朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

いい子にならなくてもいいのだそうです。私たち。

2013-08-02 22:47:45 | 聖書から
いつまで、

あなたは

わたしの前に身を低くするのを

拒むのか。

出エジプト記10:3






 だれでも

高ぶる者は

低くされ、



へりくだる者は

高められる。

ルカ18:14




(ローズンゲン日々の聖句8/3;土)






自分で自分が存在出来ている、

自分が自分の主人、

良し悪しの判断は私がする

という人が

善悪を知る者

(創世記3:22)

なのでしょうか。




そして、

自分の力で

戒めを守ろうと

努力し、



守れていると

自分を評価し、





そうしない

他の人を

批判している人。





でも、

その心は

あの方の思いとは

遠く隔たっているのですね。





家出をした弟に対する父親の態度を批判している、

まじめ人間の

兄息子のような

(ルカ15:11~32)。






自分の実体を正直に認めて、

あの方の許に帰って行くとき、



あの方は

大喜びで迎え入れてくれ、



今の

ボロボロの着物を脱がせて、

一番良い着物

(義の衣でもあり、

更には

霊の体とか

復活の体とか

呼ばれている

新しい体のこともさしているのでしょうか)

を着せて下さり、



子どものしるしとしての指輪をはめて下さるのだそうですね。




一生懸命、

良い子を演じたり、

立派になろうとしなくてもいいようですね。



この取税人のように

「神さま。

こんな

罪人の私を

憐れんでください」と、



このままで、

あの方の前に出て行けば、



後は

あの方のほうでやって下さるのだそうです。



だから

ついて行けばいいのだそうです。

あの方に。



今日も。



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何一つ欠けた所のない、非のうちどころのないものにしていただけるのだそうです。私たち。

2013-08-02 00:07:08 | 聖書から
主である私はぶどう畑の番人。常に水を注ぎ、害する者がないよう夜も昼もそれを見守る。イザヤ書27:3
平和の神ご自身があなた方を全く聖なる者として下さり、あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けた所のない者として守り、私達の主イエス・キリストの来臨の時、非のうちどころのない者として下さるように。Ⅰテサロニケ5:23
  (ローズンゲン日々の聖句8/2;金)
ぶどう畑の番人が、畑に水を注ぎ、ぶどうを見守るように、あの方は、ご自身の養子になることを受けとった者たちの世話をして下さり、見守ってくださっているのですね。
霊も魂も体も欠けた所がなく、非のうちどころのない者として下さるのだそうです。告訴する者がどんなに激しく訴えても大丈夫なのですね。私たちは、既に、御子である方の十字架刑での処刑に合わせられて、死刑執行済みにしていただいているので、もう、受けるべき刑罰は残っていないのだそうですから。
私たちの生まれたときからの霊は処刑されたものとみなされとおり、聖霊とお呼びしている方が来て下さることによって、新しい霊が私たちの内に誕生しており、天の神、主の御思いと一つ思いが私たちの魂に満ちるようになっていくのだそうですから。
体については、年齢とともにどんどん弱っていきますけれど、その日、イエス・キリストがもう一度来られるそのときには、一瞬にして、新しい体、霊の体に変えていただけるのだそうですものね。若々しい新しいからだになって、飛び跳ねてあの方を賛美するのですね。私たち。
待ちどおしいですね、その日が。今日も。