、私を憎み続けると良い。
「ジャジャーン!!!」
漸く、私に目を向けられると、朱理が待ってましたとばかりに、二本指で鼻の下を擦りながら愛を前に突き出してきた。
「エーーーッヘン!エーーーーッヘン!どーだー、凄いじゃろう!!!!」
私は、思わず息を飲み込んだ。
元々、大人びた子だとは思っていたが…
白無垢を着込み、綿帽子から仄かに垣間見える愛の澄まし顔は、凡そ十二歳の少女とは思われぬ、成熟した色香を漂わせていた。
「愛ちゃん…君は、本当に愛ちゃんなのか?」
私が尋ねると、物静かに俯いていた愛は、仄かな紅を差す口元を綻ばせると、小さく頷いて見せた。
私が憑かれたように魅入っていると…
「テヘヘへ…ほーら、愛ちゃん、もっと顔を見せてあげなよ。」
何故か、朱理が思い切り照れながら促すと、愛はそっと綿帽子に手を添えて、中の顔を出して見せた。
私は、また息を飲み込む。
朱理が、着付けと一緒に、ほぼ一日かけて施した化粧も良かったのだろうが…
伏せ目がちだった、大粒な瞳の眼差しをまっすぐ向けられた時、何とも言えぬ美しさに、鼓動が高鳴るのを感じた。
同時に…
かつて、太郎率いる悪餓鬼達や黒兎達と境内や裏山を駆け回り、泥まみれになっていた幼い少女はもういない…
そんな寂しさと、赤兎として過ごした三年の月日が、子供から子供らしさを奪ってしまったのだと言う胸の痛みも感じた。
それは、共に側に立って愛を見つめる太郎も同じだった。
恋い焦がれる少女に見惚れると言うよりは、痛々しい胸の疼きを堪え、俯いていた。
すると…
「お帰りなさい、爺じ。」
愛は、突然、悪戯っぽい笑みを満面に浮かべたかと思うと、十八番の片目瞬きをして見せた。
「おいおい、愛ちゃん…君まで、爺じなのかい!」
私が、苦笑いして言うと、それまで何処か張り詰めていたその場が、一気に爆笑の渦に包まれた。
「へん!こいつに、爺じ何て、勿体ねーや!」
今にも泣きそうにだった太郎も、着物が立派なだけで、中身が何も変わってない愛に元気付いたのか、急に、いつもの悪態をつきだした。
「こいつにはなー、クソジジイで十分だぜ。」
「まあ、酷い!」
ついさっきまで、十二の少女とは思えぬ大人の色香を漂わせていた愛もまた、既に昔のお転婆な少女に戻り…
「私の大事な人に、クソジジイ何てあんまりよ!そんな事言うなら、もう遊ばない!」
口を尖らせ、プイッとそっぽを向いた。
「そんな、愛ちゃん…」
忽ち、太郎がしょげると、愛はニコッと笑い…
「太郎君、お久しぶり。今日は来てくれてありがとう。」
十八番の片目瞬きをして見せると、今度は、太郎は頭をかきながら顔を真っ赤にした。
そこへ…
「もう!爺じったら、大事な事を忘れちゃダメでごじゃるよ!」
さっきから、痺れを切らしたように、私を見守っていた朱理が、すかさず口を出してきた。
「大事な事?」
私が思わず首を傾げると…
「愛ちゃん、一日かけて、こーんなにめかし込んだのは、誰の為だと思ってごじゃるか?
何か言う事あるでごじゃろう!」
「ああ、そうだった、そうだった…愛ちゃん、綺麗だよ。とっても綺麗だ。」
「ありがとう、爺じ。」
私が、朱理の言う大事な一言を漸く思い出して言い、愛が嬉しそうな笑顔を満面に浮かべるのを見て…
「うんうん、これで良いのじゃ、これで良いのじゃ。」
朱理が胸張って腕組みして言うと…
「そう言う、アケちゃんも、今日は一段と美しゅうござるぞ。」
進次郎が、後ろから顔を出して言った。
「まあ!進次郎様!」
朱理は、思わず声を上げると、顔を真っ赤にした。
「こらこら、私に様付けはなしだと、前からの約束ではござらぬか。私の事はシンさんと呼んでくれってね。
でも、本当に綺麗でござるよ。」
「そうでしょう、私もさっき見て、凄く驚いたのよ。」
菜穂が横から口を出して言うと、朱理はますます顔を赤くした。
「だってねえ…アケ姉ちゃん、私の着付けと同じくらい、自分がめかしこむのにも、時間かけていたものね。」
愛が、また片目瞬きをして言うと…
「ほほう…それはまた、一体、誰の為でござろう。」
進次郎は、広げた手で鼻の下を擦りながら、いかにも疑問に思っているような物言いで言った。しかし、目線は既に、和幸の方を見つめてる。
「決まってるじゃーないの。人のおめかしにはやたら関心持つ癖に、自分の身なりを殆ど気にしないアケちゃんがめかしこむ理由と言ったら…」
「そそ、めかしこむ理由といったら…」
雪絵と竜也は、一瞬、二人してまんじりと和幸の方を見つめた後…
「ねえ。」
「ねえ。」
と、二人は顔を合わせて、同時に頷きあった。
「ウォッホン!ウォッホン!」
和幸が、むせこむような咳払いをすると…
「だのに、お父さんったら、冷たいのよ!アケ姉ちゃんのおめかしに、全然気づいてあげないで、愛ちゃんの事ばっかり褒めてさ!」
菜穂は、また、クドクドと和幸に説教を始めた。
「お父さんが、トモ姉ちゃんと拾里に行く時は、物凄く強がっていたけどね、いざ、居なくなってから、毎日泣いてたんだからね。その拾里でも、いなくなっちゃったって聞いてからは、もう…心配で何も食べられなくなるし、寝る事も出来なくなるし…みんな、お父さんと同じくらい、アケ姉ちゃんの事を心配したんだからね。だのに…アケ姉ちゃんのおめかしに気づかないどころか、アケ姉ちゃんの方を見ようともしないで。お父さんが、こんなに女の子の気持ち知らない人だと、思わなかったわ。それに…」
あの淑やかで、大人しかった筈の菜穂が、何がどう彼女を変えたものか、開いた口が延々と止まらないのを見て、皆、呆気に取られる中…
「おい、名無し…じゃなくて、爺じだったな。」
純一郎が、私の袖を引いてきた。
「ジュン、その呼び方はもう…」
私が苦笑いして何か言いかけると、純一郎は、ニィッと笑いながら、軽く顎をしゃくって見せた。
私はまた、忘れかけていた胸の疼きを思い出した。
愛の赤子は、揺かごの中で、スヤスヤ気持ち良さそうに眠っていた。
私が一月に渡って、二人参籠所にこもり、愛に身篭らせた子…
やがて…
和邇雨一族の思惑の道具として里子に出される子…
里子に出すのはこの私だ…
どんな顔して抱けると言うのだ…
すると…
「爺じ、爺じ…」
それまで、揺かごの赤子を嬉しそうに見つめていた希美が、不意に私の方を向き…
「赤ちゃん、赤ちゃん。」
そう口走りながら、手招きしてきた。
私が憑かれたように、側に行くと…
「爺じ、赤ちゃん、かーいーねー。」
希美は、私の顔を見上げ、ニコニコ笑って言った。
「そうだね、可愛いね。」
私もまた、希美の頬を撫でながら、笑いかけて言うと、何故か、ごく自然に、赤子を抱き上げていた。
そして…
赤子は、急に目を覚まし、ぱっちり開けた目で私を見たかと思うと、ケラケラ笑いだした。
「よしよし、良い子だ良い子だ、よしよし…」
ごく自然に口走りながら、改めて赤子を見つめた時…
私の胸から、憂いと無力感…心の疼きは消え、代わりに、暖かい赤子の温もりと、愛しい思いがいっぱいに広がっていた。